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科学者の戦争責任

ヒトラーと物理学者たち 科学が国家に仕えるとき」という本の書評が新聞に出ていた。フィリップ・ボール著の翻訳で、中身は戦時中のドイツの物理学者マックス・プランクやハイゼンベルクなどがナチ政権の民族差別的科学技術政策を後押しすることになった経過などについてのもののようである。

 詳しい内容は読んでいないのでわからないが、この国の世情が次第に戦前の不穏な雰囲気が醸し出されている時に、時宜を得た出版のように思う。戦争中の科学者への戦争協力については戦後世界的に広く反省がなされ、科学が再び戦争に利用されることのないように、科学者たちの種々の宣言もなされたことはまだ記憶に新しい。

 しかし時代が移り、戦争がなくならないばかりか、世界のどこかでは常に戦争が行われ、安全保障などとして世界中で軍備が増強され、国の軍事費は増加するばかりで、従来の原則を破って、日本からの兵器の輸出までが認められるようになっている。

 最近では兵器の大型化が進みその開発も大きな産業分野ともなり、産軍共同体などと言われることもあるぐらい政治的にも大きな問題となっている。当然これには基礎科学から兵器開発の技術的な問題まで科学的な基礎が不可欠であり、再び科学者の戦争協力の問題が クローズアップされてくるわけである。

 日本でも最近、戦後に行われた戦争に協力しない科学者たちの宣言をも踏まえて、実際防衛省なども絡むような科学研究にどこまで協力するべきかが問題になってきている。研究費で吊られれば弱い立場の研究者たちが政府の予算による圧力にどれだけ耐えて自分の良心を守れるであろうか?軍事研究と平時研究との境目は曖昧である。研究内容や資金源によって一線が引けるものでないだけに、この問題は容易ではない。

 曖昧な領域は自分に対する言い訳もしやすので、つい研究費に目が眩んで、それに馴染み、知らず知らずに深みにはまり、このぐらいならと自分で許容範囲を広げながら、気がつけばどっぷり軍事研究にはまり、ついには開き直ることさえ起こりうるであろう。

 この本の評者でさえ、「同じ立場に置かれたとき、彼らとは違って権力に真っ向から反対できる人が何人いるだろうか。僕は全然自信がない」と述べているが、これが科学者たちの平均的な姿ではなかろうか。

 結果としては今後も戦後の反省による宣言などはやがて半ば無視されて、政府主導によって軍事研究などに多くの科学者が動員されていくのはある程度やむを得ないこととになるのではなかろうか。

 しかし、戦争中に見られた人道に反する科学研究、例えば極端な方からいえば人権を犯した人体実験のようなものから、大量殺人兵器、生物化学兵器核兵器などの開発や改良に関する研究など非人道的な科学や技術はなんとか極力避けてもらいたいものである。

 それにはそれぞれの研究者たちの人間としての世界観、政治観や国家観、社会観、人間観などといったものに依存するよりない。科学や技術を扱う人間の、人間としての義務や良心が厳しく求められるわけである。