スマホ時代の功罪

 世はまさにスマホ全盛の時代である。電車の中でもほとんどの人がスマホに夢中である。本や新聞を読んでいる人はめっきり少なくなった。

 チラチラ覗いてみるとゲームをやっている人が一番多いようだ。あとはメールを読んでいるのか何かを検索しているのか、字が細かいので老人には全く読めない。昨日だったか隣に座った女性が英文のスマホを見ているのかと思っていたらハングルだった。

 何れにしても字が小さいせいもあるのか操作がしやすいためなのか、大抵は眼から十センチか十五センチぐらいの距離で見ている。若い人に近視が余計増えるのは止むを得ないであろう。それにメールの日本語入力などやたらと親指ばかりを素早く動かし続けていて腱鞘炎でも起こらないのか他人事ながら気になる。皆頭を前に傾けてみているので頚椎にも良くないと思われる。

 しかし、そんなことより興味深いのは電車の中でも喫茶店でもアベックが仲良く一緒にいても大抵はそれぞれに別々のスマホの画面を見ていることである。中には一緒にに画面を眺めていることもあるが、たいていは二人とも黙ってそれぞれが自分のスマホに取りつかれているようなことが多い。

 一緒にいるだけで楽しいのであろうからお互いに何をしていようが良いのかもしれないが、折角一緒にいるのだったらもう少しお互いに話でもしたらと思うのだが、実は違うものを見ていても心ここにあらず、スマホは単に恥ずかしさを隠し、言語的、非言語的なコミュニケーションの媒体となっているのかも知れない。

 もうスマホ中毒のようなもので、朝から晩までスマホがないと生きていけないかのようで、ひとと一緒に食事をしている時でさえ別々の画面を見続けているのを見かける。職場でもすぐ近くの人にさえ言葉ではなくメールで連絡する人がいるようだから、食事中だって自分のスマホの世界の間にお互いに話を挿入して両方を楽しんでいるのかも知れない。

 確かにスマホは便利である。何かを食べたい時には近くなら何処へ行けばよいか調べればすぐ判るし、場所も行き方も料理も、そこの評判まで教えてくれる。料理が出てきたらその場で写真を撮って後で誰にでも見せられるし、感想も書いて連絡出来る。食べた食事のカロリー計算さえしてくれるそうである。

 何処かへ旅行に行く時もそこへはどうして行けばよいか、どこで泊まればよいか、そこの名物は何かなど観光情報もたちどころに手に入る。ホテルの予約ばかりか列車の切符や航空券も駅や空港に行かなくてもその場で手続きが出来る。買い物も店に行かなくてもスマホで調べてスマホで買える。

 普段の生活で何か疑問が起こればグーグルででも調べればたいてのことは何でも教えてくれる。昔だったら大きな辞書など引っ張り出してページをめくり細かい字を読んでやっっとわかったようなものもたちどころにわかる。その日のニュースも新聞より早く見れるし、新聞のように大きな紙面を広げる必要もない。本でも電子本ならページをめくる必要もない。漫画だったら電子本の方が読みやすいかも知れない。

 人との会話の途中で疑問が起こった時などでも、以前だったら帰ってから調べてみようとしたところだろうが、今ではその場でスマホで調べてすぐに解決出来ることが多い。簡単な知識はたちどころに得られる。その他にもスマホの応用範囲は書き切れないぐらい広い。便利な世の中になったものである。

 ただあまり便利すぎてそれに頼りすぎ、そのために時間を取られ、スマホに振り回されることにもなりかねない。簡単なのでつい安易に受け取り、便利は便利を呼び込んで間口はどんどん広くなる。面白がって見ていたら忽ち日が暮れてしまう。

 しかし間口が広がり費やされる時間も多くなるにつれ、浅い知識ばかり増えても詳しい知識や思考はかえっておろそかになりがちである。明治の時代の日本を評して言われたように間口ばかり広げて奥行きが浅くなるのをどうしようもない。時間は広げられないからである。

 浅い知識は膨大に増えても深い知識が蓄積していく時間がなくなる。「何でも知っているが何も知らない」ことになりかねない。浅はかでしかも自分にお気に入りの情報ばかり集まってもマニュアル的な知識ばかりで、その元となる思想や根拠はかえって疎かになり、自分の世界は限られ、周囲の言動に振り回されて付和雷同し、批判を忘れて大勢に流され、物事を深く追求するゆとりがなくなる。為政者にとってはこの上ない好都合かも知れないが、百年の計は立てられなくなり文化の深みが失われる。

 更には仕事がらみのこととなると、便利なだけにスマホに振り回され、使い回されることにもなりかねない。昔だったら疲れた時などしばらく身を隠すことも出来たのに、今では四六時中スマホを通じて監視され、何時何処で呼び出されるか知れない。機械の命じるままに行動させられ、どこからでも急いで報告しなければならないことになる。機械は疲れないが、人間はへとへとに疲れてしまう。

 思い切ってスマホは適当に切るべきである。アナログな世界の良い所、アナログな世界でなければならない所も大事にしたい。新聞を広げた時に広い紙面を行ったり来たりしながら自然に目に入ってくる副次的な情報、デジタルとは微妙に違ったアナログの音楽、デジタルではどうしてもカルテの記載から抜けてしまう症状のニュアンスなども捨てられないし、心のなかの複雑な心理や思想など、便利で手軽なスマホでは近づきにくいものも大切にしたい。

 そして何よりも大事なことはスマホはあくまでも便利な道具として使うべきで、スマホのない時間も人生にとって貴重な時間であり、スマホは人生を楽しむための一つの方法に過ぎないことを忘れないことであろう。

 なお、歩きながらスマホを見ていて事故に遭わないようにすることの方がそれより先であろうが・・・。