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家族のようなケア

 川崎の老人施設で3人の入所者が相次いで転落死した事件を新聞が報じていたが、その記事の見出しの一つに逮捕された容疑者の「家族のようにケアしていた」という言葉が使われているのが気になった。

 恐らく容疑者も記事を書いた記者も「家族のように親切にケアしていた」にもかかわらず、という意味で使っているのであろうが、老人ホームなどで「家族のようにケア」

することには問題がある。

 老人ホームの入居者は決して職員やケアする人の家族ではない、お客様なのである。

お客様はそれぞれ一人一人の人格を持った人間なのである。「自分のおじいさんのようだ」などと身近な肉親に対する愛情を転移するのは自然のことで、それ自体決して悪いことではないが、お客さんと家族を混同してはならない。

 以前老人施設などでは職員が入所者を呼ぶのに、「おじいちゃん」とか「おばあちゃん」とかいうのが普通の時代があった。職員は親しみを込めて読んでいたのであろうが、中には「おじいちゃん」や「おばあちゃん」と呼ぶのは止めてくれ。ちゃんと名前があるのだからと抗議する老人もいた。

 この場合の「おじいちゃん、おばあちゃん」呼ばわりは悪く言えば「可愛いワンちゃん、ニャンコちゃん」と呼ぶようなもので、自分と同じ人格を持った個人を尊重した呼び方ではない。上からの目線で、昔の老人収容施設のような施設と収容者が同じ立場でないような場合だからこそ通用していたものであろう。

 さすがに今はそのような呼び方は使われなくなった。現在の老人施設では施設と入所者は同じ人間同士の契約であり、入所者はお客様で、施設はサービスの提供者という関係になっているのである。したがって入所者の呼び方も公式には「・・様」、実地でも「・・様」か「・・さん」が普通であろう。病院でも昔は患者と呼んでいたのをこの頃は患者様と呼んでいる所まである時代である。

 とは言うものの、病院や老人ホームでは入所者が老人であったりどこかの具合の悪い患者であったりするのに対し、職員の側が体力的にも勝り、面倒を見る側になるのでどうしても対等の関係より依存、被依存の親子に似た不平等な関係になりやすい。

 その上仕事柄肉体的な接触も多くなるので、余計に擬似肉親的な関係も出来やすくなる。接触する間に良い意味でも悪い意味でも肉親に対するのに似た感情も起きやすい。

 そこから職員の方にも本当の肉親のように面倒見なければとか、こうなって欲しいといった良い願望も起こって来やすい。それ自体は良いことであるが、そういった入れ込み方が強くなると、つい客と従業員という平等な人間関係を越え勝ちになり兼ねない。

 こういう微妙な関係は両者がうまく行っている時には特別に良く見えることさえあるが、それが一旦悪い方に向かうと、「なぜこんなことがわからないのか」「こうするのが当たり前じゃないか」とか、お互いの感情の入違いで、知らぬ間に個人同士の垣根を越えて、つい腹が立ち、憎しみが芽を出すことになりやすい。

 他人の場合には別れることによって解決されることも多いが、肉親の場合には別れられないだけに怒りや憎しみが内面化し増幅されやすい。昔から仲の良い友達とは長旅をするなと言われる。仲の良い友人は得てしてお互いの肉親のように個人の領域に入り込み過ぎるのでいつも一緒にいると喧嘩になりやすいことも参考になろう。友人は別れられるが家族は簡単には別れられない。

 親兄弟は生まれた時から一緒に住んでいるので長い間にお互いの客観的な関係が出来ていることが多く、協調や諦めにもある程度耐性があるのであろうがが、それでも大きな問題が起こったりすると、お互いに遠慮がないだけに家族の崩壊が起こる。最近多い家庭での老人介護に関わる事件でも息子や娘といった肉親が犯人とされることが多いそうだし、そこまでいかなくとも、親の遺産相続争いで兄弟が永遠の別れてしまうこともよく見られる。

 老人ホームなどでも職員と入所者はどちらかが出て行かない限り、同じ施設の中に居続けるので家族同様常に離れられないことが多い。そこでただでさえ父性主義に傾き勝ちな接触頻度が高く「家族のようなケア」で個人の領域にまで踏み込むことになれば、感情的な齟齬が怒りや憎しみを生み、それが増幅され尾を引くことになりやすい。。

 川崎の施設の事件がどのような経過であったのか知らないし、この場合に「家族のようなケア」が犯行の動機に結びついたのかは分からないが、老人ホームなどでの対応はあくまで家族への対応ではなく、サービス業の客と従業員という人と人との関係であることを忘れてはならない。「家族のようなケア」は決して良いことばかりではなく、大いに注意すべき危険を孕むものであることに注意して欲しい。