国の嫌がらせ

 新聞によると日本の厚生労働省は6月から養殖ヒラメなど韓国産の水産物を輸入する時の検査を強化するそうである。理由として、夏の食中毒に向けた衛生対策という。韓国産ヒラメに新たな問題が見つかったわけでもないのに何故だろうかと思ったら、福島原発事故による被災地などの水産物を韓国が今だに禁輸している事への対抗策らしい。

 この韓国の禁輸措置については、その解除をめぐって日本がWTOに提訴したが、韓国側の禁輸措置が容認され、日本が敗訴したばかりである。新聞によれば、今回の日本の検査の強化は首相官邸幹部も韓国の禁輸に対する事実上の対抗措置であることを認め、「『報復か』というメデイアの書き振りで丁度よい」と語っているそうである。

 これを取引材料にしようという腹なのであろうが、何も新たな変化もないのにわざわざ問題を作って対抗手段にしようというのは、まるで子供の喧嘩の嫌がらせのようなものである。

 国が当然勝つだろうとして、韓国の禁輸措置解除をWTOに提訴したのが破れたからといって、それ相応の相手の弱点をつく対抗策でもなく、単なる嫌がらせのようなことをするのは幾ら何でもみっともない。国がこんな子供じみた嫌がらせをするとは、恥ずかしい気がする。

 堂々と論議を尽くして反論するなら良いが、反論の余地がなくなったからといって、何も問題のないところで嫌がらせをするのは大人のすることではない。国がこんな子供じみた嫌がらせをするとは、国民として恥ずかしい。国はもっと大人として堂々と振舞ってほしいものである。

三陸鉄道

 東北旅行で岩手県三陸海岸で、久慈から普代まで三陸鉄道に乗った。

このリアス式海岸に沿って走る鉄道は、明治の時代から地元の要望によって少しづつ作られ、長い期間をかけてようやく全線が結ばれる目処がついた時点で、国鉄が解散し、第三セクターとなりようやく完成したという苦難の歴史を持った鉄道である。

 ところが、ようやく地元の足として動き始めたこの鉄道も、初めは黒字であったが、地方の疲弊に伴い、やがて赤字になり、運営に苦しんだところに、今度は東日本大震災で大きな被害を受け、線路が寸断されてしまう悲劇に見舞われてしまうのである。

 鉄道ばかりでなく、この地方の災害が激甚であったこともあり、復旧にまた時間がかかり、ごく最近になってようやく殆ど全線が開通したという運命の鉄道とも言える。何はともあれこの鉄道が開通したことは喜ばしいことである。

 しかし、大震災によるこの地方の被害は大きく、8年経った今でも震災前の街はなくなり、人口は更に減り、果たして鉄道が開通したものの、今後これを維持していけるのかどうか疑問が残る。

 そんなこともあって、今や生活路線だけでは無理なので、観光路線として生き残ろうとしているのであろうか。私が乗ったのもツアー旅行の一環としてであり、他のツアー団体も見られたので、鉄道会社が旅行会社に頼んでツアーに繰り込んで貰っているのではなかろうか。

 実際に乗ってみても、全員と言って良いぐらい、乗っているのはツアー客ばかりで、地元の乗客は皆無と言っても良い。その代わり、景色の良い見所では、写真が撮れるぐらいの短時間、列車を止めてツアー客へのサービスもしてくれるし、ツアー客が降りる駅では予めその旨の車内報送も流れるし、通常は開かないドアも全て開けてお客の便宜を図ってくれる。

 ただ、団体客が降りた後の電車は空っぽであろうし、ツアー客の乗らない時間帯などの列車はどうなっているのだろうかと他人事ながら心配になった。

 なお、この電車では車内販売もやっていたが、車内販売というから手押し車に商品を積んでやってくるのかと思ったら、スーパーのような買い物籠に商品を入れ、両手に一つづつぶら下げて持ってきて、客の要望があれば、籠を通路の床に置き、販売員も座らんばかりに屈みこんで商売をしていた。

 いくら鉄道会社の財政が苦しくても、せめて手押し車ぐらいは買って、販売員がプライドを持って働き易くしてやるべきではなかろうか。いくらローカル線と言えども、地べたでの商売はあるまいと思った。

 そんなこともあって、私もお土産に地元のお菓子を買ったが、それは乗る前に聞いていた「ぶすのこぶ」と言う名のお菓子と「三鉄銘菓・三鉄赤字せんべい」のセットであった。呼び名が面白いので求めたのだが、これはアイヌの伝説から来ており、方言のブシが訛ってブスとなり、アイヌが好んで集まった窪地がコブとなったのだと言う。地元の菓子屋の主人がその名の響きの良さから取り上げ、自社の看板商品に仕上げたものだそうである。赤字せんべいはもう開き直った命名である。

 お土産に持ち帰ったが、「ぶすのこぶ」では人にあげるわけにもいかないのでうちで女房と分けて食べた。聞いた話で、ある人がお見合いのお礼に、地元の銘菓であるこの菓子を持って行ったばかりに、折角の話が破談になったということもあったそうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

従属国の接待

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 トランプ大統領が来日して、千葉で安倍首相が一緒にゴルフをした時の写真らしい。安倍首相の目はどう見ても、トランプ大統領のご機嫌を伺っている目付きである。

 ゴルフだけでなく、経済界の首脳らと会見、大相撲見物、優勝杯授与、料亭での接待などをし、次の日には皇居での国賓としての接待や宮中晩餐会など、今回のトランプ大統領の来日に関しては、安倍首相が計画して、最高級のもてなしをしたのではなかろうか。

 4月に安倍首相が訪米し、6月にはG20トランプ大統領の来日が決まっているところに、わざわざ無理をして国賓として招待し、3ヶ月続けて会うというのは普通ではない。ここでサービスをして点を稼ぎ、懸案の貿易問題を少しでも有利にしようという魂胆なのであろうか。天皇を利用することなど当然のことであろう。

 しかし、折角の機会での政治や経済問題に関しては、首脳会議の共同声明も出さず、トランプ大統領が一方的に、貿易の偏りを指摘し、「7月の日本の選挙が終わったら軍事や農業分野などでの大きな進歩が見られるだろう」と言って終わった。果たして効果があったかどうかは疑わしい。

 新天皇即位後の、最初の外国首脳としてのこの上ない接待に、トランプ大統領は「日米は世界で最も緊密な同盟」と言って答えたが、今後の交渉がこれに影響されることはないであろう。トランプ大統領の発言からすると、安倍首相との間で既に密かに大筋が決まったのかも知れない。

 如何に日本側がきめ細かい配慮をしても、アメリカ側からすれば、従属国への訪問である。日本への到着からして、今回は羽田空港を利用したが、前回はアメリカが支配している横田基地に降り、そこから先が漸く日本なのであった。

 今回の国内の移動も、ゴルフ場への移動は六本木の米軍ヘリコプター基地を使っての米国の支配下での移動であり、帰り際も、横須賀軍港の米軍を訪れてから帰国するという、日本の中でも米国の統治下での移動である。

 このトランプ大統領の接待のためにどれだけお金がかかり、どれだけの社会的な制約があったことであろうか。動員された警察官だけでも2万5千人と言われるし、関連費用をまとめると一体いくらくらいになったのであろうか。相撲見物のためにも、特等席の枡席に特別席が設けられ、周囲をSPで固められ、一般客は持ち物検査をされ、自動販売機は停止されたとかである。

 それぐらいは良いとしても、戦闘機105機を買うことも決まったとか言われる。いくら何でも、それだけのお金があるなら、貧困対策や老人対策など優先的に使うべきところはいくらでもあるのにと言いたくなる。

 このようなトランプ大統領の訪日を見ても、日本が未だアメリカの従属国であるという実態をまざまざと見せつけられた。憲法改正で喜ぶのは、自衛隊を前線の傭兵として使えるアメリカであり、日本人が望んでいるのは憲法改正より、地位協定を改正して真の独立を勝ち取ることであろう。

五月の北海道で気温37.5度

 地球の温暖化の影響か、昨年夏には酷暑が続き、少々へこたれた。熱中症も多く発生して社会問題にまでなった。ところが、今年は五月の初めまでまだ寒いと言って、朝早くまでまだ短時間ヒーターを入れたことさえあったのに、この2〜3日は急に高気圧に覆われ連日30度を超える暑い日が続き、テレビは「まだ体が暑さに慣れていないので、熱中症に気をつけて下さい。こまめに水を飲んだり、クーラーをかけるなりして下さい」と繰り返している。

  大阪でも連日30度を超えている。もう四季というものがなくなって、冬が終われば夏と、完全に二季になってしまった感じである。それでもまだ、この時期は夏と違って湿度が低いので、外へ出れば暑くても、家の中にいて、少しでも風が入ると、真夏のようにムシムシしてたまらないようなことがないだけ助かっている。

  それでも5月に連日30度を超えることなど、これまで経験したことがない。大変だ大変だと思っていたら、まだ大阪はまし。今日の昼の天気予報によると、北海道の帯広では、今日の午前11時30分の気温が37.5度で、観測史上最高だったと言っていた。関西でも豊岡は35度。

 (そう書いていたら夕方のテレビでは北海道の佐呂間町では39.5度と言っていた。)

 北海道で、それも帯広と言ったら冬は一番寒い所ではないか。つい先日までは氷点下以下の寒さに震えていた所ではないか。夏にはわざわざ多くの人が避暑に行く場所でもある。それがまだ5月というのに今年は関西よりも暑いという。

 明日もまだ暑さが続くというが、真夏の7月や8月になったらどうなるのであろうか。昨年に初めて40度という気温を聞かされたが、今年は連日40度などということになるのかも知れない。想像するだけでも恐ろしくなる。老人は夏の暑さに弱い。果たした今年の夏を乗り切ることが出来るであろうか。

 それに来年の真夏には国を挙げて今から騒いでいるオリンピックがある。オリンピック誘致のために日本が IOCに「一年で一番運動にふさわしい季節だ」というようなハッタリをかまして強引に誘致してきたが、7月初めは一年で最も野外競技にふさわしくない季節ではないか。

 もう今更止められないだろうが、40度も超えるような暑さの中では、屋外競技のマラソンなど、いくら早朝の幾らかでも涼しい時に出発すると言っても無理なのではないだろうか。強行しても選手の方が恐れをなして断る選手が増えるだろうし、途中で暑さにやられる選手が続出することにもなりかねないのではなかろうか。

 それに観客の方も野外では大変であろう。男も日傘をさせと言ったり、ベトナム風の帽子を工夫して、それを被れなどと言い始めているが、その様な姑息な方法だけで処理出来ることではなさそうである。

 それこそ熱中症で倒れる選手や観客が大発生して社会的な問題にならないとも限らない。去年も今年もこんな暑さでは、来年も当然こんな暑さが続くと見ておかねばならないであろう。今から対策は立てられているのであろうか。心配である。

 どうなっていくのか。オリンピックのことは別にしても、夏が近づいて来るにつれて心配は大きくなるばかりである。

津軽・下北半島の旅

 青森には何度も行っているが、その両側に伸びる津軽半島下北半島にはこれまで行ったことがなかった。たまたま先日、丁度その両方を巡るツアーの広告を見たので、それに乗っかることにした。

 始めは男鹿半島の男鹿温泉で「なまはげ」を見ることになったが、今や「なまはげ」も観光化してしまって、もう北国の伝統的な素朴な雰囲気は失われ、受け継いだ装束で太鼓を叩くショウになってしまっていて少し失望させられた。

 それより私の男鹿半島に寄せる関心は、昔は琵琶湖に次いで大きな湖であった八郎潟が、戦後の食糧増産のために埋め立てられて、その後どうなっているのかであった。埋立地は今では広大な平野となり、まるで北海道のように広々とした大地に真っ直ぐな道がどこまでも続いているといった感じになっていた。その道路に沿って菜の花がこれもどこまでも黄色い花を咲かせていたのが印象的であった。

 そこから津軽半島日本海沿いに北上し、途中、白神山地のブナ林や十二湖などを少し覗いてから、突端の竜飛岬まで行った。そこで北海道を眺め、津軽海峡冬景色の碑や、書類だけで決められたが実際には階段であったという国道の一部などを見、青森まで引き返して、近くで一泊した。

 翌日は、今度は下北半島を北上、まさかり形の半島の鎌の部分にある本州最北端の大間岬まで行き、ここでは函館方面の北海道を眺め、次いでは船で西海岸の仏ヶ浦を訪れ、五百羅漢その他の名前のついた巨大な凝灰岩の岩山が林立している間を散策し、船で引き返した後、今度は山道を登って、三大霊場と言われる恐山菩提寺に達し、三途の川を渡って、硫黄山の賽の河原などの地獄巡りをして、湖畔の極楽浜に出た。

 気候が良かったのであまり感じなかったが、冬の厳しい季節にでもこの地を訪れれば、昔の人たちが厳しい雪混じりの寒風に吹かれながら、この世のとも思われない荒涼とした硫黄の匂いのする殺伐とした風景に、地獄のような異世界を感じながら、亡くなった身近な人の供養をしていた心情がもっと感じられたのであろう。そして、心からの供養をした後で、宇曽利山湖の湖畔に来て、その美しさに思わず極楽を感じたのかも知れないと思われた。

 その日は強行軍で、その後、下北半島の付け根まで引き返し、八の戸市の近くのリゾートホテルに泊まった。そしてその翌日は、三陸鉄道にも乗り東日本大震災津波による被害の跡などを見ながら、三陸海岸宮古まで南下し、浄土ヶ浜を見物してから、内陸の盛岡近くまで辿り着き、山の中の温泉で最後の旅の夜を過ごした。

 浄土ヶ浜は仏ヶ浦を小規模にしたような、同じ火山由来の白い岩肌の岩が海岸から突き出した山脈のように突き出しており、その美しさに「極楽浄土のようだ」と感嘆したところから名づけられた由で、夏にはこの美しい景色の中で海水浴も出来るそうである。

 こうしてツアーのお蔭で、忽ちの内に、男鹿、津軽、下北の三半島を見て回ることが出来たが、個人的に行くのと違い、効率は良いが、ゆっくり落ち着いてその地の様子を見学し、その雰囲気に浸れるゆとりがなかったのが残念である。どうしてもツアーでは表面的な印象しか残らず、東日本大震災の復興や、六ケ所村の核廃棄物質の再処理施設の問題などについても、折角の機会なので、もう少し考える機会に出来たら良かったのにと思った。

 

秋田新幹線「こまち」

 東北は遠いのでどうしても飛行機を利用することになるが、今回はあるツアーに参加したので、大阪から秋田までJRで行った。東京で乗り換えて秋田新幹線「こまち」に初めて乗った。この列車は、東京からは東北新幹線の「はやぶさ」に連結されており、盛岡で切り離されて、秋田まで走っている。

 この「こまち」で面白いのは、東京から盛岡までは、他の新幹線同様の線路を走るが、盛岡から秋田までは高架の新幹線ではなく、地上に降りて在来線の田沢湖線奥羽本線の線路を走っていることである。

 当然、東京から盛岡までは速いが、その後盛岡から秋田まではゆっくり走ることになる。東京ー盛岡館が2時間13分なのに対して、盛岡と秋田の間は距離が短いのに1時間54分と略同じ位の時間がかかる。しかし、遅いことは悪いことばかりではない。新幹線は速過ぎるので、外の景色を楽しむゆとりが少ないが、盛岡ー秋田間はゆっくり走ってくれるので、車窓からの東北の田舎の風景を楽しませてくれる。

 同じ列車に乗ったまま、効率良く長距離を短時間で運んでくれる前半と、ゆっくりと途中の景色を楽しませてくれる後半部分が続いているのが興味深い。今の世の中を皮肉っているようにも感じさせられる。仕事の上では速くて能率が良ければ良いだけ優れているが、旅行を楽しむなら、能率よりも旅行の過程をいかに楽しめるかということの方が大事になる。

 人類にとって、効率よく働いて複雑な機械文明をどこまでも推し進めるべく寸暇を惜しんで働くのと、人生をゆっくりと楽しんで過ごすのとどちらが良いであろうか。衣食住の生活が保障されていたら、当然多くの人が後者を選ぶであろう。

 現在のように全てが効率よくあまり人力をかけないで出来るようになって来ると、当然その分、人はそれだけ働かなくても世の中は廻るはずである。人類はもう少し利口になって、経済の回転の仕方を変え、成長よりも分配の仕方を変えて、皆がゆっくり暮らせるようにすべきではなかろうか。そんな夢のようなことを思ったりしながら、盛岡から秋田に向かう「こまち」に乗って外を眺めていた。

 

外国人労働者を大事にしよう

 この四月から外国人受け入れの法律が変わって、今後大勢の外国人労働者を受け入れることになったようである。政府はあくまで移民には反対のようで、今までは技能実習生などという名前と実質が一致しない、言わば闇の形で外国人労働者を受け入れてきたが、人手不足が深刻で、企業側からの要望に押されて、実質的な移民政策に移行せざるを得なかったようである。

 しかし要望はあくまで単純労働の人出不足を補うための低賃金労働者募集であり、労働力の移入が目的で、移民を進めようとしているのではないところに大きな問題がある。労働力を人間から切り離すわけにはいかない。法律が変わっても本質は変わらないようである。

 移民にはヨーロッパなどでも色々な問題を伴って来たが、そうかと言って、労働者を受け入れる以上は、単に労働力の移入でなく、外国の人間を受け入れること、即ち、移民を真剣に考えなければならない。

 当然これまでのように、日本での最低賃金以下のような報酬での単純労働の労働力としてしか見ないような受け入れ態勢では、今後は必ずやいろいろな問題を起こすこととなり、日本への渡航の希望者が減ってしまうことになりかねない。

 これまでと違い、アジアの経済発展が目覚ましく、生活も安定してきているので、日本との賃金格差も減少しつつあり、経済発展の著しい中国が一人っ子政策少子化が進み、労働力の不足が顕在化してくれば、労働力の奪い合いが起こってくることが予想される。

 過日の新聞では、ドイツでも高齢化が進み、介護職員の不足を補うのに東欧諸国からの供給では足らず、ベトナムなど東アジアからも募集していることが載っていた。

 当然、条件の良い国に応募者は集まるであろうから、質の良い労働力を求めるなら、他国に勝る条件を提示出来なければ、思うように人材が集まらないことにもなりかねない。

 この国の将来を考えれば、ここで発想を変えて、単に一時的な労働力の確保ではなくて、いつかこのブログにも書いたように、この際、この機会を捉えて「新弥生時代」ともいうべき新しい人々の移民を進め、この国に大勢の新らしい日本人を育生して、共生していくことを考えるべきではなかろうか。

 もともと島国で同調しやすい「和」を尊ぶ単一民族と言われがちな日本の国民が今後発展していくためには、ここらで再び多くの異質な人間や文化を取り入れて、多様性を増すことが必要なのではなかろうか。

 地球上での交通が便利になり、経済的にもすべての国の交流が盛んになる時代には、もはや単一な大和民族の伝統や、ナチスゲルマン民族の優越などという、単一民族的思考の結果は最後はガラパコスに繋がるだけではなかろうか。運動競技の分野で混血の日本人が世界的な選手として活躍していることも参考になるであろう。

 多様な人々の集まりによる、多様な思考、多様な試みがあってこそ、これまで人類は生き延び、栄えて来たのであり、今後の世界の中では、多様な人々の多様な考えによってこそ、多様な将来の希望も、発展も望まれるのではなかろうか。

 そういうことを考えれば、人口減少のこの機会に大いに移民を受け入れ、この国の人々の多様性を進め、新たな活力をつける絶好のチャンスであり、それこそがこの国の将来の発展に繋がる道ではなかろうか。

 そのためにはこの国にやってくる外国人を、単に人手不足を補う労働力と見做すのでなく、仲間の人間として大切にもてなし、同じこの国に住む人間として、共に生きて行く工夫をすべきであろう。

   最近の朝日新聞のオピニオン&フォーラム欄に『「移民」の夢育めますか』という見出しで、二十数年前に三重県の自動車部品工場へ出稼ぎに来た両親の元に来日し、苦労しながら勉学して現在は大学の講師や大学院卒の会社員、大学院博士課程という3兄弟の話が出ていた。移民の中からもこうした優れた日本人が大勢育っていくような体制を移民政策に取り込むことが必要だと考える。