老眼だけでない老眼

 私の老眼も人並みに四十歳前から始まっているのでその付き合いも既に五十年近くにもなる。しかし、年を取るとともに単に調節障害の老眼だけでなく、水晶体にも眼底の網膜にもいろいろ老化の結果が加わり、同じ老眼といっても次第に複雑な様相を呈してくるようである。

 二〜三年前に目が疲れやすい感じが続いたので、女房が眼科へ行く序でに一緒に行っていろいろ調べてもらったことがあったが、その結果では白内障も手術をする必要がある程には進んでいないし、眼圧も正常、眼底検査でも大した変化はないようだったので安心したが、当然若い時の眼のようなわけにはいかない。

 まだ現役でストレスの多い仕事をしていた頃に、左目の眼底の黄斑部の浮腫が生じ視野の中心が歪んで見えるようになり、眼科で診てもらったが、これは両眼に来ることはないと言われて安心したものであった。しかしその跡が今も残っており、普通の生活には困らないが、左の視野には小さな中心暗点があるので左眼だけでは細かい文字は読み難い。

 それに白内障とは言われなくてもレンズもある程度濁っているためか、いくらか暗い環境では、老眼のため以上に物が見えにくい感じで、暗い色同士の識別が少し悪くなっているようである。

 調節障害の老眼については、百円ストアでも老眼鏡を売っているので沢山揃えて家中どこの部屋にも老眼鏡を置き、いつでも使えるようにしているのだが、それでも新聞を読んだあと眼鏡をかけたままで移動したりして、老眼鏡が偏在してやっぱり探し物をしなければならなくなることもよくある。

 またそんな時に黒いケースに入れた眼鏡を何の気もなく黒っぽい椅子の上に置いたりしていると、それが見えにくいためか、それに気がつかずに他ばかりあちこち探し回ることになる。そこにあるのに気がつかないと初めにそこでの存在を否定してしまうので、他ばかり探すこととなって余計に見つかり難くなくなる。

 朝早く箕面の滝まで散歩するときなどまだ薄暗いので標識が人のように見えたり、木からぶら下がった葉が揺れているのかと思ったら人だったり、猪名川べりを歩くと川の中に引っかかったゴミをてっきり水鳥と思ったりする。いつも通る駅の通路にある鉢植えの木が朝夕の薄暗い時にはいつも人が少し上体を傾けて鍵でも開けているように見えた仕方がない。

 またこの間は宴席で各自の席の前に料理に添えられた肉のタレ入れと刺身の醤油入れの小皿が並べられていた。寿司の方は小さな皿だったが、肉のタレの入れ物がちょうどグラスの受け皿ぐらいの大きさだったので、ビールを注いでもらって置こうとした時に、タレが入っているのが見えないので、てっきりグラスの受け皿だと思ってわざわざビールの入ったグラスをそこへ置いてグラスの底を汚し皆を驚かす失態を演じてしまった。

 それに目が悪くなると細かい字が見えないだけでなく眼鏡をかけても見ずらいので、つい小さな文字を読むのが面倒になり、読まなくなる。ことに電化製品やカメラ、パソコンなどの使用説明書などは字が細かいだけでなく、わざわざ意地悪く読み難いように書かれているように思えるものが多い。折角細かい字を読んだら続きは何ページを見よとか書いてあって、そこを開けるとまた細かい字が一杯並んでいる。それも和製英語のカタカナ書きが多くて解りづらく、つい読むのを止めてしまう。

 何でも基本的な使い方ぐらいは購入時に口頭で教えてくれるから一応は使えるが、細かい機能やいろいろな使い方などは分からないまま使うことになる。それでも決まったことだけをしている段には困らないが、何か変わったことに出くわすと途端にどうして良いかわからなくなる。若い人なら同僚にでも聞けばすぐ返事が返ってくるだろうが、我々の年代ではそんな友人を見つけることが難しい。

 この間から携帯を開けた時の画面が霞んだようになり、あるボタンを押すと普通になるので、てっきり故障かと思ってドコモの店を通りかかった時に聞いてみたら、故障でなくそういう設定が出来るようになっているのであり、8のボタンを長く押すとその設定になり、画面の上にその印が出るようになっているのだそうである。知らずに何かの拍子に8のボタンを押したのであろう。確かに画面の上の方に小さな小さな印がでるようになっているのだが、そんなよく見ないとわからないような小さな印には今まで気がついたことがなかった。

 こういった老眼をめぐる変化は急に来るものではないので、いつもは普通に振舞っていても年並になんら支障がなく気にも留めていないのが、何かの拍子にうまく行かなかったりして老いを感じさせられることになるもののようである。

 眼のことだけに限っても、こういうことが時とともにゆっくりと繰り返され、積み重なっていくのが老いの姿であろうか。成り行きな任せるより仕方がないことだし、またそれで良いのではないかと思っている。