天皇は神様だった

 日本が戦争に負けるまで天皇は神様だった。その神様が治める国だから日本は神国であり皇国とも呼ばれた。従って軍隊は皇軍、国民は皇民とされた。皇居は宮城と呼ばれた。

しかし天皇も現に生きている人間であったから現人神(あらひとがみ)と言われた。

 神国は神様の国だからその国の人々は神様の臣民であり、総てのことが神様である天皇中心に行われた。教育勅語に「我が皇祖皇宗国を肇ること宏遠に徳を樹つること深淵なり、我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世その美を濟せるは此れ我が国体の精華にして・・・』とあるように臣民である国民は神様を敬い忠義を尽くさなければならないことになっていた。

 神様であるから絶対であり、恐れ多い神格であり、最敬礼をして拝まなければバチがあたる対象であった。皇居前広場=当時の二重橋広場へ行ったらまずは最敬礼をして拝まなければならなかった。神社と同じである。当時はまだ東京にも市電が走っていたが、電車が宮城前広場にさしかかると乗客はみな立ち上がって宮城に向かった最敬礼をしたものであった。

 直接宮城前まで行けない地方などでは、何かの式典や催し物がある毎に、よく宮城の方向に向かって一斉の最敬礼をする「宮城遥拝」という儀式があった。イスラム教の人がメッカに向かってお祈りをするのと同じである。

 小学校には奉安殿と言う建物があり、そこには教育勅語天皇、皇后の写真が納められているので、校長にはそれを守る義務があり、たとへ学校が燃えてもこれらは死を賭してでも持ち出さなければならないとされていた。また菊の紋章のついた天皇皇后の写真の額は多くの家にもあり、神棚のように鴨居の上に飾られていることが多かった。

 当時は神様だから、天皇などと呼び捨てにするのは不敬であるとされ、天皇陛下とか天皇さまとよぶのが普通で、学校や官公庁などでは、上司が天皇に触れる時には直立不動の姿勢を取って、「恐れ多くも、陛下におかせられましては・・・」などと切り出すのが普通で、最高の敬意を表して語らねばならなかった。

 そしてそれを聞く部下の方も、上司や上官を見習って、間一発で直ちに直立不動、「きおつけ」の姿勢を取って話を聞かなければならなかった。それを守らないと不敬者、非国民とされ、ピンタが飛んで来ることも覚悟しなければならなかった。

 天皇は政府も軍隊も総てを統率し、不敬罪という刑罰もあったし、治安維持法もあり、軍国主義が風靡しており、人々は一億一心のような社会の流れに誘導されていたので、少なくとも表面的には世の流れに従うのが当前とされていた。

 天皇は軍隊でも大元帥陛下であり、皇軍と言われるごとく、天皇のための軍隊であり、「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ」と軍歌でも歌われ、「天皇陛下万歳」と言って死ぬのが兵士の本望とされた。

 そんなに恐れ多い天皇であるから、天皇が何処かへ行く時も大変であった。「行幸」といって、通り道の電車やバスは止められ、人々は厳重な警護の元に道路の端で日の丸を振って見送るのが普通であった。天皇ばかりでなく皇族の場合にも同じような通行止めが行われていたので、まだ若い事情を知らない皇子が初めて電車が動いているのを見て、侍従に「電車は動くものかね」と言ったとかいう話を聞いたこともあった。

 もう今では知っている人もだんだん少なくなったので、今の若い人たちにも知って貰っておこうと思い、子供の頃の様子を忘れないうちに書き留めた次第である。