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悪意が微塵もない差別発言

 Facebookだったかにある大学の女性教授が書いているブログに興味を惹かれた。「悪意が微塵もない差別発言」というタイトルで以下のような文章であった。

 『ゼミを終え、学生と帰宅途中、一人の学生が「先生、今日の晩御飯、献立決めています?」と尋ね、「先生、俺にも晩御飯作って下さいよ」と他の学生が言ってきた。

ゼミが始まる前、学生たちが就職について話をしていた。「専業主夫だけは避けたいよな」「そんなことしたら親泣くよな」と冗談交じりに笑っていた。

学生が「親に先生の写真見せたら『大学の先生というより小学校低学年の先生って感じね』だって」と無邪気に言い、「先生、若く見えるってことですよ。よかったですね」と他の学生が言っていた。

ここまで読み、多くの方は私が女性教員であることに気付いたのではなかろうか。ところで、皆さんは、これらの発言が差別的であることをご存じだろうか』と。

 先生が男であったら晩御飯作ってくださいなど言わないだろうし、可愛い、若いなどといった感想も話題にならないであろう。専業主婦は親が泣くほど恥ずかしいことだろうか。これらは決して悪意はないが、客観的に見れば明らかに女性差別の言葉である。今の学生たちはこのような時代を生きているようである。

 偏見や差別は歴史や文化に結びついて存在するものだから、社会が変化する中で積極的に変えていかなければ、時代に適合して素直に変わっていくものではない。いつも時代の変化に遅れて変わっていくものである。

 意識した悪意のある偏見や差別は政治的なもので、時代の変化に取り残された偏見や差別を利用して自己の反動的な運動に利用しようとするものであるが、それらに利用されないためにも、時代の変化に合わせて、意識して自分たちの見方や態度を変えていく必要があるのではなかろうか。

  昔はメクラ、ツンボ、チンバ、クロンボなどという言葉が普通に使われていた。昔覚えたデカンショ節にも「塀の向こうをチンバが通る頭見えたり隠れたり」というのがあったし、「チビ黒サンポ」という絵本なども子供に人気があり、よく売れていた。

 これらは殆ど悪意もなくその時代には普通に使われていた。しかし戦前の日本でチョウセンとかシナ人、土人などと言うことになると普通に広く使われていたが、明らかに蔑視の意味が含まれていた。

 しかし、時代が変わり現在では、平等な人権が尊重されるようになり、差別用語などの言葉は意識的に随分注意して使われなくなってきたが、まだまだ時代遅れの観念は残っているので、悪意のある差別語を別にしても、つい自然に発した言葉が差別や偏見を浮かび上がらせることがあるものである。

 社会に対する観念はいつも過去の長い歴史や習慣の尾を引いているので、そこが変わらなければ、つい何げなしに言った言葉の中に、その人が支配されている過去を引きずった観念と言葉の乖離が暴露されることになるのであろう。

 表面的な言葉は意識すれば変えやすいが、その元にある生活に根付いた旧弊や古い観念は徐々にしか変わらないものである。言葉は受ける相手があることだから注意すべきであるが、本当に変えていかねばならないのはその元にある深く根を下ろした社会や観念であることを意識すべきであろう。

 そういう意味で見かけたブログに興味を惹かれた。