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芸術の秋

 最近は秋になると日本国中アートだらけである。恒例の美術展も次々に開かれるし、特別展もある。それに近頃は府県単位ぐらいのビエンナーレとかトリエンナーレなどもあちこちで行われ、さらにはもっと小さな都市単位ぐらいのアートの催しもあって、どこへ行ってもアートが見られるといった感じさえする。アートが観光や客集めに使われている面が強い。

 近在を見ても、瀬戸内国際芸術祭があるかと思えば、愛知トリエンナーレもある。大阪では大阪クラシックがあるし、京都では国際映画祭、奈良では古都祝奈良とかをやっている。神戸にはビエンナーレがある。何はともあれ社会におけるアートののあり方が広がったことは喜ばしいことである。

 アートは人生のゆとりのようなもので、多ければ多いほど色々な人が色々な表現を見せてくれるので、視野を広げてくれることにもなるし、人々の色々な遊び心を教えられて楽しい。ただ、これだけあっちでもこっちでも、あれもこれもアートだと言われると、少しばかり首を傾げたくなることもある。芸術的な評価が二の次となりがちである。

 一言でアートといっても技術的に優れたものも、そうでないものもあり、中には初めて見て感動させられる作品もあるが、逆にアイデア倒れで技術が伴わず、私が遊びで作るアート以前の”てんご”作品と殆ど変わらないような作品まである。いくらアイデアに優れていても、技術を伴わないものをアートというのはおこがましい。アール・ブリュイットと言われるもでも優れた技術や技能に裏打ちされたものが多い。

 それに、アートもこれだけ広がると、今や産業の一分野ともいえるぐらいで、作品の内容よりも、観光や宣伝、集客などが優先し、素材から制作、展示、処分に至るまで全てが商品化され消費されるだけになってしまい勝ちである。アートは経済的な支援がなければ成り立たないが、いろいろな表現を可能にするためには、商業主義を超えたバックアップのあり方が問われる。

 誰しもアートの心を持っており、機会があれば形のあるものとして表現したくなるもので、ヘタクソでもその人のアイデアがあり、それを表現できることは素晴らしいことである。それがアートと言われようとそうでなかろうと、表現し人に見てもらうことは素晴らしいことであるので、アートをどこかで線を引くことは必ずしも良いことではない。ただ、お金を払って見てもらう価値があるかどうか、何らかの芸術的な評価も、難しいが、必要なのではなかろうか。

 ただし、アートは楽しむものであり、楽しませるものである。商品化に抗して、下手でも良いからその人の持ち味を十分発揮した作品を見たいものである。多くの人がこの線で集い、それぞれの表現を見せてもらえるのが一番楽しいし、人生を豊かにしてくれるのではなかろうか。