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障害者も同じ仲間

 齢をとると多くの人はどこかに障害を持ちながら暮らしているものである。寝たきりの人もいるし、半身不随で車椅子や杖にすがってようやく歩けるような人もいるし、膝が悪くて手押し車を押さないと歩けない人も多い。

 手足に不自由がなくても、心臓や肺が悪いためにゆっくりしか歩けなかったり、失明した人や耳の聞こえない人もいる。酸素ボンベやバッグがないと行動出来ない人もいる。人工透析に週に三回も通わねばならない人も少なくない。抗がん剤の服用で副作用に苦しんだり、そうでなくても闘病のために普通の生活がし難い人もいる。

 健康だと思っている老人でも、齢とともに若い時のようには動けなくなるのが普通である。人には言えない小さな体の不調は老人であれば殆どの人が持っている。 こう見てくると老人もある意味では障害者であるとも言える。そんなことで老人になれば障害者の苦労も少しは分かりやすくなる。老人も今のように増えてくると、社会もそれに答えて少しは障害者や老人が動きやすいように考えていかなければならなくなる。

 その結果かどうか、最近ではどこの駅にもエレベータやエスカレータがつけられ、車内にも優先座席が設けられている。しかし、後から設けられた所が多いので設置場所の不便な所がよくあり、エレベータに乗ろうとするとホームの端まで長いホームを端まで歩き、エレベターを降りたらまた長い道を戻らねばならないような所もある。足の悪い人にとっては平面の移動だって大変なのである。また膝の悪い老婆にとっては上りより下りが難しいのに、エスカレータは上りはあっても下りのある所は少ない。

 それでも老人の場合にはこれだけ人数が多くなると、遅々とはしていても、少しづつでも対策は進んでいく。しかしそれに比べると、いわゆる障害者に対する社会の対応は複雑な上に少数者であるためかどうしても遅れがちになる。

 視力障害者用の黄色のタイルの線や、横断歩道の聴力障害者用の音声案内などもあちこちで見かけるようにはなってきて、駅などで「黄色い線の上に物を置いたりしないで下さい」という注意まで放送されることもあるが、対象者が少ないこともあって、無視され勝ちである。黄色い線の凸凹が歩きにくいと言われたこともある。電車の優先座席でも元気な若者に占拠されていることも多い。

 ホームのブロックの黄色い線は、今では昔の白線が消されてその代わりになっていることが多く、駅の放送も「電車が来ます。危ないですから黄色い線までおさがり下さい」と言っている。まるで視力障害者を危険な最前線に押しやって普通の人の安全を図っているのかと皮肉を言いたくなる感じがしないでもない。

 今度「障害者差別解消法」が出来ることにもなり、曲がりなりにも障害者に対する対策も少しづつ進んできているとは言うものの、この効率優先の社会では、こういった対策はいわば「必要悪」であり「仕方がないからの対策」のような扱いの面が強く、あくまでも元気な普通の人たちに対する対応の余力でしか出来ないのが現状とも言えるのではなかろうか。

 今度の法律でも、差別を申し立てる責任は障害者側にあることでも判るように、社会的な弱者である障害者は未だ同じ権利を持った同じ一人の人間としては扱われていないことが多い。良くても「かわいそうだから助けてあげよう」とか「工夫して皆と同じように出来るようにしてあげよう」という上からの目線で扱われていることが多い。

 現代の資本主義の競争社会での効率優先主義との矛盾が、効率の悪い障害者を同じ権利を持った人間として認めにくくしている根本的問題であろう。それが劣った者に対する善意の上から目線にもつながっており、「助けて同じレベルに引き上げたい」とする偽善の欲望になる。

 昔、我が家の来訪者にサリドマイドによる両上肢のない写真家がいたが、その人は足があれだけ有用に使えるものだという人体の可塑性をしっかり教えてくれた人だが、彼女は「寝ている間に誰かがやってきて無理やり自分の腕に重い義手を着けようとする」悪夢に悩まされたと言っていた。

 元来、人は多様なものであり、それに従って色々な長所も欠点もあり、能力もそれぞれに多様なのである。障害者は決して普通の人より劣った人たちではない。人間の多様性の一部に過ぎない。その多様な人々が皆同じ人間としての権利を持って生きられることが社会の基本にあるべきで、効率的な社会が必要だとしても、それはこの多様な人間を基本とした上に作られるべきものであろう。

 老人になれば出来なくなることも多い。しかし、若い人より経験を積んでいることが多いという長所もある。若い人でも長所も欠点もあり完全無欠の人などいない。大勢の平均的な姿に合わせ世の仕組みが造られ、その時代や社会によって規制され変化するものである。その中で、人々の多様性に対する寛容度によって障害の範囲も決まる。 

 効率優先社会では望ましい平均的範囲から外れる者は障害者というレッテルを貼られ、「可哀想だから差別ではなく配慮なのだ」ということで疎外され、保護だとして自由な行動を奪われ、補助具だとして無理やり義手や義足をつけられることも生じるのである。

 こういう効率優先社会からみれば、障害者は劣ったものであり、社会の負担であったり保護すべき対象になったりで、間違えれば障害者の排除につながり、相模原の障害者収容施設における殺人事件にもつながることになる。

 生物学的、社会的な多様性が発展の基礎となって、現在の人間社会の繁栄がもたらされてきたことを知るべきである。疎外や排除ではなく合理的な配慮によって、同じ立場に立って皆と一緒に生活できる「共生」社会を目指すべきであるが、これと効率優先社会との矛盾は大きい。しかし、人類にとって効率優先の競争社会である資本主義経済よりも、もっと大事なことは多様な人々の平等な人権であり、それを実現させる生活手段であり、目指すべきはその結果としての万人の幸福ではなかろうか。

「やってあげるから何もしなくても良い」ではなくて「仲間として一緒に出来るようにする」「一緒にやりましょう」から、更にその人の特徴を生かして活躍できる場を作ることを目指すべきであろう。

 近年この国でも背の高い人が多くなってきたが、仮にこれらの背の高い人たちが大多数を占めるようになり、それに合わせた社会の効率化が図られたとしたら、現在主流を占めている背の低いこの国の人たちはたちまち、多くの人に出来る標準的なことが出来ない障害者となる世界を想像してみるとよいであろう。

 もう半世紀も昔のことになるが、初めてアメリカへ行った時、トイレの朝顔型便器が高くて背伸びをしなければ用を足せなかったし、コートを買おうとしたら子供売り場で探さなければならなかった経験がある。 

 障害者も年を取っていくが、健常と言われる人も老人になるとほとんどの人が障害者になる。障害を持った老人は当然「障害者差別解消法」の対象になる。圧倒的に多い老人を対象とした老人介護制度に障害者介護保障制度が飲み込まれないようにしながら、反対に障害のある老人が障害者介護保障制度と同じ保障を受けられるようにしなければならないであろう。