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折り込み広告

 毎日、新聞とともに大量の折り込み広告が配達されて来るが、そのすべてに目を通している人がいるだろうか。もちろんスーパーの広告で特価品を探したり、家やマンションを探している人や車を買い替えようと思っている人などがそれぞれ自分の関心がある広告だけは取り出して参考にしている場合も多いだろうが、利用されるのはごく一部で、大部分はゴミ箱へ直行ということになっているのではなかろうか。

 私のように年寄りになると、折り込み広告はもう殆ど邪魔になるだけである。 毎朝、郵便受けから新聞を取り出して、はさみ込まれた折り込み広告をはずしてゴミとして出す古新聞の袋に移動させなくてはならない。それもひょっとして何か有用なものが紛れ込んでいるかも知れないと思って一応皆めくって確かめなければならないのが手間である。

 土曜日などは本体の新聞より重い大量の広告が入ってくるが、あれでは配達する人も大変だろうと思わざるを得ない。これだけの広告を入れてどれほど目を通して貰えるのであろうか。配る方も重くて大変だし、受け取る方も返って迷惑でさえある。

 ただ、そんなことは皆が知っていながら、いつまでも続いていても誰も文句を言わないのは何故だろうか。おそらく時には役に立つことがあり、邪魔にはなっても害がないからであろうか。広告の全てが悪いとは言わないが、この折り込み広告はただ大量に作って大量に捨てられるだけで資源の無駄使いである。資本主義の世の中では我慢しなければ仕方がないものなのであろうか。

 ただ、今の資本主義のからくりの中で人々が動いている限り、広告をあれだけ入れることが関係する多くの人たちの生活の一助になっていることも考えに入れねばならない。

 再生紙を主とした紙屋さん、印刷屋さん、広告主や広告屋さん、新聞販売店など職種だけでも広範な人がかかわっている。それによって広告主の売り上げが伸びればその関係者も潤うことになる。ずいぶん多くの人の生活の助けになっていることを思うと一概に無駄だからすぐにも止めろとは言えなくなる。

 それに今や広告も電子媒体の方に移って紙の広告は落ち目だそうである。そのうちに新聞広告や折り込み広告も変わっていくのかもしれないが、今のところやはり資本主義の資源浪費の必然性の象徴のような気がして何とかならないものかと思わないではおれない。

 いくら再生紙だといっても同じ紙ならもっと役に立つ使い道もあるはずである。まだまだ貧しい後開発国もあることだし、そういうところの学校の教科書だって出来、その国の子供たちの教育に貢献することだって出来ることであろう。

 電気製品にしろ、家庭用品にしろ随分大量に生産され、大量に消費され、大量に捨てられて来た。資源保護などと言っても資本主義は本質的に資源の無駄使いをしなければならないようになっているようである。

 政治や経済の仕組みを変え、無駄を省くことによって世界中の子供や大人の人々が公平に豊かな生活が出来るようにする手立てもあるはずである。大量の折り込み広告を見るためにこんなことを考えさせられている。