老人力

 先日亡くなられた赤瀬川原平さんの「老人力」という文庫本を読んだ。 この「老人力」というのは著者らが提唱されたもののようで、老人になって物忘れや置き忘れなどが多くなるようなことをネガティブに捉えるのではなく、「老人力」がついてきたと前向きに捉えて楽しく生きていこうという趣旨にようである。あちこちでそれについて講演などもされていたそうで、おそらくそれを集めたのがこの本になったということらしい。

 内容は堅苦しいものではなく、著者らのあちこちの町での観察などを元にエッセイ風にまとめられたもので気軽に読ませてもらった。その中で「老人力」という言葉が流行るにつれて「老いてもまだまだ元気です」という方向の考えと誤認されるのをなげいておられるようだが、普通の老人が飛びつきやすいのはこちらの方だからある程度は止むをえないのではなかろうか。

 ただあまり元気そうな老人なのでいくつぐらいかと思ったら私より九歳も若い、しかもこの本が出版されているのが2001年となっているので、これが書かれた時はまだ六十歳を少し超えたばかりの頃である。昔なら還暦を越えればもう老人であったが、今の時代は、定年を六十五歳に延ばそうとしているぐらいで、まだまだパリパリの現役とさして変わらないのが普通ではなかろうか。

 従って、この本は未老人ないしは老人予備軍についての論議だとした方がよさそうである。還暦という声が老いを感じさせ始める出来事であることはよくわかるし、事実その頃には肉体的にも無理が利かなくなり、人の名前が出てこなかったり、物忘れが多くなったりして来て、仕事に一括りが済んでやれやれとも思い、肉体的にも老いを感じさせられるようになるものである。しかし、最近のような高齢化が進み長寿の人が多くなると、六十、七十はまだ老いの宵の口に過ぎない。

 今ではせめて後期高齢者などと有り難くもない分類で呼ばれたりするが、七十五歳を越えるぐらいでないと老人の仲間には入れてもらえないのではなかろうか。赤瀬川さんも亡くなられた時は七十七歳ぐらいになっておられたから「老人力」の考えも後では多少変わってこられたのではななかろうか。

 六十代の老人はまだ活動的で、それまで仕事に使っていたエネルギーをどこで発散させようかと思っている人も多く、赤瀬川さんもそうであるように友人と集い、趣味に励んであちこち動き回ったり、一緒に酒を飲んだりはしゃいだりすることも多いようだが、それらが続けられるのは人によって違うが、およそ後期高齢者といわれる「本当の」老人になる頃までのことである。

 七十五、八十歳ともなると自分も周囲の状況も変わってくる。多かれ少なかれ、次第にあちこちに具合の悪いところが出来てくるのが普通で、それが足を引っ張って生活に規制がかかってくることが多くなる。生きていても折角の楽しい会合にも出席出来なくなる人が多くなる。

 足腰が悪いので婆さんに付き添いなしでは遠くまで出かけられない。体の具合で長時間じっとしてられない。その婆さんに先立たれて落ち込んだり、慣れない一人生活に難儀したりすることにもなる。親しかった友人も一人また一人と亡くなり、遊び仲間や飲み仲間がいなくなってしまう。

 老いの本質である孤独や孤立それに伴う寂寥感などは後期高齢期にならないと実感できないことが多いのではなかろうか。最早「まだまだ元気で現役に負けないぞ」などといった空元気は消えて「老人力」に満ち、年齢が行くほどに「孤高の輝き」を増してくる気がするものである。

老人力」をまだ元気なうちに鍛えておくことも大事かも知れないが、「老人力」も前期と後期に分けて考えた方がよいかも知れない。この後期の世界をどう輝かせ楽しむかをも考えに入れておいたほうが良いのではないかと思ったのがこの本を読んだ読後感である。