悲しい桜

 四月のはじめは桜の季節である。どこもかしこも桜が満開である。先日京都へ行ったが、阪急の河原町の駅を降りて地上へ出るや、たちまち高瀬川に沿って満開の桜並木が続き、つい引き込まれてどこまでも続く桜の花や、川面にまで垂れ下がった枝の桜を愛でながら三条まで歩いてしまった。

 その後に行った八坂神社や円山公園の桜も見事であったし、嵐電の沿線や嵐山の桜も一面に咲き誇っていた。一度に全ては見れないが、当然、東山は清水寺から北の哲学の道まで桜の道が続いているであろうし、美術館あたりの疎水に浮かんだ一面の花筏の風情も格別なはずである。思い出すだけでも光景が目に浮かぶ。

   さくらさくらさくら満開京の街

 桜の思い出は尽きない。花の吉野山へは何度か行っているが、花より酒だと言って友情を育んだこともあるし、中の千本で親切な寺の住職?だったかに座敷に入れてもらって見渡す限りの桜を見ながら弁当を食べた思い出も忘れられない。西行法師がこんなところで死んだのかと想像を逞しくしたこともあった。そのあたりでハーモニカを聞かせてくれた知人もいた。

 大阪でも、毛馬の閘門あたりからずっと続いている大川堤の桜並木も見事で、下を歩いたことも幾度かあるし、明治の古い泉布館で食事をしながら眺めたこともあった。周遊船で川の中から眺めても飽きることがない。

 関西近辺でなくとも、桜は日本国中どこにでもあり、ほんの短い期間であるが、どこにいても春の到来を告げて楽しませてくれた。子供の時からの長い伴侶とさえ言える。近年は歳をとってくると、ふと「また来年見れるか知ら」という思いを密かに込めて眺めることにもなる。

 それだけ長い付き合いとなると、桜は単に美しいだけのものではなくなる。私にとっての桜は戦中戦後の苦しかった青春とも深く結びついてしまっている。

 桜は今も軍隊と強く結びついており、自衛隊も桜を色々な象徴として利用しているが、旧大日本帝国では陸軍も海軍も軍隊は今よりも強く桜と強く結びついていた。今以上に軍と桜は切っても切れない関係であった。色々な所で桜が象徴として使われていただけでなく、軍の施設には必ずと言って良いほど桜が植えられていた。子供の頃の印象では練兵場や軍の施設、学校、神社、官公庁へ行けば桜が必ず見れるといっても良かった。

 当時は陸軍の兵士たちがいつも「万朶の桜は襟の色、花は吉野に嵐吹く大和男の子と生まれなば散兵戔の花と散れ」と歌いながら、隊伍を組んで兵営から出て行くのを見たものであった。いつの間にかその歌を覚えてしまったが、万朶の意味も歩兵の本領という歌だということも知らなかった。

 海軍では「海行かば水漬く屍山行かば草むす屍大君の邊にこそ死なめ顧りみはせず」が最もよく歌われていたが、愛唱歌として「俺と貴様は同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く。咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょう国のため」がポピュラーだった。

 いずれも桜に譬えた歌だが、どちらも花の散ることに命を賭すことをかけたところが共通している。桜が短時日に一斉に散る姿を潔しとして、武士道を賛美しているものであった。

 武勇を鼓舞し、忠君愛国の精神になぞられて作られたのであろうが、事実としてはこのような背景のもとに、何十万とも言える兵士が間違った国の政策の犠牲になって、桜の花の散るように、あっけなく貴重な命を落としてしまったのである。

 そんな歴史が私の青春であったので、今でも桜を見ると自然に無残な戦争が思い出さされる。桜は美しいだけでなく、あまりにも短命なあっけなさ、儚さを感じさせ、悲しみを秘めるのが避けられない。

 年月を経ると共に薄らいでは来たものの、かっては花見の宴に参加すると、酔うに連れ、幔幕の後ろや暗がりから、兵士の亡霊が顔をのぞかせるような気がして、花の宴は遠慮していた時代が続いた。今でさえ、美しい桜に見とれているうちに、ふと無残に戦死した兵士の姿がかすかに浮かんで来てハッとさせらることがある。

 満開の桜は文句なしに美しいし、待ち遠しい春の使者でもあるが、悲しいことに、どうしてもこの花の命の短さと、戦で散った人の命の儚さや、この国のたどってきた歴史の儚さが結びつくことが避けられない。また嫌な時代に戻りそうな傾向が強くなってきているが、もう二度と桜と戦争や兵士の死などとを結び付けないで欲しいものである。

   美しく悲しきさくら兵のあと