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被害と加害

 以前にも書きましたが、イソップ物語に少年が池の蛙に石を投げる話があります。手元に本がないのでインターネットに載っていた話で再現しますと、

”ある日のこと、男の子たちが池の近くで遊んでいたのだが、
「あっ、池にカエルの群れがいるぞ。石を投げてやっつけてしまえ!」と、

池のカエルたちに石を投げつけて、その中の何匹かを殺してしまいました。
 すると、カエルたちのリーダーが水の中から顔を出して叫びました。
「止めてくれ! 君たちには遊びかもしれないが、我々には命に関わることなのだ!」

 自分たちには楽しい事でも、相手には迷惑なことがあります。
 何事も、相手の身になって考えることにしましょう。ーおしまいー”

 この話からも判るように加害者の子供たちは家に帰れば自分のやったことなどすぐ忘れてしまうでしょうが、カエルたちにとっては仲間が殺された重大事件です。石を投げた子どもやその親に謝って貰ったところで簡単に忘れることは出来ません。いつまでも死んだ仲間を忘れる事は出来ないでしょう。

 人間の世界でも、御巣鷹山日航墜落事故からもう三十年になりますが未だに毎年供養に山の上まで行かれる遺族の姿が見られ、そのために道路や供養塔などの管理人となって周辺の手入れを続けられている人の話もテレビでありました。

 JR福知山線の事故からも十年も経ちましたが未だに毎年の供養は続き、責任追及は続けられています。現場の保存もされるようです。

 これらはいづれも事故で戦争ではありません。事故は多分に偶然性を含むものですが、戦争は故意のものです。ことに自分が生活している故郷が戦場になった時の悲惨さは筆舌に尽くせないものです。沖縄の人がよく知ってられます。

 私も大阪で空襲に遭いました。広島の原爆も見ました。その記憶は七十年経った今でも昨日のことのようにはっきりと思い出されます。広島や長崎の人は今も熱心に原爆に抗議しています。原爆や空襲にあった人たちはいつまでも忘れられませんし、忘れてはならないと思っています。

 親や子供、愛する人を殺された被害者は自分の受けた被害を簡単に忘れることは出来ません。加害者にいくら謝ってもらってもそれで済むものではありません。これは人間共通の感情ではないでしょうか。

 今日の朝日新聞の川柳にも「原爆に反省欲しい思いあり」

というある人の慎ましやかな表現ですが、七十年たっても忘れられない深い思いがにじんでいました。

 日本にいる我々がそうであるなら世界中の人も同じではないでしょうか。朝鮮半島や中国大陸に住む人達も同じ人間です。侵略戦争や植民地化などという過酷な条件のもとで悲惨な目にあった人たちがその記憶をいつまでも持ち続けることは日本の人たちと変わらないでしょう。

 過去の”大日本帝国”が朝鮮半島を植民地にし朝鮮人を自分たちより下等な人間として扱い、戦争中は多くの朝鮮人を徴用したことや、中国に侵略し”現地調達”が普通であった日本軍があちこちの占領地で略奪や暴行を加えたことは世界中で周知の現実にあった事実であり、現在の日本政府も認めていることです。

南京事件はなかった」とか「慰安婦は強制されたものではない」などというのは自分の娘が目の前で強姦されたのに犯人がそれを否定しているようなもので、それを怒らない者はいないでしょう。「原爆投下はなかった」「原爆で死んだのは一万人だけだった」と真顔で言われたらどんな氣がしますか。

 加害と被害は裏腹にあるものですが、そのそれぞれに与える影響はまったく違うのは当然です。両方を見なければ全体像はわからないでしょう。

 それにもかかわらず、例えば大阪では大阪国際平和センターの展示にあった加害行為を説明していた展示が一部の府議や市議らの「自虐的」などとの声に応じて撤去され、大阪大空襲の展示が拡大されたそうです。

「大方は被害の記録終戦後七十年の回顧の特集」(朝日歌壇2015.04.27.)

という短歌もありました。日本でも被害のことについてはいつまでたっても忘れられませんが、自分たちの犯した加害についてはともすれば忘れがちであり、気がついても口をつぐみがちなものです。自虐的だと考える人さえ出てきます。

「何度謝れば済むのだ」といったところで何度謝っても済むことではないのです。相手が気の済むまで謝り続けねばならないでしょう。原爆や都会の無差別爆弾の被害など、被害者の身になってみれば何度謝ってもらってもそれで気が済むようなものでないことは容易に想像がつくでしょう。

 戦争を知らない若い人たちもこの戦争の事実を正しく知って、たとえ祖父母や親の世代の出来事であっても、理由の如何にかかわらず明らかに日本という国が悪いことをしたのだから、それについて被害を被った人たちに謝って、そこからはじめて対等の付き合いが出来るものではないかと思います。過去の償いをすることは自虐ではありません。過去を反省し、新たな友好関係を始める出発点なのです。

 被害者と加害者の違いを知ることが必要です。被害と加害を自分と相手の立場を入れ替えて考えて見ればわかることではないでしょうか。

 東北アジア日中韓は何千年という付き合いの歴史があります。場所を変えることの出来ない近隣の地域に住む我々はお互いに交流を深め理解し合い助けあって皆が幸福に暮らせるように努力するしか他に共存する方法はありません。国の区別なくこの地域に住むすべての人たちの友好と幸福を願って止みません。