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国歌を歌わない自由

 一月十五日の朝日新聞に昨年秋に起こったパリ同時多発テロ事件に絡んだ群衆のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌声をめぐる記事が載っていた。

 戦後間もない頃に自由、平等、博愛の民主主義の象徴としてのフランス革命に憧れ、私も知りもしないフランス語でこの「ラ・マルセイエーズ」を友人などとも一緒にずいぶん繰り返し歌ったものであった。

 そしてこの威勢の良い「ラ・マルセイエーズ」と比べて、敗戦国の「君が代」がいかにも時代遅れで貧弱に見え、情けなく、否定された戦争ととも当然否定されるべきもので、そのうちに我々も新しい民衆の歌を作ってそれを新しい国歌にするべきだと仲間たちと話し合ったものである。

 そういう私の青春時代の思い出にもつながる歌がこのフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」である。そんなこともあってこんな見出しがあってはたちまちそこに目が行った。

 テロ事件の後、この歌がフランスの結束の象徴としてあちこちで自然に人々の間で歌われたのは当然で、新聞にも取り上げられていた。ただ、朝日の記事を読むと、そんな民衆の革命歌に由来する「ラ・マルセイエーズ」でさえも、移民が多く多民族国家になった現在のフランスでは、仏領ギアナ出身の法相が奴隷制度廃止記念日の式典で国歌斉唱に加わらなかったとして問題になったり、サッカーの代表選手がテロ犠牲者追悼で「ラ・マルセイエーズ」が流れた際、唾を吐いたようなことがあるようである。

 また世界的なオペラ歌手ナタリー・デセイさんは『「ラ・マルセイエーズ」の歌詞は変えるべきだ。「汚れし血」なんて歌いたくない』と言っているとか書かれていた。『「ラ・マルセイエーズ」は確かにフランスの象徴だが、僕らは一人ひとりが選択を持つ国に住んでいる。歌うか、歌わないか、それぞれの自由だ。その自由こそ尊重されるべきだ』という意見も載っていた。

 フランス革命の時代と今では社会の変化も大きい。今では「ラ・マルセイエーズ」が多文化国家の人種や宗教の異なる人々が「統合」されたかのように見せるために政治利用される面もあるともいわれる。

 あの「ラ・マルセイエーズ」さえこうなのである。日本の国歌「君が代」はどう見ても民衆の中から自然に出てきたような歌ではない。天皇を神とさえした旧大日本帝國の国歌として当時の政府によって作られたものであり、大日本帝国と共に消滅したはずなのに、その国歌を現在の政府が一方的な意向で復活させ、しかも国民に強制しようとしているのである。

ラ・マルセイエーズ」と「君が代」の違いは大きい。私は「君が代」を聞くと反射的に戦争が思い出されるので「君が代」を聞くと耳を塞ぎたくなる。もちろん歌いたくもない。民主主義国家の国歌は民衆の中から生まれたものに変えるべきだと思う。そういう歌でこそ人々が愛し、誇りを持って喜んで歌うのではなかろうか。

 滅びた大日本帝国の亡霊ともいうべき「君が代」は強制しても、人々に愛されるはずもなく、いつかは自然に淘汰される運命にあるであろう。国歌は強制すべきものではない。国民が皆進んで歌いたくなるものを国歌にすべきであろう。

 かねがね私はそう思ってきたが、私の青春の憧れであった「ラ・マルセイエーズ」の記事を見て、改めて「君が代」についても考えさせられた。