令和余聞

 今度の年号が「令和」に決まったことについて、色々な人が色々なことを言っているので、忘れないうちに少しだけ書いておこう。

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 先ずは、この写真は菅官房長官が年号を初めて発表した時の写真であるが、初めて見た時から気になって仕方がないのは、「令」の字の最後の縦線の終わりを跳ねていることである。

 漢字の描き方には色々あり、「令」の字など下を「マ」と書くことも多く、それも間違いではないが、5画目の縦線の下を跳ねる日本語の書き方は見たことがないない。4画目のカギ状の終わりを跳ねて、5画目の最後もまた跳ねることはないのではなかろうか。

 一頃、小学校などでの 漢字の教育で、縦線の終わりを跳ねるか跳ねないかなど、細かいことがうるさく言われたこともあったが、今は寛容になり、跳ねても跳ねなくても、どちらでも良いことになっているようである。どんな漢字についても皆が読めればそれでよく、細かいことは言わないことになっているらしい。

 従って、「令」の字についても、どうでも良いのかも知れないが、4画目、5画目の両方を跳ねているのは普通には見たことがない。正しく読めるので、間違いと言う必要はないだろうが、両方とも下で跳ねられていると、見た目にも格好が悪い。

 菅氏の示した文字は、最初にこう決まったという見本であるから、間違いではないにしても、同じ見せるなら、美しい文字を示して欲しかった。誰が書いたのかは知らないが、少しでも漢字の素養のある人なら、最後の下線を跳ねることはありえないと思うがどうだろう。

 5画目の縦線は止めて終わりにするか、下へ引き伸ばして細く引き上げて終わるのが普通であろう。

 

 二番目には「令和」と聞いた人々の反応である。「令」と言えば、先ず命令の令を思い浮かべる人が多いだろうから、安倍首相のことだから「命令に和して大人しく従え」と言うことかと感じた人が多かったのではなかろうか。「政令和従」と言う人もいた。

 外国でも似たような反応が多かったと見えて、外務省は外国向けに、わざわざ「令」には令嬢などと言うように美しいと言う意味もあり、「令和」は”beautiful harmony"を意味するのだと発表したようである。

 外国といえば、中国では「令」と「零」は発音が同じだそうで、「令和」は「零和」に通じ、「平和がゼロ」「混乱が続く」という意味にもなるそうである。また台湾では、「令和」がやはり発音で「零核」と似ており、現地で問題となっている核廃絶運動の言葉になるとか言われているそうである。

 

 三番目には、安倍首相がこだわった脱中国で国書由来の年号にすることについての話である。始めに絞り込まれた候補の言葉には「令和」はなかったが、安倍首相の国書由来の要望で入れられたのだそうで、これが本命として押されたとか、真偽のほどは不明だが、言われている。

 しかし、それについては、またうがった面白いことを言う人がいるようである。万葉集から取ったと言うが、歌はみな万葉仮名で書かれているので、そこからの漢字を拾うわけにはいかないが、序文の部分が漢文で書かれているので、そこから拾ったわけだが、折角拾った序文は中国の古典である張衡の「帰田賦」から引用したもので、初めての国書由来の年号と言うが、元はやはり中国由来のものであった訳である。

 しかも、「帰田賦」と言うのは張衡が政府に仕えていたが、その悪政に愛想をつかして、田舎へ帰る時に作ったものであり、さらにその仕えていた皇帝の名が「安帝」といったそうである。

「令和」を考えた学者が、この中国での謂われを知らないはずはないので、国書由来にこだわった首相が学者にまんまと乗せられたと、うがったことを言う人がいたのも面白かった。

  この年号決定の直前に外務省が公文書に年号を使わないことにしたと発表して、反対にあって取り消したようだが、今更国民主権の国で年号を使う必要はないのではなかろうか。

 私も最近は西暦しか使わない年号廃止論者なので、強制されるのでなければ、どんな年号であろうと構わないが、政府がどのようなことを目論み、結果としてどのような年号になるのかについては、野次馬的興味で成り行きを見ていた次第である。

追記:

 令和の年号については、その後も色々な話があるが、朝日新聞の歌壇には、やはりと言って良いような

 ”命令を承って温和しくしてろと言っているのか「令和」”

というのが載っていたし、外務省の説明の”beautiful harmony”については

「赤信号皆で渡れば怖くない」ということだなという説明をする人がいた。

映画「禁じられた遊び」

 戦後まだそれ程も経っていない1952年のフランス映画「禁じられた遊び」を近くの映画館で上映するのを知って見に行った。まだ戦後の空気がまだ濃厚な時に見て、忘れがたい映画の一つだったので是非もう一度見たいと思った。

 映画はその時一回しか見ていないが、ギターの伴奏曲が「愛のロマンス」とか言って広く流行したので、映画のストーリーの詳細は時とともに薄らいでも、曲の方は後々まであちこちで聴く機会があり、その度に映画に出てきた子役の演技やその情景を思い出したりして来たのだった。

 今回、久しぶりで映画に再会して、改めて良い映画だったのだなあと感心させられた。監督のルネ・クレマンの名前も久しぶりで懐かしかったし、映画の内容も朧げな印象のみとなり、ストーリーなど殆ど忘れかけていたので、場面、場面を思い出しては感動した。

 見に来ている人はやはり高齢者が多かったが、それでもこの映画が初めて封切られた時に見た人は少ないのではなかろうか。私などは映画を見ているうちに、いつしか戦後の時代に戻って見ているような感じさえしていたが、その頃と今初めて見るのでは、同じ映画を見ても感じ取り方はどうしても違ってくるのではなかろうか。

 改めて見ても、やはり優れた映画である。涙なしには見れない。ルネクレマンの演出も卓越しているが、両親を亡くし、戦争孤児となった5歳の女の子の演技、表情の変化が何と言っても素晴らしい。

 孤児になった少女が、偶然出会ったミッシェルという少年の家に一緒に住み、死んだ愛犬を埋めてやることがきっかけとなって、子供達二人でこっそりとヒヨコやモグラや虫などの墓を次々に作り、それらを弔うために墓地や教会の十字架を盗んで動物たちの墓に立ててやるというストーリーである。「禁じられた遊び」という表題の所以である。

 やがて少女が少年や家族と引き離されて、赤十字に引き取られることになるが、引き取られて群衆の中で待たされている間に、少年と同じミッシェルという名前を聞いて、「ミッシェル、ミッシェル」と呼びながら少女が少年を求めて群衆の中に消えて行くところでFINとなる哀愁のフィナーレも素晴らしい。

 それにこの映画の制作時に、予算がなくてオーケストラが組めないために、ギター一本の伴奏になったものらしいが、その今では聞き慣れた「愛のロマンス」の曲がまた良く映像に合っていて、映画の印象を一層強めているのも特徴であろう。

 再度見ても、やはり戦争の悲惨さ、残虐さを間接的に強く訴える反戦映画の傑作と言えるであろう。やはりこういう悲劇を二度と繰り返さないように、こういう映画がいつまでも人類の良識に訴え続けて欲しいものである。

 

 

 

 

 

 

老人は下を向いてゆっくり歩め

 数日前に、久し振りでまた転倒した。一駅先のギャラリーまで歩いて行った時、広い道の交差点で信号が変わりかけたので、すぐ横の駐車場の端を少し斜めにショートカットして、急いで渡ろうと踏み切った途端、見事に前方に転倒、指先と顎を地面に打ち付けた。ステッキを持っていたのだが、あまり助けにはならなかったのか、或いは、ステッキのお蔭で衝撃が少なくて済んだのかは分からない。

 近くを通りがかった二人の人に声をかけられ、心配されたが、恥ずかしさもあって「大丈夫です」と言って立ち上がり、状況を確認した。すぐ後ろに駐車場の黄色に塗られた車止めのコンクリートのバーが見えるではないか。前方の信号にばかり気を取られて足元を全く見ていなかったので、そのバーにまともに躓いて転倒したようである。そこまで歩いてきた歩道の続きで、駐車場に踏み込んでいることにも、全く気づいていなかったのである。

 幸い、起き上がっても、右の顎から頬辺りが少し痛いぐらいで、手足は動かしてもどうもなく、左の薬指の先と右の薬指の裏側に軽い傷があるだけである。良かったと一安心して、心配させた人へのお礼もそこそこにその場を立ち去った。少し行った所で、道端の商店の窓ガラスで顔を確かめてみたが、目立つような外傷はないようなので、安心してそのまま画廊まで歩いて行った。

 大した事故でなくてよかったが、また転倒したことにショックを受けた。昨年7月に酔って帰る時に、駅の階段を踏み外して前頭部を打ち、救急車で運ばれて以来のことである。その時も下の階段で手すりを持っていたものだから、頭を側壁に打っただけで、転げ落ちることもなく、足腰の怪我がなかったので良かったが、これまで何回転倒したことだろう。

 八十歳前後からであろうか。普通の道でも、時に躓いて転ぶことが起こるようになった。何でもないような所で転ぶのである。転ぶ時はまるでスローモーション映画を見ているようなもので、自分で転んで行くのがよく分かるのだが、どうにも止められず、「あ、あ、あ・・」と言っている間に地面にどっかりと倒れ込んでしまうのである。

 猪名川のほとりの道で転倒したこともあった。循環器病センターからの帰り道、歩いて北千里の駅にたどり着いた時に、駅の歩道の段差に躓いて倒れたこともある。外国でもロスアンゼルスの聖堂の前庭でこけたこともよく覚えている。どうも歩き疲れた時などに、つま先が上がりにくくなることに関係があるのではなかろうか。

 そう思って八十過ぎてからは、ラジオ体操を始め、2〜3年後からは、それに筋力体操も加えて、出来るだけ毎朝続けるようにした。その上、散歩に出たりする時には、出来るだけステッキを持つようにした。そのおかげか、最近は普通に歩いている時の転倒は殆どなくなっていた。

 ただ、ステッキを持っておれば転倒しないわけではない。ステッキは持っても元気なので、ステッキで調子を取って返って速足で歩くことになったりしていた。するとある時、ステッキの先が丁度道端の穴にはまり、そのために勢い余って前方にひっくり返ったことがあった。

 また、階段では、まだ現役の頃に、雨の日の地下鉄の下り階段で、濡れた階段で足を滑らせたことがあった。幸い、手すりを持っていたので良かったが、横向きに反対側の頬と腕を壁に強く打ち付けたのだった。それ以来、階段を降りる時には必ず手すりを持つか、持たなくても手すりに手を沿わせて、いつでも持てるようにしていたが、それでも階段での小さな事故も何回かあった。

 昨年の事故を別にしても、よく覚えているのはイスタンブールのガラタ塔に登った時である。暗い階段を降りる時、最後の一段を踏み外して転倒し、係りの人が椅子を持って飛んでくるなどの騒ぎになったことがあった。また、池田駅の出口の階段で、手すりを持って降りたのだが、もう終わりだと思って手を離したら、もう一段あって、前方に倒れ、右手の薬指一本で体を支えることになったこともあった。

 これらはバランス感覚が悪いということよりも、どうも視力が絡むようである。バリラックスの眼鏡をかけているが、階段を降りる時などは前下方を見なければならないわけだが、この種の眼鏡では丁度その辺りの視線が近眼用になっていて、遠くははっきり見えないようになっているのである。ただでさえ階段の下方は薄暗い所なのに、その上ピントが合わないのでは、つい最後のステップを見逃してしまい勝ちになるのではなかろうか。

 階段でなくても、視力が転倒に関係することもあるようである。昨日の転倒の場合にも、注意不足のためもあろうが、視力が悪くて周りが十分見えていなかったことも関係しているのかも知れない。私の左目は黄斑部分の障害で中心暗点があり、普通主に右目だけで見ているようなものなので、遠近感が鈍い。その上右目も老眼の上、軽い白内障もあることも関係しているかも知れない。

 自分では見えているつもりでも、大分見落としていることもあるのではなかろうか。昨日の他にも、以前に一度、やはり交差点の近くで、歩道わきに張られたチェーンに気がつかず、それに足を取られて転倒したこともあった。

 転倒が老人の命取りになることも多い。老人になるとバランス感覚が悪くなって転倒しやすくなっているのが普通である。その上に視力も悪く、視野も狭くなる。運動神経も鈍くなり、運動能力も落ちてくる。当然、老人はそれに応じた動き方をして、日頃から転倒には気をつけるべきであろう。

 老人になると自然と背骨が曲がり、前屈みになってゆっくりと歩く人が多くなるものであるが、それは老人に適しているのかも知れない。

 それに逆らって、自分は背骨も曲がっていない、歩くのも速い、などと見えを張って上を向いて急ぎ足で歩くのが危険なのではなかろうか。歩けば下を向いて、地面のデコボコや段差がわかりやすいし、ゆっくり歩けば倒れにくいし、倒れても衝撃が軽くなるであろう。

 歳をとれば、元気だと思っていても、見栄を張らずに老いの掟に従うことである。平地でも地面を見てゆっくり歩き、決して空を見て急ぎ足で歩いたり、慌てて道を横切ったりなどを考えないことである。

 骨折でもして寝たきりにならないためにも、これからは少し慎重に老人らしく歩くべきだと反省しきりである。

新元号「令和」

 昨日は新元号の発表で大騒ぎ、今朝の新聞の一面には特別大きな字で「令和」と書かれており、紙面も新元号のことで埋め尽くされて、選挙のことも、ブレグジットのことも、その他の政治や経済のことも、何処かへ行ってしまった感じである。

 「一回伝えればわかるよ。元号変わって世の中変わるんだったら誰も苦労しない」というSNSの書き込みもあった。「メディアがこんなに乗せられるのなら、戦争だという時にも乗せれれるのでは」と心配する声もあった。

 日本国は昔の大日本帝国と違って、天皇国家元首の国ではない。天皇に関わる伝統を残すことに反対はないが、日常生活で行政が年号を強制するのには反対である。

 国民主権の時代であり、実生活の上では世界的に使われている西暦に統一するのが便利であり、年号の使用は煩雑で、間違いの元にもなりかねない。外務省ですら、文書での年号使用を止め、西暦一本にするようである。

 私はこれまでも年号は必須の時以外は使わず、許される時にはいつも西暦で通してきたし、今後も年号を進んで使う気はないので、どのような年号になろうと構わないが、どんな年号になるか野次馬的には興味があった。

 日本会議など右翼の希望で、隆盛する中国に反発して、今回は中国の古典からではなく、国書から取りたいということが言われていたし、安倍の安の字が入るという説が囁かれたりしていたからである。

 日本書紀ぐらいが原本になるのではないかと思われたが、決まったのは万葉集からのものであった。万葉集は万葉仮名で書かれているので、そこからは無理だという気がしていたが、その中の序の漢文から拾ったものとなった。(流石に安の字は採用されなかった。)

「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。(時に、初春の令月にして、気淑よく風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。」

 これで日本の古典からとった画期的なものだなどとも書かれているが、実は万葉集の時代には中国の古典を踏まえて書かれているものが多く、この万葉集巻5、梅花の歌32首の序自体は、王羲之蘭亭序および文選巻十五記載の張衡 (科学者)による「帰田賦」の句(於是仲春令月[15]時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮)を踏まえていることが新日本古典文学大系萬葉集(一)』(岩波書店)の補注において指摘されているのだそうである。

 これまでの年号が全て中国の古典に由来しているのだから、皇室の伝統を守るためには、何も無理をして日本の古典に拘ることはない。日中韓など東アジア文化圏で共有されてきた年号文化の伝統を守った方が良いのではなかろうか。

 折角の「令和」という穏やかな感じの元号が選ばれたのであるから、その字の通りに平和で穏やかな時代になって欲しいものである。「令」には命令の意味もあるが、上から目線の「命令には和しておとなしく従え」などということにならないことを願って止まない。

 台湾では令和の中国語発音が零核と似ているので原発ゼロを意味することになるとかとも載っていた。また、菅官房長官が示した「令和」の「令」の字の書き方が、最終画が左にはねているのが気になった。 

老いの春

 歳を取っても春は嬉しいものである。若い時は季節は必然的に回っているものだから、毎年出くわすのが当然のような感じがしていたが、九十歳も超えると、暇になったのと、寒さが応えるようになったためか、若い時よりも春が待ち遠しくなった。

 それに、昨年の花見の時に初めて感じたことだが、これまで毎年春の来る毎に、当然のごとくに春の到来を喜び、花を愛でて来たが、この歳になると、もういつ何が起こっても不思議ではない。果たして、来年もまた元気で花見が出来るかしらという思いがふと頭を過ぎったのだった。

 それから早くももう一年経ち、今年もまた春がやって来た。現役時代で、仕事の忙しかった頃には、季節は勝手にやって来て、仕方がないのでこちらも勝手にそれに対応するというような関係であったのが、歳を取るといつしか季節との関係が深くなる。

 暮れから正月にかけて、日が短くなって、寒さの厳しい冬には、老人は早くから家にこもりがちになり、早寝早起きが一層促進され、朝は早くに目が覚めて、暖かい家の中で、遅い夜明けを待つことになることとなる。

 正月を新春などと言っても、それからが寒くなるわけで、旧正月春節が冬たけなわの頃である。しかし、二月も進んでいくと、いつの間にか日が長くなり、まだ空気は冷たく、風は寒いが、日差しが明るくなって、光だけが春を感じさせるようになって来る。それが春の始まりである。

 雪中四花は冬でも咲いているが、春は命の始まりのような豊かな花の季節である。二月の半ばにでもなれば、春を待ち焦がれて中山寺に探梅に出かけてみることになる。毎年まだ早過ぎることが多いのだが、それでも、僅かに咲きかけた梅の花を見て、春を期待して心を弾ませる。

 そのうちに二月の末になると、大阪城公園の例年の観梅会が開かれ、あちこちの梅林も賑やかになる。梅花の下にはタンポポが可憐な黄色の花を咲かせることもある。我が家の築山のピンクのボケと青い菫もコントラスト良く咲いている。

 そして三月になるともう啓蟄やお水取りも待たずに、木蓮の蕾が丸く膨らんで割れ、ミモザが黄色い花で溢れ、桃や彼岸桜が負けじと咲く。菜の花やユキヤナギが低い目線を楽しませてくれ、もう冷たくない心地よい春風に新鮮な柳の新芽がそよいで春を感じさせてくれる。

 もうテレビで桜の開花情報が流れ、今日の散歩で確かめた五月山周辺の桜も三分から五分咲きといったところである。若い時以上に春は待ち遠しく楽しいものである。今年も元気で花見が出来そうなのが何よりである。

 

戦争を知るのは最早後期高齢者のみ

 殆どの国民の生活を破綻に追いやったあの悲惨な戦争も、今では74年も前に終わったことになる。それでも、私にとっては、まるで昨日のことのように、今尚鮮烈に思い出されることで、90年を超える人生も、1945年の敗戦を境に、その前と後ではっきりと分かれてしまっている。

 何も知らずにただ闇雲に、忠君愛国、天皇陛下万歳大日本帝国を信じ、それに殉じようとしていた戦前の少年の全ての世界が崩壊し、全てを失って茫然自失の続いた前半の人生と、漸くのことで過去を清算して新しく築き直して来た戦後後の人生がはっきりと分かれている。破壊と敗戦による急激な社会の変化、その中での人々の赤裸々の動きも今なお鮮明で、忘れ得ない記憶となっている。

 この戦争の悲惨さ、人間の愚かさ、過酷な体験などはどれだけ話され、記されたことであろう。恐らく当事者の全てがもう二度と戦争をするまいと思い、いつまでも語り継がねばと思ったに違いない。

 しかし、時の経過というものは冷酷なものである。74年もの年月が経つと、戦争を経験した者は次第に鬼籍に入り、今や戦争を知るのは最早、後期高齢者のみとなってしまった。戦後の混乱期である戦後の焼け跡の闇市傷痍軍人や浮浪児、その頃の飢えと貧困の時代を知っている者さえ、もう還暦を超えた人達だけになってしまっている。

 今の社会で、現役世代として活躍している人たちはもう戦後の貧しささえ知らない人たちばかりである。1960年の安保闘争以前の、束の間の戦後の輝かしかった民主主義の始まりの時代も知らない。民主主義の教育も遠い昔の語り草になってしまった。

 我々にとっては忘れることの出来ない12月8日も、今では思い出す人も少なくなって来ている。日本がアメリカと戦ったことすら知らない人がいて、びっくりさせられたことがあったが、戦争とはアメリカとの太平洋戦争のことだけだと理解している人も案外多いことに驚かされる。 

 15年戦争という言い方もあるが、1930年の満州事変から始まって、上海事変支那事変と宣戦布告なしの大陸への侵略から戦争が始まり、それが続いた上で、ノモンハン事件などを挟んで、大陸で戦う構えが急速に変わって、アメリカとの矛盾が大きくなって、真珠湾攻撃、世界戦争となったのがこの戦争の経過である。

 しかし、このような経過を理解しないの人たちを非難するわけにはいかない。74年も経てば、どんな出来事も歴史の一コマでしかなくなってしまうのは致し方ないことである。私が子供の時には、明治維新日露戦争関東大震災などが過去の大きな出来事として語られていたが、それと比べてみると、今の若い人たちにとっての戦争の位置づけが想像できる。

 明治維新は1868年、日露戦争が1904年だから、私が小学校に入った昭和10年(1935年)を基準にしてみると、明治維新が67年前で、今で言えば丁度、敗戦の頃のような感じ。日露戦争は随分昔のことだと思っていたが、31年前、今で言えば平成に変わった頃のことに過ぎない。関東大震災が1923年だから、それからはまだ10年そこそこしか経っていなかったことになる。今でなら東日本大震災に似た感じである。

 家にはまだ東郷平八郎の写真が貼られていたし、乃木希典や広瀬中佐の話などもよく聞かされた。大地震といえば関東大震災のことで、浅草の12階建ての建物が崩壊したことや、被服廠跡で大勢の人が焼け死んだり、朝鮮人が池に毒を投げ込んだというので大勢殺されたという話などをよく聞かされたものであった。

 そんなことを考えると、今の若い人たちの戦争に対する思いは、我々のような体験者とは随分違っていて当然であろう。我々のように忌まわしい体験から全身全霊をもって忌み嫌うのと、理性によって客観的に判断しての否定の違いがあるであろう。

 我々体験者としては、我々の切ないまでの戦争に対する想いを伝えて、理性的な判断の材料として貰い、全てを破壊し、悲しみしか残さない戦争を二度と起こさない工夫をしてくれることを願うしかない。やがてもう我々もいなくなるが、我が子や孫たちがあの悲惨な戦争だけは何としても避けて欲しいと切に願うばかりである。

 

透析中止は誰が決める?

 昨年8月東京の病院で40代の女性が腎不全で人口透析治療をやめた後に死亡したことが問題になっている。それまで別の病院で透析を受けていたが、シャントが閉塞して、続けられなくなり、問題の病院に相談に訪れた。その結果、病院の医師は透析を続けるためには頸静脈からのシャントを作るより仕方がないと判断し、女性に説明したが、女性がそれを嫌がり、中止の選択肢もあるが、必然的に死につながることを説明したところ、夫とも相談し、中止が死を意味することをも理解した上でも、透析中止を望んだので、その意思を確認、署名もして貰い、透析を中止し、内科的な治療を続けたということである。

 当然、尿毒症が進んで一週間後ぐらいに死亡したが、最後に近くなって苦痛がひどくなると、やはり透析を続けた方が良かったのではと心は揺れていたようである。

 ところが、このような病院の対応が問題となり、東京都は医療法に基づいて病院への立ち入り検査を実施、日本透析医学会は調査委員会を立ち上げたと新聞では報じられている。

 透析医学会では先に透析を中止、もしくは始めないことを検討出来るのは、患者がガンなどを合併していて全身状態が極めて悪いか、透析によって返って患者の生命を損なう危険性がある場合に限られると提言で決めている。

 もちろん患者本人や家族の意思決定の前に十分な説明が行われ本人がそれを理解し、納得していることが前提であるが、医師単独ではなく、医療チームが患者や家族と話し合うように提言は求めている。一旦透析を中止しても決定の変更を受け入れることにも触れている。

 この問題は先年問題となった人工呼吸器を外すかどうかの問題にも通じる問題である。自殺や安楽死を認めるかどうかにも関わってくる。人工呼吸器の場合には外せばすぐに死に繋がるが、透析の場合には時間がかかるが、確実に死に繋がることになる。その死に繋がる決定を誰がするかということであろう。

 人工呼吸器の場合は本人に意識がなく、第三者が決めなければならない問題であるが、透析の場合は、治療を受けるか受けないかを本人が決定しうる立場にあり、しかも治療を受けないことが死を意味しても、直ちに死に繋がるものではないことが異なる。

 人が社会に生きている以上、社会の制約があるのは当然である。。自殺は現在悪とされ基本的には許されない。しかし実際には自殺は数多く行われているし、安楽死などを認めている国もある。それによって自殺幇助の位置づけも変わってくる。基本的にはいかなる治療の洗濯も本人に決定権があるのは当然である。

 ただし、社会的には目に見えない圧力というものもあるので、法的にはそれらも考慮して判断すべきであろう。日本では昔から「死をもって償う」とか「虜囚の辱めを受けず」など社会的に死を軽視する傾向があったことも参考にすれば、死を選ぶ権利は時代により、その文化によって変化することも考慮すべきであろう。

 それはともかく、透析の場合には透析の開始の決定と、透析の中止は分けて考えておいた方が良さそうである。開始は病状の判断を医師がし、患者の了解を得て、医師が決定して始めているのが現状であろう。しかし、厳密には緊急を要する場合を除いては、医師の情報に基づいて患者が判断し決定するのが本筋であろう。患者の透析をしない権利は社会的な死の自己決定権にも依存するであろうが、患者の反対を侵して無理やり透析を始めることは誰にも出来ない。放置してれば確実にしにつながるガンの治療を受けるか受けないかを決めるのも本人であるのと同じであろう。

 透析の中止は通常では考えられないことであり、殆どの場合は透析学会の提言に従うべきであろう。ただ、明白な意思の決定のないまま始められてしまった透析を、患者が途中で、状況を理解した上で、中止を希望した場合は事情が異なる。この場合にもやはり社会的な制約も考慮せざるを得ないであろうが、基本的には決定権は患者にあるべきであろう。

 新聞報道では日本透析学会の提言に反する決定には問題があるとし、同学会の提言作成にかかわった理事の岡田一義・川島病院(徳島市)副院長(腎臓内科)も「終末期ではない患者に医師が透析中止を提案したのだとすれば問題で、医師の倫理から外れている」と話している。

  しかし、基本的には、自分の体の操作や、その結果の決定権は本人にあることが大前提で、透析を始めるかどうかも、途中で止めるかどうかも十分な判断材料を得て本人が決めるべきことで、医療側はその判断に従った上で最良の医療を行うべきものであろう。

 尊厳死安楽死の議論につながる問題でもあり、人間の尊厳を踏まえて社会と個人の死の決定権をどこらで調和させていくかが問われている現在、このような問題が社会的にどのように解決されていくかその成り行きを注目したいものである。

追記: その後、日本透析学会はこの福作病院の例より提言自体を見直し。5月に新しい提言をまとめることになったようである。