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自衛隊は国民を守らない

 数日前の朝日新聞に旧満州国から12歳で一人で引き揚げてきた人の話が載っていた。似たような世代なのでこうした記事には自然と惹きつけられて読むこととなる。

 敗戦直後、満州の奥地の開拓団にいた家族は祖母や母、兄弟一緒だったが、逃避行中に皆死亡したり生き別れて、一人だけになり、苦労してようやく帰国したという悲劇の主人公の物語で、この人も今ではもう82歳になられている。

 その記事にもあったが、満州ではかっては日本でもっとも精鋭と言われていた関東軍がいたのに、戦争末期にはその多くは南方戦線に転送されており、弱小化した部隊はソ連の侵攻に備えて、既に7月ごろから住民を置き去りにしたまま、南方の山岳地帯で持久戦に持ち込むために転進してしまっていたそうである。

 満州で軍隊が住民を置き去りにして早く逃げてしまったということはよく聞かされた話であるが、軍隊としてはどこから攻めてくるかわからない敵に対して長大な国境線近くに兵力を分散させておくより、一歩下がって一旦侵攻された後に、敵の動向を見てから反撃する方が有利と見たのであろう。

 軍隊としての戦略としては理にかなっており、軍隊にとっては住民を守ることよりも、戦いに勝つことが目的であるから当然の作戦とも言えるであろう。しかし戦となっては軍隊が唯一の助けである一般住民にとってはたまったものではない。素手の住民に出来ることはただ逃げ惑うことしかない。

 これが軍隊の本質である。平時に置いては殆どの人は軍隊は国を守るのと同義に国民を守ってくれるものと思っているのではないだろうか。私の子供の頃にも「肩を並べて兄さんと今日も学校に行けるのは兵隊さんのお蔭です。」という歌を歌っていたぐらいで、誰しもいざという時には軍隊が国民を守ってくれるものと思っていた。

 しかし、事実は軍隊は決して住民を守るものではなく、住民を犠牲にしてでも、軍隊は軍隊自体を守るものであり、住民ではなく国家、すなわち国家権力を守るためのものなのである。

 満州での出来事もそれを表しているに過ぎない。その結果が満蒙開拓団の人たちが軍隊による保護から放り出され、何の防護もない中を素手で逃げ惑うしかない悲劇の中に放り込まれることになったのである。

 軍隊の本質がそのようなものであることは沖縄戦でも証明されている。沖縄戦では作戦のためには住民を壕から追い出したり、自決を強要したり、赤子の声が危険だと殺したりすることまで起こっている。

 戦争が終わり「皇軍」が消えて自衛隊になっても、この軍隊の本質が変わるはずはない。以前にもどこかで触れた気がするが、かってソ連軍が北海道に侵攻してきた場合を想定した自衛隊の机上訓練が行われたことがあった。その時も札幌近辺にまで迫ってきたソ連軍を迎撃するのに、札幌は人口が多く住民を安全に避難させることができないので、軍隊は一旦札幌を放棄して、周辺の山岳地帯に立てこもり敵軍を邀撃するという作戦が立てられたそうである。

 札幌が占領され多くの住民に危害が及ぶことよりも、最終的に勝つことが軍隊の使命なのである。日本だけではない。韓国でも、朝鮮戦争の時、北朝鮮軍の侵攻によりソウルから撤退するにあたっても、追撃してくる敵の行方を止め、自軍の態勢を立て直す時間を稼ぐために、まだ避難民が大勢漢江を渡り切っていないのに韓国軍によって鉄橋が爆破されたこともあった。

 現在の日本では自衛隊がどんどん増強され、集団的自衛権などと称して外国の戦争にまで出て行くようになってきているが、国内では大きな災害などのごとに自衛隊が出動し災害救助などで活躍し、住民にも感謝されている。しかし、自衛隊という軍隊の本質は些かも変わっていないこともよく認識しておくべきであろう。

 軍隊は個を殺して命令によって動く組織体であり、構成する個々の隊員がいかに善人の集まりであっても、一旦軍隊として動くときには一般国民のために動くのではなく軍隊のため、国家のため、、政府のために働くものである。

 戦争でなくても、国家の暴力手段として警察では手にあまる時にも軍隊が動員されて国民を与圧することはどこの国でも見られることである。平時にいかに優しく振る舞って感謝されていても、それも政府の命令によるものであり、軍隊の本質が変わるわけではない。軍隊の実質は「政府が持つ暴力の実行部隊であり、政府が雇った制服を着た暴力団」と変わらないのである。