欲しがりません勝つまでは

 昭和3年生まれなので、昭和6年の満州事件から昭和20年の敗戦まで続いた戦争の中でまるまる大きくなったような私にとっては、子供の頃の思い出は全てと言っていいぐらいどこかで戦争と繋がっている。

 小学校一年の国語の本は片仮名で最初が「サイタサイタサクラガサイタ」で次が「コイコイシロコイ」「ススメススメヘイタイススメ」と続いていた。

 唱歌では「肩を並べて兄さんと、今日も学校に行けるのは、兵隊さんのおかげです。お国のために、お国のために戦った、兵隊さんのおかげです」と歌った。

 しかし、まだその頃は大正デモクラシーと言われた良き時代の面影ぐらいは残っていたようで、「ああそれなのにそれなのに、怒るのは、怒るのは、あったりまえでしょう」とか「あなたと呼べばあなたと答える、山の谺の楽しさよ。あなた、何だい、あとは言えない、二人は若い」といったような歌を歌いながら近くの大学生がいつも道でキャッチボールをしていたのを覚えている。

 しかし、そのうちに支那事変日中戦争)が始まり、出征兵士が出て行くようになると、子供たちは日の丸の小旗を振って「雲沸きあがるこの明日、旭日のもとどうどうと・・」とか「わが大君に召されたる、生命光栄ある朝ぼらけ・・」「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄たてずにおらりょうか。」などと歌って見送るようになった。

 以来、だんだんと戦争が進むに連れて国策にあった歌や軍歌ばかりが幅を利かせるようになり、そのためか、私にとっての小・中学生時代の歌といえばそんなものばかりになってしまった。

君が代」は何かにつけて始終直立不動の姿勢で歌わされたが、その他では、雲にそびえる高千穂の・・の「紀元節の歌」や「見よ東海の空明けて・・の「愛国行進曲」「海ゆかば」に「同期の桜」、ここはお国を何百里・・の「戦友」や、万朶の桜の花色・・の「歩兵の本領」などなど、数え上げれば切りがない。

 また、このように戦争が続いていくとともに、銃後といわれた一般社会にも次第に戦争の影響が出てきて「千人針」や「慰問袋」が広がり、「一億一心百億貯蓄」「満蒙は日本の生命線」「忠君愛国」「国民精神総動員」「大政翼賛」「撃ちてし止まん」などのスローガンとともに、「非常時」だから我慢せよ、「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などと言われて子供まで倹約が強いられ、次第に生活の引き締めが進んでいった。

 豪勢な料理屋や花柳街は営業を止めさせられ、ご馳走やお菓子の類も次第に減り、派手な着物などは国防婦人会から目をつけられて「この非常時に非常識な」と避難され、ゴルフや玉突きなどのレジャーも贅沢とされて禁止状態。世間の趨勢は戦争への協力が大きな流れとなり、軍人を始め、地域のボスや警防団、婦人会、隣組などが組織されて力を持つようになり、何処からともない見えない圧力が批判勢力を次第に押し潰しいった。

 そうした中で今もよく覚えていることのひとつに誰が炊きつけたのか、パーマネントも贅沢だと言ってそれをやめさせるために、パーマネントの歌を流行らせたことがあった。われわれ子供たちも理由もわからず一斉に歌ったものだった。

「パーマネントに火がついて見る見るうちに禿頭、禿げた頭に毛が三本、ああ恥ずかしや恥ずかしや、パーマネンとはやめましょう」というのであった。

 やがて軍国主義の風潮はますます強くなり、人々の自由な生活への圧力はますます強くなり、贅沢はおろか欲しがっても日々の日用品や食料さえ乏しくなり、終には男は国防色の国民服、女はもんぺ姿が制服のようになり、軍人だけが幅を利かす世の中になっていった。

 その挙句の果てがご承知のとおり、連戦連敗の後、アメリカによる大空襲でほとんどの街が焼け野が原となり、食べ物もなくなり、天佑神助も起こらず、国中がぼろぼろになって無条件降伏となったのであった。戦後は最早「負けた」ので「欲しがっても」贅沢とはおよそ反対の生活しか出来なかったことは言うまでもない。

 戦争は急に起こるものではなく、じわじわと締め付けられて行って、誰も反対出来なくなって起こるものである。もう二度とあのような世の中にはなって欲しくないと痛切に思う。