原爆投下から69年

 原爆の日からもう69年も経った。それでもあの日のことは

今も忘れない。雲一つない晴天の朝だった。午前八時十五分

江田島海軍兵学校にいた私は朝の自習時間であった。突然

屋内にまで届くピカとした稲光に続いてどかんという爆発音。

驚いて外へ出た時に見たのがあのもくもくとして上がるキノコ

雲であった。

 当事の説明では新型爆弾という言葉が使われたが、原子爆弾

いうことは直ぐ分かったようで、その頃は白い服等は目立ち易く

攻撃の対象にされ易いという事で白い制服も「国防色」に染め

られていたが、その時には真白な生地で眼のところだけ穴の開い

た袋が配られ、今度空襲があったらこれを被って逃げろと指示さ

れた。

 幸い江田島までは被害は及ばなかったが、敗戦後8月二十日過ぎ、

引き上げるために江田島からカッターに乗って曳航されて宇品に

上陸し、そこから広島駅まで歩いた時の様子は無惨であった。

 それまでに私は三月の大阪の大空襲に遭いその焼け跡も経験済み

であったが、広島の焼け跡は比治山が見えるだけで、大阪以上に

何も残っていないだけでなく、何か異様な臭いがただよっていた。

 もう詳しい事は忘れてしまったが、今もよく憶えているのは原爆に

よる下痢が起こっていた頃だったためか、焼け跡に「赤痢が流行っ

ている生水飲むな」と書かれた紙が焼けただれ折れ曲がった鉄棒に

括り付けられていたことや、原爆によるやけどのためか体中赤と白の

斑点のようになった皮膚をして上半身裸の人が二人お互いにもたれ

合うようにしながらゆっくり通り過ぎて行ったことであった。

 戦後になって原爆の悲惨さを知る程にその当事の事が思い出され、

夏になって入道雲が黙々と沸き上がるのをみる毎に、原爆のあの原子雲

を思いだす日がいつまでも続いた。

 ただ私が原爆について語られるのを聞く度に思いだすもうひとつの

ことはイソップ物語の子供が池のかえるに石を投げる物語である。

 原爆は決して繰り返されるべきものではないが、どういうことの成り

行きで原爆が落とされるはめになったかということも知るべきである。

アメリカでは今も原爆投下を肯定的に見る人が多い。歴史を見れば日本

が中国へ侵略したのが始まりでその果てに太平洋戦争が起こり、原爆投下

となったのである。

 加害者はたとへ悪かったと思ってもすぐに忘れてしまえるが、被害者は

いつまでも忘れられないし、また忘れないでおこうとするものである。

そうであれば原爆の悲惨さは加害者としての日本も同時に考えに入れて

言わなければ外の世界の人には理解してもらえないのではなかろうか。

 日本で原爆の被害をいつまでも伝えようとするのと同じように、日本が

侵略した中国で南京事件をいつまでも伝えようとするのも当然であろう。

原爆の特別な悲惨さだけをいうなら他の化学兵器や生物学的兵器もある。

ナパーム弾や地雷、特赦な人殺し兵器もある。原爆の被害も如何に大きく

ても相対的な違いにされてしまう。

 原爆の被害を訴えそれに人々の共感を受け、いつまでもそれを持続させる

には原爆碑に書かれた「あやまちは繰り返しません」の通りに人類の愚かな

戦争を止める訴えでなければならない。