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「折々のことば」より

 最近、朝日新聞の朝刊に哲学者の鷲田清一氏の「折々のことば」というコラムが毎日一面に出ている。以前に長い間続いた大岡 信氏の「折々のうた」をならったものだが、面白い言葉の発見もあるので毎日楽しみにしている。

 数日前のものには87という数字があるのでこのシリーズも既に3ケ月も続いていることになるようであるが、この日の「ことば」は次のようなものであった。

 

『彼らは、この文明世界に真の悲劇などありえないと信じているからこそ、悲劇をもてあそんでいるのである。(オルテガ・イ・ガセット)

 スペインのこの思想家は、第1次世界大戦後しばらくして、この惨劇の根に現代人の「慢心」を見るようになった。「慢心」とは、自分に満足し、「自分以外のいかなる審判にも自分をゆだねない」こと。19世紀以降、人類はそうした「慢心したおぼっちゃん」の時代に入ったと警鐘を鳴らした。「大衆の反逆」(神吉敬三訳)から。』

 

 おそらく今の安部内閣の暴走も頭をよぎってこの「ことば」が選ばれたのであろうが、今の政府を見ていると、まさにこの通りだと思わざるを得ない。戦後に生まれた安部首相にはもう70年前の悲劇は単なる昔話に過ぎないのであろうか。

 ガセットのこの言葉は安部首相に限ったことでなく、もっと広い社会全体に向けられたものであるが、自分に満足した「慢心」が「自分以外のいかなる審判にも自分をゆだねない」という反知性主義といってもよい傲慢さに繋がるのであろう。

 アメリカのブッシュ大統領を思い出してもよい。客感的な証拠さえ確かめないで、自分だけの審判で敵と決め、仲間まで敵か味方か決めつけ、強引に他国を侵略し、未だに癒し難い「悲劇を弄んだ」ことは記憶に新しいが、それより一回り小さいが「慢心したおぼっちゃん」が今またアジアの島国で悲劇を弄ぼうとし始めている。

 悲劇を弄ぶ方は失敗してもまだよいかも知れないが、弄ばれることになる普通の人々の方はそんな「慢心したおぼっちゃん」の犠牲になったのではたまったものではない。

 多くの人たちが憲法改正集団的自衛権に反対するのは当然であろう。