散歩と徘徊の違い

 新聞に「徘徊に行ってきますと出る散歩」という川柳が載っていた。

 この川柳の作者はまだ元気なようなので、諧謔を解して徘徊と言って散歩を楽しんでおられるようだが、老人によっては散歩も徘徊と間違われるし、認知症の場合には散歩に行くと言って出ていってほんとうに徘徊になって帰れなくなることもある。

 ある地方での出来事。こうるさい娘に呆けているのではないかと疑われている爺さん。散歩にでも出掛けて少し帰りが遅いとすぐにケイタイでどこにいるのか聞いてこられるのが普通であった。

 ところがある時、たまたまケイタイを持って出るのを忘れて散歩に出掛けてしまった。本人は全く気にしていなかったので、その日の限ってまた少し遠くまで散歩に行った。そのため当然何時もより帰りが遅くなる。

 娘がいつものようにケイタイで連絡したが応答がない。心当たりの所に電話してもわからない。さあ大変だ。やっぱり認知症で徘徊して帰って来れなくなったに違いない。困って市役所に連絡したら、市役所の広域スピーカーから「ピンポンパーン こうこういう格好をした何歳の老人が行方不明になってられます。見かけた方は市役所にご通報下さい。お家の方が探しておられます。」という放送が町中に流された。

 機嫌良く散歩を楽しんでいたお爺さんはそれを聞いてびっくり。あわてて帰ったのはよいが、スピーカーからは改めて「さきほどの何何さんは無事保護されました。ご協力有り難うございました」と流されるので、市役所にも周りの家にも謝りに行かねばならないし、それからは周りの人にまで監視されることになってもう徘徊と間違われるので呑気に散歩にも行けなくなってしまった。

 高齢化のすすんだ昨今では、認知症による徘徊で苦労してられる家族の方も多いようである。中には行方不明になってそのまま帰って来られない方もいるそうだ。たとえ帰って来るにしても、勝手に出ていかないように常に注意したり、繰り返し行方不明になった者を連れ戻したりする苦労は大変である。そのようなことを繰り返していると本人が弱って寝たきりになったら家族はやれやれと思うそうである。

 それにしても散歩と徘徊とはどう違うのだろうか。ふと疑問に思ったので辞書を引いてみると、散歩は「あてもなくあるくこと、散策」とあり、徘徊は「どこともなく歩きまわること、ぶらつくこと」とあり、どちらも同じようなことであり、強いて言えば言葉のおこりから散歩は歩くことに重点がおかれ、徘徊はうろつくことに重きがおかれているぐらいの違いと言えよう。

 散歩してあちこち徘徊することもあるし、あちこち徘徊しながら散歩することもある。

 何でも載っているので、念のためインターネットをみてみると、「散歩と徘徊とどう違うのですか」という質問もちゃんとあり、それに対する答えや長々とした何人かの意見のやり取りまであって感心させられた。

 そこでの結論は徘徊は「自分で行動をコントロール出来ていないもの」だとか「帰って来れなくなるもの」をいうのだとか言うことらしい。要は認知症の人がうろつくのを徘徊といい、正常な人がうろつくのを散歩といっても良いのではなかろうか。

 認知症の人が徘徊する場合も何らかの目的がありそのために行動を起こすものである。「家に帰りたい」「出口を探す」「トイレに行きたい」などさまざまであるが、周囲の状況を正確に把握出来なかったり、健忘のため始めの考えを忘れてしまったりして、自分の行動を全体として制御出来ないので迷子になって帰れなくなったりするわけである。

 認知症の人は散歩に出ても徘徊しても場所も行き先もわからなくなって迷子になる。それでも認知症の人に対する対応で一番大事なことは、その人の人格を尊重し、何でも受容的に対応することである。