面白くなる音楽の世界

 正月に兵庫県立芸術文化センターで、「ワンコイン・コンサート出演者お披露目・新春顔見世コンサート」なるものがあり聴きに行った。毎月一回ぐらいのペースで若手の演奏家に発表の機会を与えるとともに、周辺に住んでいる多くの人たちに手軽に音楽を楽しんでもらおうということで行われているワンコイン・コンサートの、いわば総集編とでも言うようなもので、正月の催しとして行われたのであった。

 これまでにも何回かワンコイン・コンサートには行ったことがあるので、特別期待するでもなく、気軽な気持ちで出かけたのだが、今回は予想もつかない一風変わったコンサートで思いの外楽しめた。

 特別ゲストとして、片岡リサさんのピアノ伴奏による琴の演奏で、自ら歌う歌唱も伴ったもので、その後、チェロやクラシックギターの演奏があり、続いてピアノ、ヴァイオリン、チェロの三重奏があった。最後の三重奏は力強く、印象的であった。

 ここまでは琴があったとはいえ、いつもの演奏会のような気分であったが、この後、休憩を挟んだ後半が珍しい出し物で目を引いた。後半の初めはテノールの独唱で、これも良かったが、その次が口笛の独唱で、口笛でトルコ行進曲を、初めから終わりまで一気に吹いたのには驚かされた。

 よく息が続くものだとびっくりさせられたが、ハーモニカのように吸気呼気の両方を使い分けて、発声しているので、一時間半ぐらいは続けられるのだそうである。アメリカでの大会で優勝したらしいが、口笛でここまで出来るのかと驚かされた。

 その次のマリンバと和太鼓の共演も面白かった。こんな組み合わせも初めて聴いたが、和太鼓の低音で強烈な素早い響きと、マリンバの高音のこちらも素早い手捌きによる音が見事に響き合って、とても素晴らしいハーモニーを作っていて楽しませてくれた。

 昨秋には蘇州の音楽学校の生徒による、中国の古楽器による新しい音楽を聴いたが、これまでのヨーロッパのクラシック音楽に、日本や中国の楽器などが加わって、新しい音楽が出来てきたりして、今後益々音楽のジャンルが広がり、面白い音楽が聴けるようになるのではなかろうか、楽しみである。

 最後は、まだ16歳でドイツへの留学中のヴァイオリニストの、年には似合わぬ完成度の高い素敵な演奏で締めくくられたが、今回の演奏会では思いもよらない音楽を聴かせて貰い、つくづく行って良かったと思いながら帰途についた。

正月やめでたくもあり、めでたくもなし

 年が変わって、今年で数えて93歳になる。もうこの歳になると若い頃のような正月の楽しみはない。あっという間に一年が過ぎて、忽ちまた正月がやて来たというだけのことになってしまっている。よくこの歳まで生きたものだと思う。もういつ死んでも悔いはない。

 昨年まではまだ元気だったが、今年はどうもそういう訳にはいかないようだ。昨年の夏は極端な暑い日が、それも長い間続いたので、それまでになくへたばった感じがした。それがどうやら始めの兆候だったようである。

 10月の終わりぐらいから、今度は脊柱管の狭窄症なのか、2〜300米も歩くと右足が痺れて痛くなり立ち止まらななければなる間欠性跛行になり、MRIで調べてもらったが大したことはないようだが、歩行はそれ以来、良かったり悪かったりで、前かがみになるといくらか歩きやすくなるので、杖も離せなくなった。

 何よりこれ迄は、足だけは丈夫でどこまでも歩けるのが自慢だったが、それが出来なくなったのが一番辛い。12月には、毎月一回は行くことにしている箕面の滝までの散策も、雨が降って来たこともあったが、途中で引き返さねばならなかったし、元旦には、毎年三社廻りと称して、近くに3神社へ行くのを習慣にしていたが、今年は少し離れた神社をオミットして、2社で我慢しなければならなかった。

 その上、12月終わり頃にふと気が着いたのだが、両下腿に浮腫が出現し、それがずっと続いている。おまけに、以前から時々一回ぐらいの下痢があったが、暮れから正月にかけてはその下痢が続くようになった。以前より疲れ易くもなり、昼間に半時間ほど昼寝をしないと体が持たない感じもする。

 どうやらそろそろ命の終焉が近付いて来たのであろうか。正月が明けた頃には、一度近くの医者に診てもらって、浮腫の原因ぐらいは分かる範囲で見当をつけておきたいと思うが、根掘り葉掘り調べるようなことはすまいと思っている。それより、そっと成り行きを見ていく方が良いのではと思っている。

 正月早々から縁起でもないと思われる向きもあろうかと思うが、体の衰えは年とともに確実に進むもので、年の行くほど、その様子は人様々なので、天命に任せて静かに経過を追っていくのが最善ではなかろうかと思っている。

 世情の動きも決して芳しくない。益々、あの嫌な戦前の雰囲気に似てきつつある。今年が果たしてどんな年になって行くのか、それも含めて、静かに自然の流れを観察させて貰うおうかと思っている。

除夜の鐘

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 ここ2〜3年、除夜の鐘がうるさいという苦情を聞くようになり、それに応じてか、除夜の鐘を中止したり、時間をずらして鳴らすようにしたお寺が見られるようになったきた。

 我々老人にとっては、除夜の鐘は「行く年、来る年」の年末年始には欠かせない風物詩であり、それが消えてしまうと聞くと、何とも言えない寂しさを感じるが、激しい世の中の変化はすべての物を飲み込んでいくもので、個人の感傷はいとも簡単に無視されてしまうものである。

 昔は村はずれ、町外れでなくても、お寺の境内はそこそこ広く、物理的な音量が住民を脅かすようなことは考えられなかったが、今のように街中の家並みが建て込み、お寺の敷地も狭くなると、鐘撞堂と隣家の距離の短い所も出来ているであろうし、生活の仕方も多様になり、除夜の鐘がうるさく感じられる人が出てきても不思議ではない。

 それに人々の信仰心も変わってしまっている。信仰心があれば、有難い音の知らせであっても、信仰心がなければ、ただの雑音ともなりかねない。それに人のよっては、最早、年末年始はクリスマスの騒ぎよりも影が薄い単なる休日と化している。そんなところで、夜中にゴーンゴーンと鐘を108回も突かれてはどうにもならんという人の気持ちも分からないことはない。

 それにお寺の事情も変わってきている様である。除夜の鐘はそれに伴う仏事があるようで、従来は檀家の人たちの協力で成り立っていたのが、檀家の減少、人手不足、和尚さんの高齢化など、次第にお寺の行事にも支障が出やすい条件が増えてきたことも、お寺が除夜の鐘を中止する契機になっているそうである。時代の変化は無慈悲である。

 私の様な無神論者がとやかく言う話ではないが、昔の懐かしい年末の風物詩としての除夜の鐘がなくなってしまうのは寂しい気がする。寝床の中で、かすかに聞こえる除夜の鐘を聞きながら、今年が去っていき、来年はどんな年になるのだろうと想像したりしながら眠ってしまった子供の頃の大晦日が懐かしく感じられる。

 

一身二生

 福沢諭吉が「文明論之概略」で、江戸時代の名残の幕藩体制の世と、明治維新によってもたらされた文明開化の両時代にまたがって生きたことを、一身にして二生と言っていたそうだが、そう言われればなるほど、私も一身にして二生だったような気がする。

 もちろん時代はずれており、私に場合は、戦前の大日本帝国の時代と、戦後の「民主主義」的ではあるが、アメリカの従属国に成り下がった時代という、全く違った二つの時代を生きて来たことになる。

 ただ、初めの大日本帝国の時代は、まだ子供で、わずか17年に過ぎず、戦後の70年以上と比べて、あまりにも短か過ぎるが、それでもやはり、その前後では、明らかに区別出来る違った世界であった。初めの一生は他の世界を全く知らなかったので生きられたが、もう一度やれと言われてもお断りしたい時代であった。

 悪い夢を見ていた時代であったとも言える。父親とあまり歳の変わらない同じ人間が「現人神」という神様で、「天皇陛下」と言われて、恐れ多いので、近づく事も出来ず、遠くからでも頭を下げて拝むか、皆で日の丸を振って見送ることを強いられた。

 名前を出すにも「恐れ多くも陛下におかせられては・・・」と言い出さねばならず、それを聞いただけでも、その場で、直立不動の「気おつけ」の姿勢を取らなければ、拳骨で殴られるのが普通であった。どの家にもその人の写真が飾ってあり、それを拝まなければならず、その人の言葉を聞くには最敬礼をしてからでなければならなかった。

 何でもその人は二千年以上も続いた家系の後裔とされ、その人が中心でこの国が出来ているのであり、あとの人々はその臣下であり、一旦緩急ある時は、身を鴻毛の軽さにして、命を賭してその人のために忠義を尽くし、「天皇陛下万歳」と言って死なねばならないことになっていた。

 今から思えば、馬鹿げた世の中であったが、それに異を唱えたり、違った行動をする者は捕らえら、処刑されてしまうので、誰もおかしいとは心の中では思っていても、公然と言う者はいなかった。

 誰も言わないので、他の世界を知らない子供たちは、こんなのが世界だと思わされたままであった。時に何かおかしいのではと思うこともあったが、周囲の大人たちは「大人になれば分かるよ」と言うだけで説明してくれなかった。

 それがどうだろう。戦争が終わると、昨日まであれほど確固たるものであった大日本帝国が一夜にしてふっ飛んでしまって、人々は一面の焼け野が原に、勝手にしろと言わんばかりに放り出されてしまった。

 それまで天皇陛下万歳、天佑神助、忠君愛国、必死報国、鬼畜米英などと言っていた人が、一夜にして口を閉ざしたと思ったら、今度は自分のことしか考えず、大衆には「一億総懺悔」だと言ってごまかし、言い訳さえしないで、闇市場に群がり、儲けようとした。

 国というものはこういうものかと思い知らされた。国が助けてくれなければ、もう誰も助けてはくれない。もう皆がそれぞれ勝手にするより仕方がなかった。他人のことなどに構っておられず、必死になって自分が生きることだけに精一杯であった。

  時代の急転換に、身を翻してうまく乗れた人も、乗れなかった人もいる。多くの空襲の被災者、傷痍軍人や戦争未亡人、外地からの引揚者、復員軍人、浮浪児などの弱い立場の人々の悲惨な生活と、占領軍の支配による混乱の時代が数年以上も続き、日本人の精神年齢は12歳とマッカーサーに馬鹿にされ、日本も三等国で行くより仕方がないように思われていた。

 ただ占領軍による大日本帝国の徹底した破壊の代替としての、占領軍の若手の理想主義的支配方針の主導による、民主主義の理想を掲げた憲法の制定、人々の間に芽生えた戦時中とは真逆の民主主義の萌芽が急速に拡がり始めたことも、この時代の特徴だったとも言えよう。

 その後の世界やこの国の動きについては、よく知られているのでここでは省略するが、その後の時代の変わりようも激しい。冷戦の開始による占領政策の転換、朝鮮戦争の特需による日本の資本主義の復活に始まり、ベトナム戦争などを経て、いわゆる高度成長時代、JAPAN No 1、一億総中流の時代も束の間、バブル崩壊、それに続く長期に及ぶ経済の低迷、少子高齢化時代と続いて来た。

 福沢諭吉は66歳で死んでいるが、私は今や90歳を超えて長く生きて来たものである。確かに私にとって1945年の敗戦は大きな変換点であり、その前後で、その人生は一身二生と言える変化であったが、その後の時代の変遷も見れば、一身二生と言うより、一身三生あるいは一身四生といった方が当たっているのかも知れない。

 いつしか、また大日本帝国の復活を夢見る勢力が力を持ち始め、敗戦と共に獲得した民主主義の夢は次第に打ち砕かれようとしている。それも今度はあくまでもアメリカの属国としての歪んだ帝国の復活であり、人々の真の独立はますます遠いものになりかねない様相である。

 そこへ少子高齢化が進み、経済の発展が望み難くなって来ている上に、構造改革とやらで外国資本に乗っ取られていくこの国の将来に、明るい夢は託し難いが、やがて終える我が人生がどこまで見えるかは神に委ねるよりあるまい。今後の同胞たちの独立と平和の維持、幸福を願うばかりである。

映画 「家族を想うとき」(Sorry, we missed you)

 カンヌで賞を取ったイギリスの名監督ケン・ローチの表題の映画を見た。前作の「私はダニエル・ブレイク」を撮る前後から引退を表明していたが、幸いもう一度社会派の名作を作ってくれたことに感謝したい。

 これは最近少なくなった社会派の映画の中で、前作に続いての傑作と言って良い。現代の末期的な様相を呈する資本主義社会の矛盾を真っ向から批判するというより、その中で暮らす人たちのささやかな日常にありがちなドラマに人々を引き込みながら、社会の矛盾を厳しく批判するこの監督の一連の映画である。

 個人契約の宅配ドライバーの夫と訪問介護の妻。14時間労働、理不尽な待遇、疲労とストレス、子供の不登校。これでもかとばかりの現実描写の後、ラスト場面で更に続く現実の厳しさを突きつけてエンディングにしたところが良い。この衝撃のラストシーンに巨匠の怒りと愛を感じた。 音楽なしのタイトな演出が印象的で、後に尾を引く忘れられない映画になった。

 このギリギリの生活の中で必死に生きる家族の話は、決して遠いイギリスの話ではない。日本でも、まるで原始資本主義に戻ったかのような、雇用関係でない個人的な契約関係で、しかも労働はがんじがらめに締め付けられている業態は現実に、食事の宅配のウーバーイーツやコンビニ契約などで実際に問題になっていることである。

 社会の階級格差が増大し、家庭と労働とのジレンマによって、追い詰められていく庶民の日常生活。バラバラにされて救いのない人々がこの資本主義社会で生き抜く上での、現実の厳しさをを容赦なく突きつける。

 大企業のみが膨大な内部留保を抱え、しかも減税を受けている反面、一般の庶民は、正規雇用者の長時間労働不定期低賃金労働者の増大、労働組合の力の低下、日本だけの平均賃金の下降、社会保障の劣化、少子高齢化などによる生活環境の悪化にも関わらず、孤独化された人々は組合形成の呼びかけにも応じない由である。

 この先どうなっていくのか心配である。

 

舌出し、足出し、顎を出す

 娘がアメリカから帰っている時の話。私は最近、孫娘の消息をInstagramを見て追っかけているが、ボーイフレンドと一緒だったり、パーティなどの機会に写っている動画などで、よく舌を出している写真が見受けられるので、娘に「よう舌を出しとるね」と言ったら、いろいろなコメントの後で、「私は足を出してるわ」と付け加えた。

 娘は最近アルゼンチンタンゴに凝っていて、日本へ帰って来ている間にも スマホで見つけるのか知らないが、あちこちへ行って踊ってるみたい。当然タンゴを踊っては、足を出しているわけである。

 それを聞いた女房が「私らもう出すところあらへん。顎を出すだけや」

90を過ぎた爺さんも全く同感。元気だけれど、今や日常生活だけで精一杯、顎を出して若い世代の行動を見聞きさせて貰うだけである。

記憶にない、記録がない

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 たまたま上記のようなTwitterFaceBookの記事が出て来た。先に問題となった毎月勤労統計調査で、全数調査をすべきところを、抽出調査で済ませ、虚偽報告が行われて問題になった時の関係者の発言である。もう以前のことになるが、これを見ても安倍内閣の姿勢はいつも変わらないものだなと感心せざるを得ない。

 これが最近の「桜を見る会」やその「前夜祭」のこととしても、「記憶がない」が「捨てた」「記録がない」に変わっただけで、同じ流れである。この政府は何年経っても初めから終わりまで、国民の疑問に真正面から答えようとしていない。政府の役人が何にも覚えていないほど、認知能力が衰えているとは思えないし、記録を捨てたと言っても、今の時代に政府の文章がバックアップされていないわけがない。

 検察を抑ええておけば、どんなウソでも問題がない。その場をしのげば、時間が経てば国民は忘れてくれるとでも考えているのであろうか。戦後代々の政府を見て、これほど見え透いた嘘を平気でついて国民を欺き、都合の悪いことを隠蔽しようとした内閣はないのではなかろうか。

 それについて自民党の中から反対の声が全聞こえてこないことも情けない。野党は追求しても、メディアの声も弱い。安倍首相は自分の言いたいことだけを述べて、国会を逃げまくって、委員会を開かなかったり、会期の延長を拒んで論議を避け、野党や新聞記者の質問にもまともに答えようとしない。

  その上で、安倍首相は「この3年ほど、国会では政策論争以外の話に審議時間が割かれてしまっていることを、大変申し訳なく思っている」と述べ、自らが撒いた種で、自らが説明が出来ないことが原因であることを他に押し付けようとしている。やましくなければ、証拠を出して説明すればすぐにでも解決できることではないか。

 国会閉会後の野党の追及に対しても、相変わらずの「調査する必要がない」「必要を感じない」「調査は行わない」「回答は困難」などと「ゼロ回答」で、国会の調査権をも無視して、本気で取り組もうとしていない。

 森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会やその前夜祭の問題など、これらを通じて如何に政府が国民の疑問に答えず、三権分立の民主主義体制を無視して、強引に自らの利権がらみの政治を推し進めようとしているかがわかる。

 長期政権にも関わらず、内政、外交での成果も乏しく、国民の疑問にさえ答えようとしない自民党政権には、最近支持率も下がってきているようであるが、ここらで退陣して貰わないと、今後のこの国の将来が心配である。