戦争の体験談

 戦後七十年ともなれば実際に戦争に行った人たちはもう殆ど死に絶えて残っている人は少なくなった。私よりもう二、三年上までの人たちが戦争に駆り出された年代となり、私たちの年代はほとんどの人がまだ直接には戦争には行かなかったが、子供の時から先輩たちに嫌というほど戦争の話を聞かされ、自分たちも空襲に遭って友人の死を見たり、学校での軍事訓練や工場動員に駆り出されたりして、戦争の中で暮らした最後の世代になるのではなかろうか。中には少年兵として実戦に参加した人も少数ではあるがいたはずである。

 敗戦の時私は十七歳、海軍兵学校生徒として敗戦を迎えた。昭和三年生まれだから満州事変が始まる二年前、ちょうど物心がつく頃から大人になりかかるまでをずっと「大日本帝国の臣民」として暮らしたことになる。言わば「大日本帝國」に純粋培養されたようなもので、他の世界を知らなかったので、心から天皇陛下のため、お国のために命を捧げても頑張らなければと思っていた。私のような小柄な子供まで軍人に仕立てなければならないほど日本は窮迫していたのであろう。親父が「お前が海軍に行くようになったら日本もおしまいだな」と言っていたら本当に4ヶ月で日本は負けてしまった。

 私の小学校一年の国語の本は「サイタサイタサクラガサイタ」「コイコイシロコイ」「ススメススメヘイタイススメ」で始まり、三年生の時に支那事変日中戦争)が始まり、日の丸を振って出征兵士を見送り、神武に始まる万世一系の天皇の名前や教育勅語を暗唱し、毎月七日の興亜奉公日には皇室の載った新聞の切り抜きを校庭で集めて燃やし、小学六年生で紀元二千六百年の奉祝行事を行い、中学一年生の時に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まったことになる。

 日中戦争の始めの頃には七月七日の盧溝橋事件直後から政府は不拡大方針を繰り返しながら侵略戦争を拡大し、徐州戦線やら上海、さらに当時の首都であった南京の占領、さらには武漢三鎮陥落、広東占領など新聞報道があるごとに地図でそこに日の丸を立てて喜んでいた。勝利を祝う提灯行列もあり、新聞には皇軍の武勇談がのり、二人の将校の敵兵百人斬り競争などまで自慢のように記事になっていた。

 またその頃になると戦地からの名誉の戦死者の白木の箱を見るようになると共に帰還兵たちも次第に多くなり、あちこちで戦地での自慢話を聞かかされるようにもなった。当時の日本軍は皇軍などと言って威張っていたが、その実質はまだ未開な野蛮な軍隊で、戦争をするにも、ほとんどが「現地調達」と言って後方からの補給に頼らず、食料から日用品までほとんどすべてを現地で賄うのが普通のようであった。ナポレオンの戦法にあやかったのか、その方が補給を待つ必要がないので急速に軍を進められるという利点があるとされていたそうである。

 「現地調達」といえば聞こえが良いが、ほとんどの必要品を現地で略奪して手に入れるわけだから、相手の軍隊だけでなく一般の住民を襲って必要なものを奪わなければならないわけで、当然トラブルが起こり、残虐行為もあり、それが日本軍が「鬼子」と呼ばれた所以にもなったのであろうと思われる。

 罪もない住民から食料品や財宝を奪い、女性に凌辱を加えただけでなく、新兵を戦争に慣らすための訓練と称して最寄りの住民を見境なく拉致し、丸太棒に括り付け、銃剣で突いて殺したりするようなことまでが当たり前のように行われていた。戦地帰りの若い兵士たちは自分の珍しい経験を自慢したくて仕方がなく、子供が居ても平気で占領地での武勇談を話して聞かせていたものであった。子供の頃のことなので詳しいことは覚えていないが、今でも思い出すのが、私が初めて覚えた中国語が彼らから教わった「クーニャンライライ(女古娘来来)」だったということである。

  その後、戦争は米英相手の太平洋戦争に発展してしまい、初戦こそ占領範囲を広げ、大東亜共栄圏などと騒いでいたが、その後は負け戦の連続で、補給に弱い日本軍に勝ち目はなく、全滅を玉砕といい退却を転進と言い換えていたが、ついには空襲により国中が焼け野が原になり、沖縄を占領され、原爆を落とされて敗戦を迎えざるを得なくなったことは周知の通りである。

 こうして負け戦も戦後の混乱期を過ぎて世の中がある程度落ちついてくると、戦時を振り返った戦記や出征談などが出版されるようになると共に、個人的な戦争の体験談なども始終よく聞くようになった。

 戦後大学を出て医師になった私も医局に入ると、軍医として戦争に行った先輩医師から嫌という程戦争の話を聞かされた。軍医だったので最前線で敵と向き合ったというよりある程度後方で軍医として働いた人が多く、実際に苦労もされたのであろうが、極端に過酷な目には会わずに済んだ人が多かったのではなかろうか。

 戦争の経験はそれらの人たちにとって特別な経験だったので、兎に角元気に故郷へ帰ったからには自分のとっておきの非日常的な体験を周囲に話したくて仕方がないのが普通で、多くは実際に多少とも輪をかけた自慢話をするのが普通であった。こちらは戦後で戦争にはもううんざりしているのに、お構いなく更にうんざりするほど同じような話を何度も聞かされた。

  しかしそこで興味深く思えたのは、同じ戦争帰りでも本当に過酷な経験をした人、思い出すだけでも嫌な経験をした人、自分の良心に恥じるようなことをせざるを得なかったような人は対照的に口を噤んで決して自分から何も話そうとしなかったことであった。ソ連の抑留でシベリアで過酷な経験をした人、中国で残酷なことをしなければならない運命にあった人、生き延びるために人道に外れたことまでせねばならなかった人などはあくまでも沈黙を守り、戦争に行ったことすら隠そうとする人もいた。

 恐らく、自分に許せることなら自慢して珍しい経験を人と共有したく思うのであろうが、自分の良心に恥じることは自己防衛のためにも決して口外しないと心に決めていたように思われ、人により戦争の経験がこうも極端に違って表現されることに驚かされたものである。

 このように加害の記憶は多くは死ぬまで口をつぐんで語られなかったことが多いので、自慢話と違ってどうしても継承されにくいことになるが、それをいいことに、加害の事実をなかったことにして、戦後の国の方向性を変えようとする企みが起こりやすいことに注意するべきであろう。

 戦争は絶対悪であり、原爆や大都市の空襲などの被害の記憶とともに、日本が仕掛けた戦争で近隣諸国の人々が如何に過酷で悲惨な被害を蒙ったかという加害の記憶もいつまでも継承する義務があると考える。