齢を取っても忙しい

 若い人から見れば年寄りは仕事もしていないし、きっと暇を持て余して困っているのではないかと思われるでしょう。私も若い時には年をとったら時間的なゆとりができるだろうから、どこか景色の良い大河のほとりにでも寝転んで本でも読みながら一日中でもゆったりと水の流れでも眺めているような境遇になりたいものだと思っていた。

 ところが実際年をとってみると時間を持て余すどころか、つまらぬ日常のことに振り回されてなかなかゆっくりとした暇な時間も取れないものである。年をとると物忘れもひどくなるし、動作が緩慢になるので何をするにも時間がかかることになる。

 私の場合を見れば、およそは以下のようである。先ずは朝目が覚めて起き上がるにも、若い時のようにさっと起き上がって、さっと着替えるようなことが出来ない。シャツのボタンひとつかけるのも指先の感覚も動作も鈍くなっているので時間がかかる。一度で出来なくてやり直さなければならないことも起こる。ズボンを穿くにも体のバランスが取りにくいので片方の脚づつ慎重にしなければならない。ズボンを穿くときに転倒して骨折した友人もいるので注意が必要なのである。

 着替えをしてもすぐには動けない。床頭台にある入れ歯をとってつけなければならないし、入れ歯入れを洗ってその水を取り替えなければならない。入れ歯を忘れて階段を降りてしまい、食事の時まで気がつかず、パンを囓ろうとして初めて気が付き、慌てて取りに上がらねばならないことも何度か。これでは寝ている間に急に地震でも起きて急に避難した時などには絶対入れ歯を忘れそうである。

 阪神大震災のときに歯科医がどうして救急の時にそんなに必要なのかとふと疑問に思ったことを思い出したが、歯抜けの老人にとっては入れ歯がないと飯も食えないので死活問題なのである。にもかかわらず急の時に入れ歯を忘れて飛び出す老人が多いのもほぼ必定だろうから、災害時に歯科医の助けは必須であろう。

 老人は嫌でも早く目が覚めてしまうものだから起きてもまだ外は真っ暗である。新聞もまだ来ていない。昔だったらどうだろう、何もすることがなかったであろうが、今は違う。インターネットの時代である。

 私のような老人ですら、起きたら最初にすることは今ではインターネットの電源を入れてパソコンを立ち上げることと決まっている。年をとるとかえって苛ちになる。パソコンが開くまで待っていられないので、その間に雨戸を開ける。外はまだ真っ暗。周囲の家はまだ皆眠っている。出来るだけ音を立てないように少しづづそっと開ける。

 そのうちにパソコンの画面が開かれるが、嬉しいような哀しいような。万能の機器パソコンは今や老人にとっても不可欠の道具になっているが、この年ではマウスを動かして画面をクリックいたり、キイボードを打ったりするのも若い人のようには行かない。キイボードを見ながらポツポツと五月雨打ちしか出来ない上に誤りが多い。その訂正にも時間がかかる。

 こうしてメールを見、フェースブックツイッターで娘や孫たちの動静を見て「いいね」を押して楽しんだり、国や社会のニュースを見て一人で憤慨したり情けなく思ったりするのが朝一番の仕事となるが、メールの返事を出したり、コメントを書いたりしているとやたらに時間を取られることになる。

 よたよたとそんなことをしているうちに夜が明けて朝飯の時間になるが、食事をするのも、若い時のような我武者羅に食物を口内に放り込んだら良いというわけにはいかない。入れ歯を支えている下顎の歯が一本だけなので、固いものや粘稠なものを噛むときには入れ歯が外れないように注意して嚙まねばならないし、細い麺類や小さな食物残渣が上顎と入れ歯の間に入ってしまって困ることもある。食事が済むごとに口をゆすがないと気持ちが悪い。

 飯が終われば忘れないように薬も飲まねばならない。心臓の血管にステントを入れてもらったので血栓ができるのを防ぐための薬を処方されているのである。昔は食べっぱなしでよかったが、今は食後に大急ぎで皿洗いもしなければならない。4時に起きてもその頃にはもう5時半は過ぎている。

 6時からは体操の時間にしているので、それまでに排泄を済ませておかなければならないが、これがまた年をとると大変なのである。なかなか思うように出なかったり、反対に下したりもする。時間がかかるので本を読みながらということになるが、本はどんどん読めても肝心の方は思うようにはいかない。一日に何回も行かねばならないこともある。終日家にいるような時はよいが、遠出などした時には、場所のよってはトイレのありかを気にしなければならないことにもなる。

 排泄のことに関しては小の方も年とともに男では多かれ少なかれ問題が生じることが多い。私の場合、漏れることはないが、勢いが悪く切れ切れで時間がかかる。公衆便所などで隣に若者が立ったりすると滝と小川ぐらいの違いで、若者は後から来てもさっさと済まして去っていくが、こちらはいつまでも立っていなければならないことになる。

 トイレが長引くとたちまち6時を過ぎてしまう。時計を見て慌てて飛び出し、階段を駆け下りてテレビを見ながら体操をすることになる。初めはテレビを見ながらの筋トレである。腕立て伏せや下肢の筋力低下を防ぐための運動をしてから、6時25分あたりから昔からのラジオ体操が始まることになる。

 それが終わればやっと一休み。新聞の時間である。但し、これも若い時と違って老眼鏡をかけないと読めないし、指先の感覚が鈍くなる為かページがめくりににくいのでついイライラさせられる。しかし昔と違って読む時間の制約がないので読みたい記事をゆっくり読めるのはありがたい。最近はアメリカにいる娘が帰国した時に誕生祝だといって買ってくれたマッサージ器があるのでソファに腰掛けて機器にあたりながら新聞を読むのが楽しみになっている。

 序でだが、指先の感覚は鈍くなるばかりか微妙な作業も下手になるのでワイシャツの袖のボタンなどが留めにくくなるし、最近やたらと多いプラスチック包装の食品やお菓子などの開封に手こずることにもなりやすい。薬をPTP包装から押し出しにくくもなる。指だけではなくて握力も弱くなるからであろうが、瓶やペットボトルの蓋のネジも回り難い。どうしても開かなくて他人に頼みたくなることすらある。老人はそんなことでも無駄にイラついたり情けなくなったりしながら余分な時間を費やすことにもなる。

 新聞が済むともう三十分も一時間も経ってしまっている。用のある日はそろそろ出かけなければならなくなるし、家にいる日も天気が良ければ散歩に出かけるか、天気が悪ければ家でまたパソコンに向かってブログの文章を作ったり、取り込んだ写真に手を加えて作品作りをしたり、自画像のスケッチをしたりと趣味のことを始める時間になる。

 ところが出かけるだけでも年をとると若い時のように思い立ったらすぐにさっと出かけるようなことが出来なくなる。出かける前には先ずは火の元、戸締りを確かめることだが、忘れっぽいので締めているつもりのガス栓をもう一度確かめねばならないし、戸締りも確かめてみると案外開けっ放しの窓が見つかったりもする。

 次には持ち物である。財布に鍵は若者でも同じだが、メガネは近視用と老眼鏡がいるし杖も忘れてはならない。ケイタイも要るし、場合によっては薬や貼り薬、失禁用の備えなども必要な時もあろう。出掛ける用事に応じた持ち物もある。年とともに動作は遅くなるのに揃えるべき持ち物は増えるのである。

 その上忘れやすいとくるから、もう門を出て道路を歩き出してからどうも外界が見えにくい、おかしいなと思って、ふと出るまで家で本を読んでいた時の老眼鏡をかけたままだったことに気が付き、仕方がないので家まで引き返してメガネを変えて出直さなければならないようなことも起こる。

 先日などは一旦鍵をかけて外へ出てから、ガスの元栓を確かめるべくまた鍵を開けて家の中へ入り確かめてから再び鍵をして外へ出て歩き出したのはよいが、今度は杖を忘れたことに気がついてまた戻らなければならないようなこともあった。こうして余分な時間を取られ外出するだけでもいつもスムースに行くとは限らない。

 外へ出ても、バスに乗っても、乗る時は良いが、降りる段には、バスが止まってからどっこいしょと座席から立ち上がり、後ろの席からよたよたと運転席の横の出口まで来て蝦蟇口を開き、貨幣を選んで勘定し、ぼちぼちと金銭投入口に入れる。やっと入れ終わったら蝦蟇口をポーチにしまい、手すりを持ってバスのステップを一段づつゆっくり降りることになる。

 昔はそんな老人をイライラしながら見ている乗客もいたが、今のように老人の乗客が多くなり、それが日常茶飯事となり、老人の安全が優先して考えられ、その旨のアナウンスも流されるようになっては急ぐ乗客ももう初めから諦めている。

 老人にとっては電車なら切符を買うのが一苦労の時もある。慣れた人なら何でもない機械の操作も慣れない人にとっては時に大変である。どこをどのようにどういう順番で押せば良いのか戸惑うのは必ずしも老人とは限らないが、利用することが少なく新しい環境に慣れにくい老人が戸惑うのは当然ともいえよう。切符でなくても、銀行や郵便局のATMやコンビニの振込機やコピー機などでも器械ごとに操作が違うので手こずる。途中で間違ってまた初めからやり直さなければならないことも起こる。

 さて切符を買って改札のバーを通って構内に入っても階段はすぐのところにあっても、エレベータやエスカレータは後から空いた空間を利用して作った所が多いので、たいていは少し不便なところにある。どこにあるかを確かめ、そこまで行って利用しなければホームに辿り着けない。若い時と違って電車に乗るにも時間がかかる。知らない大きな駅だとあらかじめ調べておかないと駅の構内でまごつくことにもなりかねない。

 今年の7月までは午後に毎日のように出かける用事があったが、8月に心筋梗塞をしてから規則的に行かねばならない仕事は皆辞めた。それでもこちらが暇だからというので忙しくて人が出にくい健康相談などの事業などに出てくれと頼まれる。大抵は昼からの短時間だが服装の用意や必要な持ち物など忘れ物のなように揃えたり、どのカバンにするか決めたり、服装の用意をしたり、毎日の事でないので却って気になり、つまらぬことで時間を取られる。若い時なら本業の片手間で出来たことが、準備や帰ってからの片付けなどを入れるとまるで一日仕事のような感じになる。

 家でする趣味のパソコンでの写真のリタッチやブログ書きの仕事や、時に行く2〜3日の旅行のプラン作りや準備なども若い時のようにはいかない。パソコンであちこち探すにも要領が悪い上に操作も遅いので時間がかかる。予約を打ち込んだりするにも手続きにモタモタして一日パソコンの前から離れられない事にもなりかねない。

 それに心筋梗塞をしてから今後ますます歳を取っていくし、庭の手入れや家事も次第に大変になっていくだろうことを見越して、そのうちに生活の根拠をマンションに移そうと考えたので、断捨離というか終活というか、身の回りを整理をしなければならないことになった。先ずはこれまで長い間に溜まったガラクタのような書籍や書類、写真、絵画その他の作品とも言えない作品の山の整理をしなければならない。

 これがまた大変なのである。今はなくなったが、昔の年末の大掃除や長年住んでいた家からの引越しを経験された方はお分かりだろうが、他人にとってはガラクタでも本人にとっては思い出に繋がる品々の処分はそう簡単ではない。出来るだけ不要なものは捨てて身軽にしようと思うのは誰しも同じだろうが、捨てる物と捨てない物の区別が大変である。齢をとると決断力も悪くなるようである。そこへ判別の過程で出てきた個々の具体的な品々が昔の思い出に繋がるので、それに囚われてさらに判別に時間がかかることになる。

 こうして年をとると何事もなかなかスムースには進まない。時間だけが経っていく。ただでさえ時間がかかることを、年寄りはなまじ時間があると思うのでなおさら時間をかけることになってしまい、時間があるのに忙しいことになる。

 こんなわけで、一見暇そうに見える老人も、大したことはしていないのに、ゆったりではなく、それなりに忙しくしているものである。動きが鈍く、忘れやすい老人にとっては、何をするにも若い時のように手際よくこなすことが出来ず能率が悪いので、出来ることは少なくても時間がかかり、時間があっても出来ることが少ないので、結局、時間を持て余すどころか、時間が足りず、やっぱり時間に追われて暮らさねければならないようである。