串本紀行

 テレビで串本にある無量寺長澤蘆雪の絵が紹介されたのを見て、その近くの橋杭岩潮岬を思い出し、まだ行ったことがなかったので先日JRの紀の国号で行ってきた。

 串本にはこの他に海中展望塔やトルコ記念館もあり、それらが主な観光スポットとなっているようであるが、トルコ記念館は現在リニューアル中で閉館していた。

 午後2時過ぎに串本に着いたので、丘の上のホテルで一休みした後、先ずは歩いて丘を下りて橋杭岩を訪れた。橋杭岩は太古の時代に地下のマグマの働きで地表の地層が押し曲げられてその一部が垂直方向に盛り上がり、長い間に侵食されて、現在のまるで潰れた橋の杭のように尖った岩が一直線に並んだ形になったものだそうである。

 幸い引き潮だったので岩の直下まで近づけたし、近くの津波の時の避難所になっている丘の上や少し離れた海岸などからも眺めることが出来た。尖った岩が全部で25あるそうで、それが海岸から海に飛び出して一列に並んでいる姿は他では見れない景観であろう。カメラマンが絶好の対象とするはずである。

 色々な形をした岩が並んでいるが、中でも真ん中あたりにある岩は大きな僧が座って手を合わせてお祈りでもしているような格好で、それに向かい合って座る少し小柄な女性を思わせる岩とペアで見ると、何か宗教的なものを感じさせられた。

 この後はホテルでゆっくり過ごし、翌朝はホテルから海中公園へ行くシャトルバスを利用しようと思っていたが、バスの時刻が遅かったのでその前に近くを散歩することにした。ホテルのあるその丘は十年ばかり前に開発されたそうだが、丘の上が可成り広汎に平坦にされており、そこにはホテルだけでなく消防所、防災センタ、町立病院などの他、広い野球場、運動場や公園などが整備され、百戸以上もあると思われる分譲住宅も出来ている。

 散歩の延長で違う道から坂を下りていくと自然に駅まで来てしまった。ところが駅で丁度出発直前の潮岬行きのバスが止まっていたので、急遽予定を変更してそのバスで潮岬へ行くことにした。バスの乗客はわれわれ二人だけであった。

 バスで20分ばかりであったろうか。狭い田舎道を巡り、最後に熱帯樹林で出来たようなトンネルをくぐると急に視界が開けて本州最南端の潮岬に出た。見渡す限りの太平洋である。天気も良く見晴らしも最高であった。近くの海は岩礁に覆われ風がきついのであちこちで白波が立ち、岩に砕ける波しぶきが勇壮で、遠くの水平線よりには行き交う船が絶えない。日本列島に沿って移動する船はすべてここを通るわけである。

 南国なので冬でもさして寒くはないが風が一年中強いらしく、潮岬灯台に登る時に係りの人がメガネまで飛ばされた人がいるので注意するように言われた。灯台の近くの神社も風除けのために境内の周囲を城壁のような石組の塀で囲っていた。

 潮岬からバスで串本駅まで戻り、そこからシャトルバスで今度は少し西の海岸にある水中公園に行った。ここの売りは水中展望塔で、水中の窓からその周りの海のサンゴ礁や魚を観察出来るようになっている。

 初めはあまり期待していなかったが、水底の窓から覗くと無数の回遊魚が上の方を群れをなして泳いでいるし、眼前のサンゴ礁には水族館でしか見たことのない綺麗な色鮮やかな熱帯魚が見えるではないか。

 こんな近くの海でこんなに綺麗な熱帯魚が見れるなど期待していなかっただけに楽しかった。ここらでは黒潮に乗ってやってくるのか、結構熱帯魚がいるそうである。写真を撮って「串本でダイビングをしてきた」と言って人を騙してやろうかと思うぐらいであった。

 初めはこの日の予定はこのぐらいで終わる積りであったが、海中公園を楽しんで昼食をゆっくりとっても未だ一時過ぎ、あまり効率良く廻れたので翌日にでも行こうと思っていた無量寺にも出かけることにした。

 町の少し山手にあるこのお寺はなかなか立派なお寺で、大きな本堂の他に宝物殿や串本応挙蘆雪館も備えている。寺の由来は1707年の津波で流失した寺を文保愚海和尚が1786年に再建した時、京都で知り合っていた円山応挙に障壁画を依頼したところ、応挙が高齢であったこともあり高弟の長澤蘆雪にすべてを託した由で、串本へ来た蘆雪が障壁画を完成した上10ヶ月の間に270点もの絵を描いたということで、その中の龍図や虎図などが高く評価されテレビでも紹介されたのであった。

 これだけ予定の場所をすべて効率よく巡ってしまったので、もう三日目に行く所がなくなってしまった。観光案内所で尋ねてみたが、今は大島のトルコ館が閉まっているので、廻ってきた4ヶ所以外にはもう特にオススメの場所はないようであった。

 翌日は串本の街の中を歩き、港のあたりをぶらついて、ゆっくり昼食をとって昼過ぎの列車で帰阪した。