興亜奉公日

 もうこんな言葉を憶えている人も少なくなったであろう。

 1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件から日中戦争が始まり、始めは不拡大方針と言っていたのにいつの間にかどんどん拡がっていった。

 東洋平和のため、満州は日本の生命線、満蒙開拓など子供たちも何もわからないまま時代の流れに乗せられ、何時しか皇軍となった軍隊は赫赫たる戦果を挙げ、何処やら陥落といっては地図に日の丸を立て提灯行列などをして喜んだものだった。

 その一方では、忠君愛国、父母に孝、非常時だから我慢せよ、贅沢は敵だ、生めよ増やせよ、一億一心百億貯蓄、銃後の守り、国民精神総動員、大政翼賛会、国防婦人会などなど、いろいろ聞かされるようになり、子供心にも時代が厳しくなりつつあるのを感じさせられた。

 そんな中で毎月七日は興亜奉公日と決められ、色々な奉仕活動が行われたようであるが、子供にまでは特別な仕事は割り当てられず、ただ憶えているのはその日には新聞の切り抜きを学校へ持っていって集めて校庭で燃やすことになっていた。

 日頃から毎日の新聞を見て天皇や皇族に関する記事や写真が載っていたらそこを切り抜いて溜ておき、興亜奉公日に学校へ持っていくのである。

 なぜそんなことをしたのかって?

 当時は新聞は今と違ってニュースを読むだけでなく、読んだ古新聞は色々なことに利用されていたのである。

 八百屋さんで大根でも買えば新聞紙に包んで渡してくれるし、何でも新聞紙は広く包装紙として使われたし、ティッシュペーパーや雑巾がわりにも利用されていた。人によっては寒い時に新聞紙をくしゃくしゃにしてからのばして肌着の間に挟んで防寒用に利用されることもあったようだし、トイレットペーパーも多くは新聞紙を適当な大きさに切ったものが用いられていた。

 一方その頃は今と違って天皇はまだ現人神(あらひとがみ)といって神様であった。しかもその頃は万世一系、八紘一宇と国威発揚のために、天皇崇拝を強調しなければならない時代だったので、天皇や皇族の動静の記事はいつも大きく新聞に出ていた。

 そんなことから誰が言い出したのかは知らないが「天皇陛下の写真の載った新聞紙に泥を付けたり、ましてやそれで尻を拭いたりしてはバチが当たる」ということで子供に新聞を切らして学校で集め燃やすことにしたもののようである。当時はまだ不敬罪というものがあり天皇の悪口でも言おうものなら本当に監獄送りになる時代であった。

 こんな馬鹿げたことが何時まで続いたのかは記憶にないが、太平洋戦争が始まった後でそんなことをした憶えはないので、しばらくの間のことだったのであろうか。あるいは地方の誰かが考えた地域限定の出来事だったのかも知れないが、子供心に「天皇の写真で尻を拭く?」ということにかまけて、今でも忘れられない思い出となっている。