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クロッキー

 クロッキーのグループに入れてもらってから何年になるだろう。たまたま池田のギャラリーでクロッキーの個展をしている人がいて、そこからクロッキーのグループを知り、入れてもらったのが最初であった。もう十五、六年以上も前のことである。以来月に一度、殆ど休むこともなくずっと続けている。クロッキーの腕前はいっこうに上達はしないが、結構楽しませて貰っている。

 クロッキーというのはごく短時間に対象の特徴を捉えてそれを描写するもので、絵画の基本に位置するものである。精密な描写と違い、短時間の内にいかに鋭く対象の特徴を掴み取るかの観察力、脳での記銘力、さらにはその捉えたイメージをいかに自分なりに短時間で素早く表現するかなどを訓練するものであろう。

 いつも専門のモデルさんに来て貰って描いているが、単純なようでいてなかなか奥が深い。上手、下手は別としても、どうしても短時間の勝負なのでその人の個性が出る。いつも二十五、六人程度が一緒に描いているが、方向だけは違っても同じモデルさんを同じ場所で同じように描いているのに、出来上がったクロッキーは一人一人で皆違っている。どの絵にもすべて描いた人の個性が現れるからである。

 大胆な人の絵は大胆な絵になるし、小心の人のそれは神経質な絵に、淡白な人はあっさりした絵に、ねちっこい人はねっちっこい絵といった風になる。輪郭線ひとつにしても生きた線もあれば死んだ線もある。濃淡、強弱、太い細いなどが微妙に変化して勢いがあり惚れ惚れとするような線を描ける人もいる。たった一本の線でもどうしてこう違うのだろうと思うぐらいに色々である。

 いかに訓練しても人の持って生まれた性格や才能による違いは乗り越えられないように思われる。はたから見ても惚れ惚れとするようなよい絵を描いている人に憧れて、自分もひとつこれからあんな風に描いてみようと決心して、その人の真似をしようと思っても決してそれは成功しない。

 他人の個性は盗めない。やはり自分の個性や、持って生まれた能力によって、自分なりに思い切って描くよりない。他人の真似をして描き方などを工夫しても決して自分の思うようなものにはならない。下手でも自分なりに思い切って描いて楽しむのが良いというのが結論である。

 日によって手が動きやすい時もあればそうでない時もある。モデルさんのポーズによっても、これは何としてでも描きたいと思う時から、今ひとつ気乗りがしない時まである。ポースの時間も2〜3分から5分ぐらいが私には一番よいようだ。

 それ以上長いとモデルさんのポーズも自ずから限られるし、時間が余ると弄り過ぎてかえってよくない。駅の改札口から出てくる人を次々に写生するという才能を持った人もいるようだが、私には1分などとなると短かすぎて手がついていけないので、全身を描くところまでいかなくなる。

 ある時、部屋の整理をしていたら偶然学生の頃に書いたクロッキーが出てきたが、それを見てがっかりしたのはその頃と比べて少しも上達していないように思われたことであった。

 もうこれから先に今よりうまくなることは考え難い。しかし描くことが楽しいので止めることは考えたことがない。クロッキーの例会に行かなくても家でも何か落書きをしたり、廃物があれば何か怪しげなものを拵えてりしないと気が済まない性分のようである。下手の横好きと言うのであろうか。

 老い先短い現在になってみれば、今よりうまく描けるようになるはずはないが、折角生きているのだから、死ぬまで描ける間は描いて楽しまなくては損だと思っている。