風刺画とヘイト・スピーチと表現の自由

 フランスの週間新聞「シャルリー・エブド紙」への襲撃事件が起こり、表現の自由が問題になっているが、日本では在日韓国人などに対する団体によるヘイトスピーチがいつまでも続いている。

 風刺画は権力に対する弱い立場の人たちの皮肉の満ちた不屈の表現であり、どこの国でも昔からある人民の抵抗の証でもある。画像でなくても日本の川柳なども全く同じカテゴリーのものと言えよう。

 しかし風刺が強い者から弱い者へ発せられる時にはそれはえてして皮肉を通り越して差別や陰険な嫌がらせ、いじめとなることも知っておくべきであろう。これは弱い者の人権侵害にも繋がり許すべきことではない。「めくら」「つんぼ」などという言葉さえ使われなくなったことでも分かる。

 ちょびひげを生やしたヒットラーに似せた安倍首相の漫画などは安倍政権に対する庶民の抗議として世間の人たちに広く認められるであろうが、障害者のような弱者を皮肉ったような画像や表現は許されるべきではないであろう。

  シャルリー・エブド紙のイスラム教に対する風刺画は実際に見ていないのでどういうものか分からないが、自分がイスラム教徒でありイスラム教の中で風刺するなら良いが、自分が信じていない他人の宗教の神を風刺することはその神だけでなく、それを信じている人の人格をも否定することに繋がりかねず、許されることではない。人々の内面にある信仰の自由は守られなばならない。

 そういう立場から見れば、この国ではマイノリティの在日朝鮮人は明らかに社会的な弱者である。その人たちに対する聞くに堪えないようなヘイトスピーチは、直接的な言葉による暴力であるだけに風刺より更に質が悪く、彼らの人権擁護の点からだけでも許されるべきものではなく、法的処置によってでも禁止すべきである。

 正当な政治などについての表現の自由の制限などに流用されることを恐れて法的な規制については躊躇する声もあり、それを口実に一向に腰を上げようとしない政府の姿勢もあるが、民主主義はすべての人たちの平等な権利の保障の上に成り立っているもので、表現の自由と人権の擁護は両立しうるもので、これらを共に守るのが政府の役割であろう。