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最も近い他人

 都市が発展するとともに人が都会に集まるので、知らない人たちがお互いに近くに住み、近くで行動し、お互いに交流することになる。これまで全く知らなかった人たちもお互いに交流し合って仲間になったりする。

 しかし皆が仲間になれるわけではなく、人が集まれば集まるほど知らない赤の他人達に囲まれて、その中でごくわずかな人たちとだけ交流しているのが普通である。したがって人と人の距離は近くなるが、仲間ではない知らない人たちに囲まれて生活することになる。

 そう言った場合、人は人と付き合う時には自然と一定の距離を置いて付き合うことになるものである。その距離は民族や文化などによって違うようで、どこかで列を作って何かを待つような時の前後の人との間の距離は国によってその距離の取り方が異なるようである。

 ところが都会の日常ではそんなことを言ってられないことも起こる。その典型的な姿がラッシュアワーの通勤電車の中の光景であろう。最近はあまり通勤時間帯に電車に乗ることが少なくなったので少し実情に疎くなったが、高度成長時代のようなことはないにしろ、今でも東京などでは場所と時刻によっては乗車率が230〜240%などという電車もあるようである。

 こう混雑どころかすし詰めにされては、もう新聞は言うに及ばず、本どころかスマホさえ見ることも出来ず、知らない他人同士が体を密着させて走る電車の振動に任せて、押し合いへし合いじっと耐えて運命をともにするよりない。先日このラッシュアワーを経験したアフリカからの留学生が、それでも乗客が黙って我慢している姿にびっくりして、「アフリカだったら皆一斉に歌でも歌いだすよ」と言っていた。

 そんな時に乗客達はどんな顔をしているのかというと、大抵は眼をつむってじっと我慢しているようである。近くの人と目があったりするのを避け、トラブルに巻き込まれないよう黙って列車の振動による人の動きにも逆らわないようにするのがコツのようである。

 普通の場合にはいくら他人に近づくと言っても、恋人同士ででもない限り、こんなラッシュアワーの電車の中のように体をくっつけることはありえない。しかし、こんなに無理やり異常な事態に放り込まれても、それが毎日のことで避けられないとなると、じっと我慢するより仕方がない。皆が諦めて成り行きに任せて我慢しているのがこのラッシュアワーの光景なのだろう。

 駐車場の見つからない都心では庶民は電車で通勤するよりない。毎日毎日通勤でこんなに人権を犯されるのを我慢して通勤し、その上長時間勤務を強いられ、それでも反乱も起こさず黙々と運命に従っている姿。それが当たり前になってしまっているサラリーマンこそ考えてみれば、それこそ奴隷か荷物並みに扱われても、非難の声さえ上げられない異常で哀れな存在と言えるのではなかろうか。