天国から見た景色

 先週、一週間心斎橋大丸のすぐそばで私たちの展覧会をしていた。その途中で合間を縫って昼飯を済ませるために、近くの喫茶店に入り、カレーライスを注文した時のこと、丁度座った席が心斎橋筋に面した窓際だったので、食事を待つ間、二階の窓から通りを見下ろしていた。

 相変わらず心斎橋は大勢の通行人で満ち溢れていた。昔から心斎橋の人の流れを見るたびに、川の流れのようだなと思ってきたが、その時も道いっぱいに人が歩いていた。いつも同じように大勢の人たちが歩いているが、その日その日で歩いている人は異なり、違った人たちで溢れ、一見似ていても二度と同じ人たちの流れではない。 歩いている人はすっかり変わってしまって、違う人たちばかりである。

 丁度川の流れがいつ見ても同じように流れているが、流れている一粒一粒の水の粒子は全て異なり、見かけは変わらなくとも、刻々と繰り返しの聞かない歴史を刻んでいるのを考えさせられてきたのである。

 その時も、漠然とそんなことを考えながら通りを行く人を見下ろしていた。誰かが言っていた。「心斎橋筋は昔は着飾った紳士淑女がしゃなりしゃなりと歩いていたものだが、今は全く変わって若い中国人ばかりになった。『こんにちは』と言ってもダメ、今は『ニーハオ』と言わねば」と。

 実際変わりようは激しい。今でも大勢の人で溢れているが、中国人ばかりと言っても良いぐらい中国その他からの観光客が通っている。観光ブームで、店も日本人より外国人をあてにしているきらいさえある。中国語の案内を出していない店はない。昔では考えられもしなかった光景である。

 上から眺めていて、同じように人で溢れていても、もう知らない人ばかりである。昔なら、自分より年配の人や同じぐらいの歳の人も多かったし、雑踏の中でひょっこり知り合いに出会ったりするようなこともあり、身近な馴染みのある通りであったのに、今や、全く自分の知らない世界 自分とは全く関係のない他所の世界と思えて仕方がない。

 日本の違った都市の繁華街でも良いし、日本でなく、外国の都市でも良い。自分のいない、自分とは関係のない知らぬ世界を外から眺めるような感じで、全く知らぬ人たちばかりが動いている。そのうちに、ひょっこり妙な感じが浮かび上がってきた。「これはもう自分がいない世界で、天国からででももこの世を見ている図ではなかろうか。」というような気がしてきた。

 この歳になれば、私も後どれだけで生きているか分からない。死んだ後も当然世界は続いていく。自分がいなくても、世界は今の続きで同じように動いていくだろう。自分のいない世界を天国からひょっと覗いたらこのような景色が見えるのではなかろうかという感じがした。

 たまたまその翌日、西宮にある兵庫県立芸術劇場でピアノのリサイタルを聴いた。たまたま座席が広いメインホールの三階の天井桟敷だったので、ピアノが谷底の舞台に玩具のように小さく見えた。演奏が始まって興が乗ってくると不思議に小さなピアノや演奏者が浮き上がって来て大きく見えるようになったの話は別として、ふと思い出したのは昨日の二階からの心斎橋筋の人の流れの景色だった。

 天国だから二階からすぐ下を眺めるよりも天井桟敷から舞台の演奏を見下ろしている方が天国からの眺めに近いのではなかろうか、私が死んだ後もまた違った人が違った演奏をして、違った観客がここに座るであろうが、演奏会は続けられれていくに違いない。

 演奏が終わり、拍手喝采が済んで、帰り際にもう一度天井桟敷から見下ろした小さなピアノを見て、この方が天国からの眺めに近いのかも知れないと思ったものだった。

 世界は動いていく、同じように、

   休むこともなく、

     私が死んだ後も・・・・