老人の日

 今日は「敬老の日」である。毎年この日になると思うのはこの国には「こどもの日」はあっても「老人の日」がないことである。「敬老の日」があるではないかと言われるだろうが、こどもにはこどもが主体的な「こどもの日」があるが、それに対して老人を主体とした「老人の日」はなく、老人を客体としてみた「敬老の日」とは異なる。

 こどもの場合には、こどもが楽しみ成長するのを支える社会がある仕組みになるが、老人の場合には社会が老人を敬ったとしても、老人が自分たちで生活を豊かにするのを支える社会という仕組みではなく、社会が老人をどう扱うかという仕組みになっているとも言える。社会が老人をいかに遇するかが、「敬老の日」の意味するところであろう。

 若者が多く老人が少ない社会では老人がそれなりに敬われても.今のように老人が多くなると社会は老人を敬ってばかりおれず、若者の生活の足を引っ張る厄介な老人の面倒をいかに手を抜いて安上がりで済ませるかを考えなければ社会が回らなくなるといった考えも強くなってくる。「敬老の日」は看板だけで、シルバーウイークという若者の休日に変質してしまっているといっても良いかもしれない。

 それを敬老の勧めで解決しようとしても無理であろう。倫理はゆとりのある時にしか通用しない。老人にも当然若者同様生きる権利がある。敬老をしてもらわなくとも「老人の日」にして老人の生きる権利を主張させて貰うべきであろう。

 老人は年金を貰って働かないで楽しんでいると思われがちであるが、実態はそんな優しいものではない。最近の出版物だけみても、「老後破産・長寿という悪夢(NHKスペシャル取材班・新潮社)」、「下流老人ーー一億総老後崩壊の衝撃(朝日新書)」、「老後に破産する人・しない人」、「老人たちの裏社会」、『老人に冷たい国・日本「貧困と社会的孤立」』、「無縁社会(文春文庫)」など、多くの老人の生活の惨状があらわに描かれている。

 こうした老人が総務相の資料によれば、65歳以上の人口が3384万人(26.7%)80歳以上でも1002万人(7.9%)女性では十人に一人が80歳以上にもなるのである。しかも、これら高齢者のうち要介護の人が18%、日常生活に影響のある人が1/4になるという。それも十年前と比較して総人口は94万人減っているのに65歳以上の年齢は808万人も増えているのである。

 老人が多くなれば医療費や介護費はあがり、医療や年金などの社会保障費が嵩み、人口減少などで高度成長を望めない社会で、膨大な赤字財政をかかえ、その上に安保関係からくる対米関係予算や軍事費の増大を考えれば、財政のやりくりは消費税の増税ぐらいで収まるものとも考えにくい。

 その結果のしわ寄せがどこに行くか。常に犠牲になるのは弱い者のところである。そう考えると老人の窮状はまだ始まったばかりで今後どのような展開を見せるのか想像するだけでも空恐ろしい感じさえする。

 このまま進めば、今や長寿は寿がれるものではなく、如何に健康寿命を生命寿命に近づけて社会の負担にならずに生を終えるかが老人に課せられた使命ということにもなりそうである。ただし統計では健康寿命の伸びは平均寿命の伸びより少ないのでそう思惑通りに行くかどうかはわからない。

 老人になればなるほど人は身体的にも社会的にも多様になるものである。老人は主体性を持って「老人の日」を掲げ、老人たちが主体性を持った多様な老後を送れるように主張すべきであろう。未来を背負う若者を育てることも必要であるが、老人も社会を背負ってきた者たちの最後の多様な生活を守っていくことが今後の社会を明るくしていく道ではなかろうか。