「最期の医療」への意見

 朝日新聞のオピニオン欄のフォーラム「最期の医療」(2016.02.28.朝刊)で「緩和か延命か悩む家族」に関したアンケートに付された意見の幾つかが紙面に出ていたが、その中で現在の医療や介護の現場を的確に捉えていた30代の女性の意見を書き写す。

「延命治療を希望すると、それが逆に本人を苦しめると言って医師が推奨しないことがある。しかし、それが本当にそうである場合と、病床の特性上医師がうまく説明しているだけの場合があると思う。延命治療を望むことが悪いことであるかのような印象を与えられる。少しでも長く生きて欲しいと、家族は望んではいけないのか。早く追い出されるだけの急性期、延命治療出来ない療養病床。看る人がいないのに推し進められる在宅。それ相当のお金がなければ入れない施設。終末期の精神的不安や苦痛を生み出しているのは、日本の制度そのものだ」

厳しい意見だが、この国の「最期の医療」の現状を的確に捉えていると言えよう。

 一頃は「スパゲッティ症候群」が問題になった時もあった。経口摂取が出来なくなった時の安易な「胃瘻造設」について議論されたこともあった。そしてやがて「最期の医療」が医療の場だけでなく、関係する一般の人たちも巻き込んだ末期の老人医療の大きな問題になっていった。

末期に近い高齢者に対する救命医療とその停止、最期の「静かな看取り」が本人や家族の希望などの問題の上に、老人医療費の高騰、医療保障の問題が重なって、今や次第にこの国の医療政策がこの問題を主導し始めている感が強くなってきている。

 初めは無駄とも言える末期の「過剰医療」に対する良心的な批判から始まったものが、いつしか国の医療費削減政策に乗っ取られる格好になり、診療報酬などの操作による健康保険制度の誘導によって、末期医療の切り捨てが次第に大きな流れになって来つつある。

 こういう延命治療の問題が、大きな矛盾と混乱を孕んだ現在の老人医療や介護の制度の中で営まれていることが上述の意見の背景となっているのである。

 本来、「最期の医療」をどうするかは国が決めることでも、医療者が決めることでもない。本人が決めることであり、次いでは本人の意思を代弁する家族が決めるべきものである。医療者は複雑でわかり難い医療の道筋を、文字通りのインフォームドコンセントで説明し理解してもらう役割を担うべきで、その上で本人に判断して貰うべきである。しかも判断は容易に覆るものであり、繰り返しての説明が必要になることも考慮した上での話である。

 その判断の上に、本人が医療制度上許されるべき医療の選択が可能でなければならないであろう。制度的枠組みで選択を断つべきではない。人々の考え方、人生観は多様であり、医療制度はそれに沿った多様な選択が可能なものであるべきであろう。

 例えば腎不全時の血液透析も胃瘻造設も治癒ではない延命の手段である。それを選ぶかどうかは本人が選ぶべきものである。説明と理解、納得は不可欠であるが、直接であれ間接であれ、選択の自由を第三者が奪うことは許されない。これが「最期の医療」の根幹でなければならない。