”人体修復工場”

 今年の8月に私は心筋梗塞を起こして循環器病研究センターへ救急入院した。さすが日本を代表する循環器病を専門とする最高の専門医療施設である。

 救急車から病院への受け入れもスムースだし、外来救急室からCCU病棟を経て、カテ室におけるPCI、ステントの挿入など流れ作業のごとく見事に処理されていく。それが済むと病棟へ上げられ、やっと落ち着くことになる。もうこちらはベルトコンベアに乗せられた物体となってあなたまかせに身を委ねるよりない。

 やっと病室に入っても、全ての入院患者の心電図や酸素飽和度が病室でもナースステーションでもモニターされるようになっているし、記録は全てパソコンに入れられ、関係職員は誰でも同じ画面を見る事が出来るので、現場でいつでも生のデータを見て判断出来るし、現場で入力したデータも全て同じパソコンに入り統一したデータとなっている。

 従って各職種間の連絡にも間違いがないし、個人の識別も名前と記号入りのリストバンドを頼りに、何をする場合でも先ずそのバーコードと本人との照合で、人違いの恐れも除かれている。 

 検査設備ももちろん一流である。心電図や胸部X線などはいうに及ばず、エコーやCT、MRI, RIなど、あらゆる可能な検査は順序よく行われ、必要なものはダブルチェックで判断されているようで、技術的な面では恐らく殆ど問題となる点もないのではないかと思われるほどである。

 病棟にも薬剤師、栄養士、クラークなども配置されており、直接患者とも対応出来るようになっている。糖尿病患者などには栄養士が直接個々の患者の食事指導までしているようだし、患者の食事アレルギーも栄養士が聞いてパソコンに入力されている。

リハビリテーション棟もあり、多くのスタッフを抱え、色々な設備も整え、入院、外来の患者を対象に心疾患のリハビリも系統的にかなり広範に行われている。

 看護師さんらの患者さんらへの対応もよく訓練されており親切で、言葉使いも丁寧である。訪ねてきた女房が昔の国立病院の看護婦さんの態度と随分違うと言って感心していた事でもわかる。

 ただ悪く言えば、アメリカ式のマニュアルに則った接客術の訓練の結果のような表面的、形式的な感じのあるところも否めない。例えばナースが勤務が変わるごとに受け持ち患者ごとに挨拶にくるが、始終交代が激しいので名前を言われても忙しいので、短時間の出会いしかなく、次々に交代していくので、礼儀正しいが、人間的なつながりが出来るところまでは行かないし、それどころか名前さえ覚え切れない。

 ごく短期間入院した一患者のインプレッションに過ぎないので、全てがそのまま当てはまるのかどうか必ずしも自信はないが、病院部門だけ見ても、昔の病院と比べると随分進化している。以前なら一般に病院は入院して必要な処置を受けながら休養し、体の回復を図るというような場所であったのが、今や多くの発達した技術や機器が積極的に動員され、次々に必要な処置が施され、それらが済めばゆっくり体を休ませる暇もない間に退院となるといった感じになっている。 

 高度な機構で大勢の患者を処理するために、病院は以前よりはるかに高度に組織され、よく訓練された組織体になっている。ただあまりにも大きな組織で、すべてが流れ作業式に隙間もなくスムースに事が運ばれ、まるで巨大な”人体修復工場”のような感じがして、どこか何か不安で恐ろしい所に収容されたような感じさえ受けたことも否めない。

 医療的な技術は最高だろうし、診断や個々の適応に関してもEBMの効果的な判断で大きな間違いは起こり難いようになっているのだろうが、問題はあまりにもDisease oriented に組織され、それを目指しているので、どうしてももパターナリズムに傾き、必ずしもPatient oriented でないところが何か怖さのようなものを感じさせられるもとではなかろうか。

 後からみて驚いたことは入院してから「どのように治療して欲しいですか」とか、「ステントを入れますか、どうしますか」とかいうような相談を医師から一度も受けたことがなかったことである。これがアメリカなら、同じステントを入れるにしても「どれにしますか。この保険ではこれしかカバーされません」とか何とか、治療の前にはいろいろ病院側と患者の間で話し合いがあるところだろうが、この国では健康保険も関係しているだろうが、殊に救急患者などの治療では、始めから決まった病院の治療方針に有無を言わせず乗せられることになっている。全くパターナリズムでDisease orientに事が進められる。どうかすると患者は対象物に過ぎなくなる。

 また、私の場合、退院前のことである。随分いろいろ検査をしてもらって、事前に「これらの検査で異常がなければ退院でよいが、もし何か異常所見でも見つかれば延びますよ」という話だったので検査が終わってその積りで待っていた。

 ところが検査の結果をまだ聞いていないのに、退院の前日の夕方に病棟のクラークが明日退院ですと言ってくる。ついで看護師さんからも明日退院ですと言われたが、退院は嬉しいものの、まだ主治医からは何も聞いていない。検査の結果が恐らく良かったのだろうと想像はしたものの、まだ結果を知らせて貰っておらず、どうなっているのか不安になった。

 何も連絡のないまま夜は更けていくし、このまま朝になってしまって訳も分からないうちに退院となるかも知れないと少し不安になり、ナースに主治医との連絡を頼んだ。若い主治医は忙しいので検査の説明や退院の相談などより先にしなければいけない事も多いだろうと分かっていたので、夜遅くまで待っていたが、9時頃になってやっと主治医から検査の説明を受け退院を納得出来た。

 私の場合は本来の主治医が急の病気で途中から代わりの医師が主治医代理になったという特殊な事情があったのかも知れないが、想像するに、恐らくクラークが退院を告げる以前に主治医などを交えたカンファレンスか何かで検査の結果などを踏まえて退院可の結論が出て、事務的な退院の手続きが始まったのであろうが、患者にしてみれば、主治医の説明もないままに退院の手続きが先に進められるのに違和感を感じないではおれなかった。

  こんなところに巨大な組織の中では、機械的に流れる日常の作業の間にこうした組織の隙間が生じ、患者を無視したままルチーンの作業が機械的に独り歩きしてしまうことが起こるのではなかろうか。DIsease Orientedに熱心に取り組むために、その疾患を持つ患者へのPatient orienntedなところでは少しばかり気が回らないことが起きるのであろうか。

 世話になり最新の治療で回復し元気にして貰っておきながら、誰を責める積りはないが、益々高度医療化が進み、重装備された巨大な病院の組織の中における疾患と患者への対処の仕方の難しさを感じさせられた次第である。