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弁当ドロボー 

 新聞を見ていたら「弁当泥棒」という活字があってつい懐かしく、思わず記事を読んだ。もう久しくこんな言葉を聞いたことがなかったが、戦中、戦後の頃には時々耳にする馴染みの言葉であった。今では考えられないような皆がひもじい思いをしていた時代であった。決してもう二度とそんな時代は来て欲しくないが、今となっては懐かしくさえ思い出される。

 振り返ってみれば、戦前、戦後はこの国自体がまだ貧しく、昭和の恐慌の頃には、まだ娘を売らねば生活できない貧しい農家も多かった。田舎へ行けば筒っぽの着物を着て裸足で小学校へ通う姿も普通であったし、大阪の郊外でさえ、地元の子供の中には修学旅行で生まれて初めて汽車に乗る子も多かった。

 その貧しさの上に戦争の重圧が加わり、一億総動員で国内でも人手不足に輸送の障害も加わり、食料事情がどんどん悪くなり、戦争が進むとともに、皆がいつでも腹を空かし、栄養失調といわれるような人々も増えた。その頃の栄養学は「何が足りないから注意しよう」という「不足の学問」で、今の取りすぎ、太り過ぎの「過剰の栄養学」とは真逆さまであった。

 そんな時代だから弁当といっても、今のように色々なものが入っているわけではない。「日の丸弁当」といって白い飯の真ん中に赤い梅干しが一つあるだけのものである。見かけが日の丸の旗に似て、「贅沢は敵」だと言われた時代の学校の弁当では手本として推奨され、流行っていた。お腹さえ一杯になれば栄養の偏りまで問題にするゆとりはなかったのであろう。

 ただ「日の丸弁当」で思い出すのはその頃は今のようにプラスチックがまだなかったのでアルミで出来た弁当箱が多く、酸に弱いので梅干しのために長い間に穴の開くようなことがあった。その内にアルミに何かをコーティングしたアルマイトが作られこれなら大丈夫といわれていたことを思い出す。

 それでも「日の丸弁当」でも腹一杯食べれた頃はまだ良かったが、戦争が進むとともに食料が足らなくなり、そのうちの麦飯や芋を混ぜた飯、大豆飯などが主食となり、さらにはそれすら間に合わなくなって、見た目のボリュームだけ多くするために「おじや」にしたり、雑炊にしたりと工夫されたが、思い出せば「楠公飯」といってボリュームを膨らます方法もあった。 

 昭和19年の秋頃には中学生までも工場に勤労動員されていたが、そこで流行っていた歌に「おっさんめし喰わせ!豆の入っためし喰わせ!」というのがあった。旧満州からの輸入大豆で主食を補っていたのだが、やがて船舶が沈められてそれも届かなくなったようである。

 こうして絶対的な食料不足はどうすることも出来ず、1日2合1勺の配給米ではかろうじて命をつなぐことさえ困難な状態であったが、とうとう昭和20年5月の閣議で主食のパンにおがくずを混ぜることが決められたというような惨状にまで落ち込んだ。

 こんな状態であったから、敗戦後は多くの餓死者もみられ、動物の飼料であるララ物資などに助けられ、法律違反の闇米でどうにか命を長らえたようなものである。真面目な裁判官だったかが闇米を買わずほんとうに餓死した悲劇もあった。

 その年によって様子も違ったが、こんな時代には若者は特にいつも空腹感に悩まされることになり、学校の授業中でも昼まで待てず授業中に机の下で弁当箱を広げて教師に見つからないようにこっそり食べることが流行ったりした。

 戦後の思い出としては雑炊にすると量が多くなり少しでも空腹感が癒されるので、どこかの店で雑炊を食わせてくれるというので友人と二人で一駅先まで歩いて雑炊を食べに行ったことがあった。

 こういう時代には新聞にあったような弁当泥棒の話も何度か耳にした。弁当箱ごとなくなったとか、弁当を開けたら空っぽだったという話や、友達と弁当を分け合って食べたなどというのも聞いた。また昼の休みで皆が弁当を食べるときに限って何処かへ行っていなくなる生徒もいた。きっとどこかで空腹を我慢していたに違いない。

 食料を自給自足出来ない国が戦争をすればどういうことになるのか考えていて欲しい。現在のこの国の食料の自給率は40%以下とか聞く。これだけからでも戦争を考えるよりも、近隣国などといかに友好関係を深めて平和を守っていかねばならないかが明らかであろう。

 戦後の混乱期に空腹のまま汽車で移動している時に、田舎の人が広げて食べだした白米のおにぎりの輝きが今も忘れられない。今のおにぎりにはそんな輝きは感じないのに、その頃の輝いたおにぎりは「銀シャリ」と言われた通り、飢えた多くの人々の憧れの的であった。もうあの時代には戻りたくないものである。「戦争法案」に反対するのは当然である。