うらやましい死に方

 私の住んでいる池田市で行われる例年の池田市展が今年は新しく建て替えられた公民館で開催されることになり見に行った。この新しい公民館には池田市の図書館の分室も出来たのでついでに覗いてみた。小さなスペースだが一応いろいろな本も並べてあり、本の貸し借りがここでも出来るようになったのが嬉しい。

 たまたま書架に五木寛之の「うらやましい死に方」という本を見つけたので、借りてかえって読んだ。どんなうらやましい死に方があるのか、出来れば参考にしたいものだという気持ちもあった。

 本の内容は文藝春秋が一九九九年に一般から「うらやましい死に方」という投稿を募集したのがはじまりで、それから十四年たった二〇一三年、社会の超高齢化社会が進み、死に直面することが多くなって人々の死に対する考え方も変化してきたことを踏まえ、もう一度同じことを繰り返し、「二十一世紀のうらやましい死に方」と「二十世紀に去った、なつかしい人びと」とに分けて比べられるようにしたものである。

 それらを読んで前後に著者の感想が述べられているが、「はじめに」で、この十四年の間の変化に触れ、「死」はいま「生」より存在感を強めており、「幸せな去り方を考える時代」であり、「ナチュラルエイジングの後のハッピー・エンディングを真剣に考えるべきで、「人には逝きどきというものがある」とし「身近な実例に学ぶことが大事」ということで、このごく普通の人達の近親者などのいろいろな死の様子を纏めたことを述べている。

 そして「人に知られない死の重さ」を感じながらも、死がけっして恐れるべきものでも忌み嫌われるべきものでもなく、「死を避けず「わが友人」と捉える」べきだというのが著者の結論のようである。

 また「おわりに」では超高齢社会における老人の逝き方ばかりでなく生き方にも触れており、嫌老、厭老の恐れ、他の世代との共存、老人世代内での格差,老衰、孤独死安楽死なども考慮に入れて述べている。この他、認知症や介護の問題などもあるであろう。

 読みやすい本で一気に読み終えられ、それぞれにいろいろな人達のいろいろな死に方がありいろいろ参考になるであろうが、特別な「うらやましい死に方」があるわけではなく、いろいろな死に方があるだけで、その時代にその社会に生きたその人なりの人生の帰結があるわけで、それを素直に受け容れるのが「うらやましい死に方」ということになるのであろう。