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つくばい

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 朝日新聞に四月から夏目漱石吾輩は猫であるが連載されている。毎日目を通していると小説自体も面白いが、昔の表現や言葉が出てきて懐かしく思うことが時々ある。

 この間も「つくばい」という言葉が出てきて、久方ぶりに旧友に出会ったような気になった。もう長い間忘れてしまっていたが、昔住んでいた家の縁側の庭にあった「つくばい」の姿が蘇って来た。

 座敷の廊下の端あたりの外にあり、よくある平たい石ではなく、少し背の高い石を穿って作ったもので、余り”つくばらなくとも”使えそうな感じの「つくばい」であった。昔は実用にも使われていたのかも知れないが、私の知る限りでは単なる装飾としての庭石の一つに過ぎなかった。ただ縁側のすぐ近くにあったので、その姿形が忘れられない。

 昔はどこへ行っても庭に「つくばい」をよく見かけたものであったが、今では神社の手洗いを除けば、どこかの大きな庭園か、お寺の庭で見るぐらいで、普通の家では殆ど見ない。日本式の庭自体が減って、「つくばい」が似合うような場所がなくなってしまったので、日常生活では殆ど見ることがなくなった。「つくばい」という言葉自体、私も最早忘れかけていたし、おそらく今の若い人たちにとってはもう死語になっているのではなかろうか。

 ところで「つくばい」という言葉がどこから出てきたのか、気になったので調べてみると、私も知らなかったが、「つくばい」とは蹲踞から来ているそうで、蹲踞と書いて「つくばい」とも読むらしい。そう言えば、「しゃがむ、かがむ」ことを「つくばう」ないし「つくばる」とも言うらしいが、「這いつくばる」と聞けば納得できるし、「這い蹲る」とも書く。

 もともと「しゃがむ、かがむ」は日本の農村の生活に密着した姿勢で、湿気の多い平面的な空間で労働する人達には欠かせない姿勢であったのであろう。濡れた地面に尻を下ろすこともなく、出来るだけ重心を下げて低い姿勢でエネルギーを節約しながら作業もし、休むこともできる恰好な姿勢だったのであろう。農村の人々の典型的な楽な姿勢として、長い歴史の中を受け継がれてきたものであろう。

 ブルーノ・タウトは,「日本の家屋と生活」の中で,「しゃがむ姿勢はヨーロッパ人にこそきついが,日本人には何のことはない休息の姿勢なのである。・・・この人たちにとっては,しゃがんでいることは,われわれが椅子に腰掛けているのといっこうに変りがないらしい。」と指摘している。

  そのような伝統から、人々の生活様式が変わり都会生活が主流になっても、長い間、日本では外国人だったら尻を地面につけて休むような時にも、腰を下ろすよりも蹲踞して休みを取るのが普通であった。比較的近年でも高校生あたりが駅近くの路上などで皆蹲踞して屯ろしているのを見かけたものである。彼らは「便所座り」などとも言っていたようであった。

 ところが最近では、この国の津々浦々まで、生活の洋式化がどんどん進み、家でも机と椅子の生活となり、トイレも洋式に置き換わると、日常生活の中で蹲踞する機会も減ってしまい、蹲踞している人の姿もあまり見かけなくなってしまった。先日家の近くで珍しく路上で蹲踞している人を見かけてびっくりしたぐらいで、その人は何か外で工事をしていて、間で一休みしているところのようであった。

 相撲では蹲踞の姿勢をとることが多く、力士の基本姿勢だと言われるが、日本人力士が弱くなって外国勢に上位を独占されてしまっているのも、蹲踞の姿勢が日本の生活から消えていっていることと関係しているとも言われる。  

 蹲踞する機会が少なくなるのは良いとしても、蹲踞する機会がなくなると足腰が弱くなる。考えてみると蹲踞はかなり特殊な体位であり、それを保つ機会がなくなると、以前は当たり前にできていた動作も次第に困難になるようである。

 私の経験でもある時、外でトイレを使う必要が生じて公衆便所に行ったが、そこには和式の個室しかない。仕方がないのでそこで済ませようとしたが、蹲踞してじっとその姿勢を保持することが出来ず苦労した。昔は普通にしていたものが、何とか蹲踞してその姿勢を保とうとしても、膝や脚が痛くてたまらず、もう一分も我慢できず、立ち上がろうとしても、これまたままならず、立ち上がるのも一苦労で、やっとの思いで用を済ませたものの、その苦しみにはもう金輪際こりごりだと思った。

 昔は普通にしていて、慣れておれば休息にもなる姿勢も、すっかり使わなくなっていたものを、急に真似ようと思っても痛くて苦しいだけである。その後から、こういう場合にも備えてと思い、朝ラジオ体操をする時にしばらく蹲踞の姿勢をとる訓練をするようにしている。おかげでどうにか蹲踞の姿勢でしばらくはじっとしてられるようになった。

 習慣とは恐ろしいものである。年寄りが日頃やり慣れていないことをするのは事の他大変である。それでも、この間は公衆便所で和式と洋式のあるところで和式を選んで入っていった老人を見掛けたが、その人にとってはまだ和式の方が慣れており、洋式より衛生的だと思っているのであろう。

 庭の手水鉢である「つくばい」の思い出から、姿勢の蹲踞に話が移ってしまったが、百年前の小説を読むと、出てくる内容もそうだが、古い言葉や古い状況が昔を思い出させてくれるきっかけをも作ってくれて楽しいものである。

あとがき:たまたま昔の我が家のつくばいの写真が見つかったので載せることにしました。一枚目が南の縁にあったもの。忘れていましたが、北の縁にも二枚目のようなものがありました。