無責任社会

 この国はどうしてこうも無責任なことばかりまかり通るのだろうかと情けなくなる。

 七十年前のあの世の中がすっかりひっくり返った敗戦さえも、「一億総懺悔」などと言ってごまかしたまま、誰も戦争の責任を取ろうとしなかったばかりか、戦犯になって捉えられながらアメリカ軍と取引して処刑を免れた者が首相になり、戦前の翼賛政治の官僚制度を温存したまま戦後の体制を再構築し、とうとう国としての戦争の総括もせずにうやむやのうちに戦後を過ごして来てしまったのがこの国の歴史である。

 その勢力が今頃になって「あの戦争は仕方がなかったのだ」と言って、何百万という人の犠牲も侵略も戦災もまるでなかったかのように何の反省もなく済ませてしまおうとし、「もう一度日本」と言い、過去の帝国の夢を復活させようとさえしている。原爆などによる被害は語っても中国への侵略や朝鮮の植民地化などについては口を閉ざして時に経つのを待っているようにさえ感じられる。

 世界の情勢が変化しているにもかかわらず、中国の興隆を妬み、韓国を蔑み、自らアメリカへの従属を強め、イラク戦争が誤った戦争であったことが世界の公式な見解となっていても、アメリカに遠慮してか、その判断さえ明らかにしない。

 国内の問題でも、あの福島の原発事故についても、未だに放射能の処理も終わらず、多くの人が生活を奪われたままで、今も災害を及ぼし続けており、公式にも事故が人災だと認められていながら、誰も責任を取る人がいない。東京電力に捜査の手が伸びたという話も聞かないし、誰かが罰せられたということもない。まるで自然災害で誰にも責任がなかったかのような扱いである。

 それどころか原発廃止の多くの国民の声をも無視して再稼働が始まっている。川内原発に続いて2016年初めには関西電力の再稼動も実現しそうで、福島の事故の責任を国が果たしていないのに、また国の責任で再稼動を進められようとしている。いかに意識的に無責任体制でことが勧められているかがわかる。

 政府の原子力防災会議で、安部総理の言った「国民の生命、身体や財産を守ることは政府の重大な責務であり、責任をもって対処する」という言葉を受けて、中村愛媛県知事は「政府がそこまで責任を負うという覚悟と受け止めた」と発言し、原発再稼働に同意したされている。

 しかし、県民に責任を持つ知事がこんな「責任を持つ」という抽象的な言葉をやり取りするだけではあまりにも無責任であろう。これは単なる口実で再稼働の裏で動いているお金などの政治的な判断の言い逃れに過ぎないことは見え透いている。佐多岬半島の原発よりも先の住民の避難さえまだ多くの問題を残しているのである。

 四国電力原発停止でも電力供給力にも余裕があり、業績も良いのに一日も早い再稼働を目指すのは、おそらく国策としてのプルサーマル運転への政治的な思惑が絡んでいるのであろうが、ここでも住民無視の無責任が堂々と進められているようである。

 また最近問題になっている傾斜したマンションの杭打ち基礎工事の問題にしても大手の建設会社の下請け、孫請けなどによる工事で、どこに責任があるのか曖昧なシステムになっているが、本来なら基礎的、基本的なことは終始大元の建設会社が全責任を負ってするべきことではなかろうか。結局親会社の社長が辞任しただけでうやむやになりそうである。

 原発事故にしても、杭打ちの欠陥にしても、建設関係の複雑で責任の曖昧なシステムの構造的な欠陥と考えるべきであろう。大は国家の体制から小はプライベートな会社までこの国に伝わる個人よりも集団的な力が重視されてきた体制に乗っかった複雑な組織が、実際にそれを動かしている個人の責任を見えなくしてしまうことが、繰り返し見られるこの国の全体の無責任さに関係しているのであろう。

 重大な欠陥に結びつく事故が起きても、責任者なるものが「責任を重く感じます」「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げるが、戦争のような重大な事故でさえ「起こした」人がおらずに「起こった」事実だけがあるのがこの国の特徴のようである。

 昔の軍隊でも例えば特攻作戦の場合などの場合、上官は決して命令しなかったそうである。上官の命令ではなく、澎湃として起こる下からの熱意による「志願」という形をとったようである。軍隊で多くの者が志願する時、自分だけが志願しないでは済まされなかったであろう。そういえば中学校への予科練へ志願者割り当ての時も軍からの命令であっても、学校の責任で必要人数の生徒に志願させる仕組みを用いていた。

 世の中はほとんどすべてが組織で動いているのに個人の責任は問われても、個人で構成されている組織の責任は問われ難い。殊に日本では法的にもそうなっているらしい。重大な問題はすべて組織が対応しているのが現在の社会であることを考えれば、今後も無責任な組織がさらに無力な人々を無責任に苦しめ続けることになるのではなかろうか。