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野々村元議員の裁判

 嘘の出張旅費の請求が発覚して県議を辞め、会見で大声で泣き叫んで言い訳をしたので有名になった元兵庫県議の公金横領の裁判のニュースが報じられた。昨年秋に裁判が行われたのだが、本人が出廷しなかったので今回は前日に身柄を拘束されての強制出廷であったようである。

 そのことはとにかく、その報道をテレビで見て私が驚かされたのはその裁判の傍聴に八十人が定員のところ千人もの応募があったことであった。「えっ。何故?」と思わず自分の耳を疑い、いったいどういう人がこんなに沢山裁判の傍聴に行こうとするのだろうか不思議に思うとともに、何か気味の悪さを感じざるをえなかった。

 確か見るに堪えないほど繰り返し泣きながら言い訳をする野々村氏のテレビ画面が繰り返し流されるなど、報道の騒ぎすぎもあって必要以上に有名になった事件だが、犯罪は個人的な不正で、社会的にそれほど大きな問題ではなく、本人は職を辞し、金も返しているようで、いわば小者のすでに過ぎ去った犯罪である。もっと注目しなければならない不正がいくらでもある時代である。甘利大臣のあっせん利得や政治資金規正法違反での辞任などもある。

 もう司法に任せておけば良さそうなこの事件になぜこれほどまでに多くの人が関心を寄せ、裁判の結果まで見届けに行こうとするのであろうか。その関心に応えるかのように報道も必要以上に詳細となり、何か集団いじめのような感じさえして、社会的現象として、むしろそちらの方が問題ではないかと思えた。

 テレビでこれを見ていて、つい何年か前にイラクへ行って人質になった人に対して自己責任だと騒いだ人たちのことを思い出したが、芸能人やスポーツ選手が何か問題を起こした時に、ネットなどによる凄まじいバッシングが起こるのも同じような傾向であろう。

 そこには人を貶めて相対的に自分を持ち上げ、平素孤独で報われないでいる自分の心を一時的にも満たそうとする心理が働いているような気がする。自分では意識していないかもしれないが、いずれの場合も野次馬のように自分は安全な場所にいて、相手をけなし貶めて自分が満足したいという内面の流れなのであろう。

 強いものが弱いものをいじめる時に強いものに同調していじめに加わる心理も似ているのではなかろうか。ただ、こう言う心理の恐いのは子供のいじめぐらいならまだ許せるとしても、社会的、政治的にも同様なことが行われることに繋がりやすいことである。

 社会的に頼れるもののない孤独で認められない人たちの多い今の社会では、強いものに依拠することによって安心して弱いものをいじめ、自分の安定感を得ようとする傾向に傾きやすい。ヘイトスピーチなどを叫ぶ人たちの心理にも通じるものがあるように思われる。

 孤独であるが故に孤独を恐れ、KYだの絆などと言って大勢同調主義に流されやすいこの国では、独裁者でも現れればやがてその方針に同調して進んで弱者をいじめて自分の立ち位置を確保し、自らの安定を得たいとする人が出てくるのが一番恐い。それが究極自分の破滅にも繋がることに気がつくのはすでに手遅れになってからであろうか。

 そんなことを思いめぐらしながらテレビの報道を見ていた。この国の将来が思いやられるこの頃である。