関東大震災と朝鮮人虐殺事件

 私の小さかった頃は地震といえば現在の東日本大震災にあたるように、関東大震災に関する話題が多かった。浅草の12階建のビルが崩壊しただとか、被服廠で大勢の人が火に巻き込まれて死んだとか、東海道線丹那トンネルを抜けると瓦を載せたどっしりとした建物が減りバラックのような建物が多いのは震災のためだとか聞かされたのを覚えている。

 当時は分からなかったが関東大震災で関東から関西へ移住した人も多かったようだし、まだ私が生まれる5年でしかなかった時の出来事だったので、まだまだ人々の震災に記憶が残っていたのだろうと思われる。

 その震災に関連しては、当時多くの朝鮮人や左翼の人の虐殺が行われたことも聞かされ、朝鮮人と日本人を区別するのに朝鮮人が濁音を発音しにくいことを利用して、「ザジズゼゾ」「ガギグゲゴ」などを言わせうまく言えなかったら朝鮮人だとみなされて殺されたということを聞いた。中には地方から来た人で朝鮮人と間違われて殺された人もいたそうである。

 そんなことも関係していたのであろう、子ども心にはまだ善悪の区別もつかなかったので、朝鮮人を馬鹿にしたような歌で「こーちせん、こーちせん ぴろてみたらピルピんのプタでパカみたい」というのを意味も分からず歌っていたこともあった。

 最近、熱風の日本史(井上亮著)という明治以後のレコードで言えばB面のような出来事をエピソーディックに列挙したような本を読んでいたら、関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件に一般市民が虐殺に手を染めた要因とその事実に向きあうことについての二人の研究者の言葉が記されていた。

 その一人の倉持和雄氏は「他民族に対する敵愾心、反感をあおるような情報にはじゅうぶん警戒する必要がある」と言い(関東大震災朝鮮人虐殺)

 もうひとりの山岸秀氏は「事実を事実として正視しない人間に誇りはない。過去を正視することを自虐として否定することは、現在の自分や国家や民族にまだ自信が持てない人たちの卑屈な態度である。そしてそれは卑怯にも子孫の肩に重い負担を負わしめるものである」(関東大震災朝鮮人虐殺)と記している。

 これを読んで驚いた。関東大震災についてではなく、「大日本帝國」が「第二次世界大戦」当時に中国や朝鮮で行った侵略や残虐非道な行為について、それを否定しようとする現在の政府などの主張についてそのまま当てはまるではないか。

 時代が変わっても未だに過去の過ちを覆い隠し知らぬ顔をしようとする卑劣な人たちがいるようで、全く情けない。過ちを犯さない人間はいない。しかしその過ちを認め、それを正し、将来に生かすのが人として選ぶべき道である。その上でしか信頼関係は築けないであろう。

 それは個人についても国家や組織についても同じことである。「侵略の定義は国際的にも定まっていない」とか「侵略はなかった」と言い、何とかして過去の事実を否定しようとしてもがいているのが安倍政権などの態度である。

 しかしいかに言葉を捏ね回してみても言葉で過去の事実を消すことは出来ない。過去を認め、その上でしか将来の道の拓けないことを知るべきである。