何もしない「静かな看取り」の嫌な人もいる

 一頃老人ホームや慢性期病棟などで口からの食事が取れなくなった老人に片っ端から胃瘻を作って栄養補給を行い、寝たきりのままいつまでも生かす例が多くなり、新聞などでも取り上げられ問題になったことがあり、末期の老人医療のあり方について過剰診療、治療が問題視されるようになってきた。

 しかし最近は老人の医療費の膨張を抑えたいという政府の要望も絡んで、逆に出来るだけ余分な医療は避け、静かに看取るのが良いとされ、今度は患者側が希望しても医療側が初めから意味のない医療を止め、静かに看取りましょうと働きかける傾向が強くなってきている。

 最期の医療をどうするか決めるのは本人であり、次いで本人の意思を組む近親者であって医療者ではないことを、ましてや老人医療費を通じての政府の意向や社会ではないことを改めて知っておくべきであろう。人は多様であり、考え方も生き方もいろいろである。それに伴って最期の医療をどうしたいかも人によって異なってくる。

 本人が本当に希望するなら、胃瘻でもチューブ栄養でもやってもらいなさい。

 誰にも医療を選択する権利がある。そうでないと弱者が殺されることにもなりかねない。ナチスが精神病者を殺した歴史を思い出すべきである。腎不全で透析をすることも胃瘻で食事をとることも病気の治癒に繋がるものではなく命を永らえるためのものである。命の内容は人によるが本人が決めることで、どんな命も価値に差はない。生きていることに価値があるのである。

 「過剰な医療」についても、「何もしない医療」についても、医療者は患者に理解が得られるまで説明する必要があるが、決めるのは患者本人であり医療者であってはならない。本人の決意は揺らぐものである。一度で決まってしまうものではない。最期まで寄り添って本人に決めてもらうもので、医療者は本人が自分の意志を行使するのを助ける役割を果たすべきものである。

 過剰と思われるものは一切やらないという人もいるだろうし、利用出来るものは何でも利用したいという人もあり、ばらつきが大きい。同じ人でもその時に、場合によって希望の変化することもあるであろう。

 医療者が最適と思われるものを説明し薦めることは職務であるが、国の政策や医療機関の経営、あるいは第三者の都合を判断の根拠に入れるべきではない。

 最近の風潮にうっかり載せられると国の政策の思惑通り、本人がはっきり理解しないままに希望する医療を拒まれ、いつの間にか有無を言わせず「静かな看取り」の世界に誘導される危険性を秘めていることも知っておくべきであろう。

 そうでないと一番の弱者である心身の障害者、老人でも認知症の人、精神を病む人、半身不随の人、痛みや呼吸困難など体に障害のある人、フレイルの人などは希望も聞かれず知らぬ間に「静かな看取り」で処理されてしまうことになりかねないことに注意すべきである。

 今朝の朝日新聞によると、厚労省は「最終段階の医療」のモデル事業として研修を受けた医師や看護職ら医療・ケアチームが相談事業を実施する体制を作ろうとしているようである。こういうものが出来、懇切な説明が出来れば良いが、老人や家族の思いは様々で、病院などの日常業務の中での相談は負担も大きであろう。

 それだけに懸念されることは、圧倒的な情報量の違いから老人側が説得されて意に反して「静かな看取り」に誘導されかねないことである。本人の意思は単に理屈ではなくて情意である。命の最後の決断であればこそ、ただでさえ父型に傾く医療の世界で、「手術の同意書」のような形ばかりの書類作成で終わりということにならないようにくれぐれも注意が必要であろう。