矯正と共棲

 先日何故か夢の中で「矯正」と「共棲」という言葉が対になって出てきた。夢の中なのでどういう経過で出てきたのかわからないが、目が覚めた時この対の言葉が頭に残っており、これについて考えろと指示されているような気がした。

 その時すぐに頭の中に浮かんで来たのが、以前我が家を訪問したサリドマイドによる上肢欠損の障害を持ったメアリ・ダフィイさんのことだった。彼女は生まれつきの障害のため、上肢が殆ど無いと言ってもよいぐらいなのだが、足を手のように自在に使い、ワイングラスも足で持って乾杯し、足でシャッターを切ってプロの写真家として活躍し、写真集なども出している人である。

 その時彼女が話していた中で印象深かったのは、彼女は時々悪い夢を見るそうである。「夜遅く医者が私の部屋へやって来て、大きな長いナイフで私の手を切り落とそうとする。背鰭のような小さな手を切り落とせば義手がぴったり合うはずだ。そこへガス圧駆動の義手をつけて、私をきちんとした姿にしたいというのだ。だが、義手は重たい。しゅーしゅー音もする。私はそれが嫌いだ。でも医者は諦めない。今夜も忍び込み、私の一部を盗み去るのではないかと私は不安だ」ということでした。

 彼女の主張は、障害は人間であることの一部であり、障害がない人と同様に豊かさや多様性があるのであり、いわゆる正常者の現在の文化的規範に抵抗し、自分を含めた障害者の人生の主義、主張、価値観についての活気に満ちた発言を行うことがアーティストとしての自分の仕事だということであった。

 一般に障害に対する社会の対応としては障害を矯正して世間の規範に合わせることと、社会が障害者をそのまま受け入れて共棲するのと二つの方法が考えられるが、多勢の力が強いのでどうしても前者に傾きがちである。しかし、少数派であっても個々人の人権を尊重するのであれば後者をもっと尊重すべきであろう。

 障害者といっても同じ人間であり、いわゆる正常者と相対的な違いに過ぎない。仮にこんなことを考えてみたらどうであろうか。スポーツマンのような頑丈で運動神経にも優れた体の人が大多数を占める社会であれば、二階へ上がる最も簡単で場所もお金もかからない方法は消防署などに見られるような垂直の棒を利用してよじ登ったり滑り降りたりする方法である。

 それが社会的な基準である世の中であれば、現在のような実社会であれば、若い人は練習して出来ても年寄りや力のない太った人などはみな障害者ということになる。それを利用出来ない人には脚にバネのついた棒を補助具としてつけて飛び上がることが出来るようにする方法などが考えられそうである。

 もう一つの方法がお金も場所もかかるが階段を作ることとなる。社会が「障害者」にも可能な方法を用意して共棲(共生の方が一般的かもしれないが夢では共棲だったのでそちらを使う)を図ることである。

 条件が異なるだけで、現在も車椅子で利用可能な設備が次第に進められているが、まだまだ社会に基準に合わせて障害者を矯正しようとする動きも強い。先天的な体の異常は手術によって正常な基準に合わせようとすることが多いが、社会が寛容であれば矯正しなくても共棲できる場合も多いであろう。

 基本は障害者本人の正常者と同じ人権の尊重であり、社会が共棲を計るのが理想であり、可能な矯正はあくまで強制すべきものではなく、あくまでも本人の選択に委ねるべき問題であろう。