去年はひどい年だった

 「今年も今日で終わりだが、振り返ってみると、まず感じるのはひどい年だった」と書いていたら、年末の慌ただしさの中で、中断されて年が変わってしまった。

 昨年は本当に酷かった。地球温暖化の影響からか、もう春がなく、いきなり夏になったような感じで、5月頃から暑くなり、昔なら30度C も超えれば暑いと言っていたのが、昨年の夏は41度を超える所さえ現れ、もう日本も熱帯並みの暑さでほとほと閉口した。熱中症で倒れる人も多く、老人には耐え難い暑さであった。

 その上、北大阪地震で高槻の小学校で、児童が学校の倒れたブロック塀 の下敷きになって死ぬという痛ましい事件が起こったし、茨木や高槻では地震で瓦がずれて、ブルーシートを被せた屋根の家が並ぶ風景が長らく続いていた。

 台風も多く、29個も発生し、その内5個が日本を襲ったそうだが、21号の台風の被害が酷かった。箕面公園も倒木のために、折角開通しかかっていた滝道がまた通れなくなってしまい、私の滝への「月参り」も足止めを食らっていた。鞍馬でも、多数の大きな杉が倒れて、鬱蒼としていた山があけすけになり、奥之院から貴船へ抜ける山道も通れなくなっていた。

 近畿だけではなく、岡山や四国などでも、河川の氾濫などで、死者を伴うひどい被害が出た。地球の気候が変わってしまったような感じさえする。この分だと、今年の夏にも、同じような災難を繰り返すような気がしてならない。

 こう言った自然の災害は仕方がないとしても、日本の政治も、昨年は特に酷い一年であった。TVなどで始終出て来る安倍首相の傲慢な顔はもう見たくない。健康に良くない。一昨年だったかに彼が「私や妻が関係していれば、首相も国会議員も辞める」と言ってから、森友学園問題はおかしくなり、今年の初めには、財務省が首相に忖度して、公文書まで書き換えるという考え難いような事実が暴露された。

 当然、国会でも問題にされたが、それに対する責任を誰も取らず、加えて財務次官のセクハラ問題まで出てきたが、それにも関わらず、とうとう財務大臣である麻生大臣が辞めなかったことである。それに倣ってか、官僚は国会にいい加減な資料を出すし、大臣はまともな返答もせず、議案だけは充分な議論もなしに、数の力で強引に可決してしまう有様である。

 昔なら当然責任をとって大臣が止めるなり、法的な処理に回されるべきところなのに、首相はじめ閣僚は誰一人として責任を取ろうとしない。もはや政府は信用出来ないし、議会制民主主義による政治とは言い難いような有様が続いている。このまま進んでこの国は今後はどうなるのであろうか。

 ただ救いは、その政治のしわ寄せがまだ身近までは、強くは及んでいないことである。個人的には、昨年暮れには娘や孫たちがアメリカから来てくれて、皆で揃って家族集合の会をすることが出來たし、大晦日にはバーンスタインのブロードウエイ・ミュージックの演奏会を楽しみ、幸せな年の瀬を越せたことである。

 さて、今年はどんな世の中になるだろうか。残り少ない余生を楽しめるか、国や世間の没落を嘆かなければならないのか。どうなることやら・・・。

 

 

最近の政府は思慮が浅いのでは?

 最近の二つの出来事を見て、政府の行動に何か危険な兆候が読み取れるような気がする。

 一つは韓国の駆逐艦が日本の哨戒艇に火器管制レーダーを照射した件である。これはもう戦闘寸前の行為だとして、早速に外務省の高官を韓国に派遣してまで抗議をしているが、少し高圧的なやり方ではなかろうか。実害があったわけでないし、こういう話は、初めから色々なことに影響する、派手な外交交渉に載せるのではなく、まずは当事者である軍同士で静かに話し合って、解決法を探るのが順当なやり方であろうと思われる。

 いくら危険な行為だと言っても、韓国との関係が、徴用工問題などで微妙な時期に、わざわざ初めから高圧的なやり方で対応するのは、問題の解決どころか、相手を怒らせて問題をこじらせ解決とは反対のことになるであろうことは素人でもわかる。それに事態の本質についても、先ずはもっと詳しく分析してから、行動に移すべきだったであろう。

 元自衛隊の空幕長であったパリパリの右翼の論客である田母神氏が、韓国の駆逐艦のようなやり方は普通に見られるもので、危険ではないと言っているぐらいだから、慌てて抗議しなくても、もう少し慎重に検討してから、行動に移すべきだったのではなかろうか。案の定、韓国側の感情を逆撫でするような結果になっただけで、何も得られるものはなかったようである。

 隣国との平和共存ほど大事な外交はないのに、それをこちらからわざわざ潰しに行ったようなものではないかと思えて仕方がない。もう少し賢明な方法を考えないと、他の場合でも、適切な外交による平和共存路線が難しくなるのではなかろうかと素人ながらに気になる。

 もう一つは、国際捕鯨条約(IWC)からの脱退である。SNS に戦前の国際連盟からの脱退と並べて乗せているのがあったが、国際的な問題であるから、もっと慎重に検討してから判断するのが当然ではなかろうか。

 これまで、国会でIWC脱退が議論になったということを聞いたことがないし、新聞などでも、この問題について色々議論が交わされたという記事が出ていたようなこともない。しかも、今鯨肉を急いで確保しなければならない事情もない。

 日本が商業捕鯨再開を提案したのが受け入れられなかったからといって、急いで撤退する必然性はないであろう。もう少し国内的にも国際的にも議論を重ね、種々な影響をも考慮して判断するべきだったのではなかろうか。何か鯨業界の政治家の影響によって決められた感が強い。関係国に丁寧に説明して理解を求めるというが、それは脱退より前にすべきことではなかったのであろうか。

 このようなな記事を立て続けに見せられると、この国の外交姿勢はいつからこのように傲慢になったのかと不審に思わざるを得ない。あまり強引なやり方が続くと、この国はまた戦前のように国際的に孤立して行く道を歩むことになるのではなかろうか。アメリカについているから安心だとはもう言えない時代が始まっていることにも気を使うべきであろう。

 近隣諸国を始め、世界の国々と平等で平和的な友好関係を築くことが、軍備以上に安全保証上も大事なことである。その道を確保して、将来の日本の安全を考えるならば、このような思慮に欠ける行動を極力慎み、物事をもう少し慎重に考えて行動して欲しいと願うのは私だけではあるまい。

ファシズムへの道

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安倍内閣ファシズム

 先日SNSから拾った図である。安倍内閣の現状とある学者の言うファシズムの徴候との比較である。こう並べて対比させられると、成る程、日本は最早ファシズムへ逆行してしまったのではないかと思わざるを得ない。多言は無用である。

 毎日の新聞やテレビなどを見ていても、まるで戦前に戻ったかのように、どんどんと民主主義が壊されて、ファシズムが公然と頭をもたげて来ている現実を見せつけられる。沖縄の辺野古米軍基地建設を見ても明らかである。

 民意があまりにも明らかで、安倍首相も「民意に寄り添って」と言わざるを得ないのに、埋め立て工事を強引に進めて、「民意を寄り倒そう」としている。あまりにもひどい。この先、民主主義を失ったこの国はどうなって行くのであろうか。このままでは再び破滅に向かって突き進む恐れが強い。

 同じ独裁国家でも先の大日本帝国と決定的に違うのは、独立国であった昔と、アメリカの従属国家である現在の違いがある。従属国家のファシズム宗主国の意向に従わざるを得ないから、主体性なきファシズムにならざるを得ない。宗主國の都合で、いつ突き離されないとも限らない。その結果がどういう結果を招くであろうか。もっと慎重に考えて欲しいものである。恐ろしい結果が待っているような気がしてならない。

 

トゥーヌイービヤ、ユヌタケヤアラン

 沖縄県知事になった玉城デニー氏が当選演説の時に言った言葉だそうである。昔からの沖縄での言い伝えのようなものらしいが、「十本の指は同じ長さではない」と言う意味で、知事はこの言葉を引用して、個々の人間が尊重される社会を目指すことを語ったそうである。

 沖縄では度重なる選挙による民意さえ無視されて、政府による辺野古基地建設が強引に進められているが、本土に住む住民にとっては、沖縄は遠く離れた僻地であり、今ひとつ理解が足りない。どうしても他人事になりやすく、SNSなどには基地反対の住民運動に対しての中傷さえ見られる。

 沖縄は先の大戦で、本土決戦を先延ばしするための犠牲となって、国内では唯一の米軍が蹂躙する戦場となり、住民の四人に一人が死ぬと言う過酷な経験をさせられた上、米軍の占領によって無理やり土地を奪われ、膨大な米軍基地が作られたのである。

 しかも、戦後も引き続き長期にわたって占領が続き、その後も本土の基地問題を軽減する為もあって、殆どの米軍基地が沖縄に集中させられ、今日に至るまで際限もなく、未だに米軍の事故や事件で悩ませられ続けているのである。

 沖縄は外国ではない。同じ日本の国内であり、そこに住む住民も同じ日本人である。本土の人と同じように、それぞれの家族があり、毎日の生活があるのである。本州や九州、四国の人たちとなんら変わらない。

 「トゥーヌイービヤ、ユヌタケヤアラン」と言われる如く、住んでいる所が少し違い、気候風土や生活の仕方、考え方などの違いがあるにしても、本土同様に色々な人が住んでおり、同じ同胞として共に喜び、共に悲しみながら、共に生きていく運命にある。

 沖縄で起こっていることは、明日にでも本土でも起こり得ることなのである。決して他人事ではない。一人でも多くの人に沖縄のことを自分のこととして感じて欲しい。

 出来れば沖縄に行って、レジャー施設だけでなく、米軍基地の現状や、沖縄の人々の暮らしを見て、沖縄の人たちの悲しみを知り、沖縄の人たちと一緒に、我が事として基地の問題も考えて欲しいと切望するものである。

 

変化した電車の中の風景

 最近電車に乗っている時に、同じ電車の中の風景も、昔とは随分変わったなあと思わせることが多い。

 社会の少子高齢化の影響なのであろう、老人が多くなり、手押し車を押している人や、杖をついている人も普通に見られるようになった。外国人、それも東洋系の人たちも日常的な存在といっても良い。外見だけでわかる外国人もいるが、言葉を聞いて初めて判る外国人も多い。外国人の乗っていない車両はないと言っても良いぐらいである。

 それに、若い人の 背が高くなり、体格が良くなったのにも驚かされる。日本人は背が低いものだと思っていたが、最近では欧米人に勝るとも劣らないような人がいくらでもいる。それもそういう人もいるというより、むしろ、そんな人ばかりで、私のように小さい者が少なくなってきた感じさえする。以前にも書いたが、電車のドアに頭がつかえるような人も稀ではない。

 女性も同様で、昔、憧れとされた八頭身の女性も、今では当たり前の存在で、化粧も昔と違って上手くなったし、鼻まで高くなり、モデルのような女性が何処ででも見られるようになった。私より背の高い女性も多いどころか、女性でも、電車のドアに頭がつかえるような人までいる。

 都会の朝夕のラッシュアワー少子高齢化の影響か、以前のように超満員で、押し合いへし合いで、本も読めないというようなことは少なくなり、逆に老人層が多くなって、ラッシュを過ぎた時間帯での乗客は昔より増えたのか、ラッシュ時との極端な差が少なくなったのかなとも思う。

 昔は見られなかった乗客層で最近目につくのは、65歳から75歳ぐらいの前期高齢者の4−5人の男ばかりのグループである。定年を過ぎても、まだ元気なので、昔の友人と連れ出って、あちこち行こうという人たちである。この手の人たちは、仕事のストレスから解放され、体力はまだあるし、友人もいる。まだ金も時間もある。こういう人達の目を見ると皆輝いている。現役時代の、仕事に疲れ切って居眠りしがちなサラリーマンの眼とは明らかに違っている。

 乗客の服装も、いつの間にか随分変わってしまった。高度成長期の頃の日本の電車では、ネクタイを締め黒っぽいスーツを着たサラリーマンにあふれ、学生も黒い制服姿が殆どであり、その頃訪ねてきたドイツ人が日本には色がないと言っていたのを覚えているが、今ではサラリーマンの服装も変わってしまった。

 おそらく夏のクールビスなどの影響ではないかと思うのだが、最近はネクタイが減った。秋や冬になっても、スーツを着ていても、ネクタイをしていない人が多くなった。それに、スーツを着ていないカジュアルな格好で、仕事に行く人も増えたような気がする。今時、スーツを着てネクタイをきちんと結んでいるのは、営業マンと管理職ぐらいのようである。

 履き物も、昔は皮靴が優位を占めていたが、今ではズックの占める割合が多くなり、背広姿でさえ、靴がズックの人なども見かける。持ち物のカバンも同様で、革の鞄が減り、ズックのものが多くなった。また昔は珍しかったが、阪神大震災以後流行り、それがそのまま定着したのか、最近はリュックサックを背負った人がやたら多くなっている。大きなリュックは混んだ車内では邪魔になるので、車内放送で「リュックは前にかけて他のお客様の邪魔にならないように」という放送まで流れている。

 外観や持ち物だけでなく、車内での人々の仕草や行動も、昔と今では随分違っている。昔は夕方の電車の網棚は夕刊紙にあふれていたもので、電車に乗るなりそれを取って、また読む人も多かった。競馬や競輪の予想に熱中している人もいたし、その横では週刊誌のエロ写真を見ている人もいたものである。

 ところが今では、網棚は時に大きな荷物が乗せられているが、昔と違って、あまり使われていないようで空っぽのことが多い。戦後間もない頃に、人が網棚の上に寝ていた風景など、今では想像もつかないことであろう。

 昔は新聞と電車は切っても切れない関係で、朝の混んだ通勤列車内でも、その日の朝刊でビッグニュースを確かめる人も多く、あらかじめ半分に折り畳んだ新聞を、満員の車内で器用に扱って読んでいる人も多かったし、つり革に掴まり人に押されながらも、必死に?本を読んでいる人も少なくなかった。

 ところが最近はどうだろう。電車に乗れば殆どの人がスマホを見ていると言っても良い。夕方の電車で確かめて見ると、老若男女色々いても、皆がスマホを眺めているか、眠っているかと行っても良いぐらいである。本を読んでいる人は、時に見かける程度である。

 ひと頃のように、マンガ本や週刊誌を見ている人もいない。スマホで一体何を見ているのか、こっそり覗いてみると、一番多いのはゲームのようである。いい歳をした人までゲームに熱中している。こんなに一億総ゲームをしていて大丈夫なのかなと密かに心配になることもある。

 そのほか昔はなかったことで今見られる人々の車内での行動としては、車内での飲食と女性の化粧であろう。飲食から言えば、昔は携帯できる水分といえば、水筒か大きな魔法瓶ぐらいしかなかった。当然電車の中で飲む機会も少なかったであろうし、日本人の作法からも電車の中で水を飲んだり、物を食べたりすることは憚られた。

 しかし、最近では水はボトルで何処でもすぐに手に入るし、缶入りやパックの飲料も多い。日本人の作法も昔とは変わり、人前でも公然と飲んでも良いことになっている。この頃のように酷暑が続くと、水分補給が奨められる。社内でも、カバンの中からボトルを出して、水を飲んでいる姿も普通の景色になっている。

 それでも、私などには、車内での水分補給ぐらいは良いとしても、混んだ通勤電車内での食事となると少し抵抗があるが、最近では車内でコンビニで買ったパンやおにぎりなどを食べている人も結構多い。移動の間に食事を済ませて、生活の効率化を図っているのかも知れないが、食事ぐらい何処かでゆっくり食べるようにしてはどうかと言いたくなる。

 車内でのお化粧も同様で、時間の節約にはなるかも知れないが、昔は人前でお化粧するのは娼婦と決まっていた記憶からもお勧め出来ない。ただし、かって混んだ電車の中で、私の座っているすぐ前に立った女性が、次から次へと化粧道具をバッグから出したり入れたりしながら、揺れる電車の中で器用にお化粧していたのを見た時には、ただただその器用さに見とれるより他なかったことを思い出す。

 こうして見てみると、同じように電車が走り、同じように多くの人が乗り降りしながら、毎日同じような日常生活が流れていっているが、その内容はいつしか知らないうちに随分変わっていってしまっていることに気付かされる。こうしてこちらも歳をとっていくのであろう。

 

 

 

 

専門分化した医療の落とし穴

 最近どこかの大病院で、心筋梗塞か何かで入院してCT検査を受けた患者が、たまたま検査で腎臓だったかにガンが見つかったが、本人に知らされず手遅れになったという話が新聞に載っていた。

 詳しい実際は判らないが、現在のように医療の専門分化が進み、専門に特化した病院の主治医が、効率化を目指した多忙な医療環境にあると、このようなことも起こりうるのではなかろうか思われた。

 恐らく主治医は目の前の仕事に忙しく、関心はその時の主目的である心筋梗塞ならその治療に頭いっぱいで集中しており、直接その時の治療に関係しない偶発的な事象は認識しても、その時点では医師にも患者にも関心は二の次で、当然それらは後で処理されることになる。

 ところが、そこに多忙な環境が続き、次々と新たな患者の治療に当たらねばならなくなると、過ぎ去った症例のたまたま遭遇した副次的な所見などは、つい忘却の彼方に押しやられてしまうことになり易い。高度に専門化された病院などでは、このような過誤が起こりやすいであろうことは十分想像出来る。

 恐らくこれは個人の不注意といったことで解決できる問題ではなく、システムとして落ち度のないように、自動的にでも患者に伝えられるようにされるるべきものであろう。専門分化した病院では、他にも同じようなことが起こりやすいのではなかろうか。

  私は 4年ほど前に、心筋梗塞になり、救急で循環器病センターに入院したことがあるが、その時の経験はこうだ。救急車で病院に到着すると、後はもう説明も殆どなく、こちらの意思を聞くでもなく、まるで機械的にレールに乗せられたようにストレッチャーに乗せられたまま運ばれて、ステントを入れられた。流石に専門的な大病院で、何の間違いもなく、効率的に治療されたわけだが、何か人間的に扱われたというより、機械的な流れ作業に乗せられたような感じがしたことを覚えている。

 こんな環境下では、たまたま何処かに異常が疑われる軽い異常があったとしても、循環器に関係の薄いものであれば、見逃されたり、無視されることもありうるような気がする。

 どうしても高度で分化した医療を行おうとすると、技術的なことが先行するので、「人間」よりも「人体」が先行するので、治療する医療者側の「人体」と、治療を受ける側の「人間」との乖離が起こり勝ちなことが避けられないのではなかろうか。

 最近は外来などでも、病院では専門分化しているので、心臓が悪くて循環器科にかかっていて、肝臓に何か問題があれば、患者が尋ねても、肝臓の専門医に回されるだけである。あちこちに問題があれば、問題の数だけの科に回されて、どこでも全体としての話を聞いて貰えないことにもなりかねない。

 そういった専門化した医療と、部分の集まりではない「人体」もバラバラにされやすいが、更には病悩を負う「人間」との齟齬も時に見られ、それが医療訴訟などを頂点とする、医療の落とし穴となっているような気がする。

 なお、それとは逆に、老人の医療費が問題となり、老人医療などのあり方が問題になって来ているが、今度は個々にの病変が軽視されて、老人としての「人体」だけが目標にされ勝ちになるかも知れないが、部分があっての「人体」であり「人間」であることの認識も忘れられてはならないであろう。

 

 

 

 

 

”最後の”家族集合

 娘たちが二人ともアメリカ人と結婚して、アメリカにに移住してしまい、3人の孫もアメリカ人で、日本にいるのは女房と私だけという家族では、始終、顔を合わせたり、話をするわけにはいかないが、太平洋を渡っての行ったり来たりで、毎年一度や二度は会ってきたので、さして寂しく思ったことはない。

 昔は船で行くには速くても十日以上はかかったし、電話をかけても、雑音ばかりで「ザーザー、もしもし、聞こえますか、聞こえますか、ザーザー」と言った調子で大変だったが、今は便利になったものである。

 手紙や電話などしなくても、SNSなどで簡単につながるので、必要な連絡に困ることはない。それでも、会って話をするようなわけにはいかず、やっぱり実際に家族が会って話し合いたいものである。もし皆が一緒になる機会があれば、この上ない楽しみとなるのは当然である。

 しかし、この歳になると、こちらから出向くのは、次第に億劫になってきた。昔なら、少々時間がかかっても気にならずに、ヨーロッパでもアメリカでも平気で出かけたものだったが、今では飛行機で行くにしても、10時間もかかることを想像すると、つい二の足を踏み勝ちになる。どうしても、向こうから来てくれるのを待つようになる。

 ところが、孫たちが成長し一人前になって、仕事をするようになると、それぞれの日程がそのためにも決まるので、皆が一斉に揃って集まることが、次第に困難になってくる。

 そんな事情の中で、今回は誰がうまく調整してくれたのか知らないが、運良く皆が揃って日本へ帰って来てくれたので、家族全員が揃ってお祝いをすることが出来た。久し振りで、短時日とは言え、幸せな時を過ごすことが出来たことを感謝している。

 孫たちも、東京や大阪、京都などは既に知っているし、今後も訪れることがあるであろうが、消えゆく日本の古い町並みや民家を一度見せてやりたいと思っていたので、一番近場で、兵庫県の古い城下町、篠山へ行き、古い民家をリノベートした変則的なホテルに泊まって家族集合をすることにした。

 それぞれの予定で、全員集合出来たのは一夜しかなかったが、古い町並みを歩き、お城を見て、伝統的な栗や黒豆などを味わい、書道展を見たりして、夜は日本風にアレンジしたフランス料理とワインで共にゆっくりとした時間を楽しむことが出来た。英語と日本語のチャンポンの会話で、皆揃って心から和風の古民家の夜を楽しんだ。

 自分の歳を考えれば、もう次の家族の全員集合は無理であろう。これが最後となるであろう。娘はまた来年も来るからと言ってくれたが、孫たちでさえ、それぞれの仕事や用事があったりして、恐らく全員が揃う日を決めることは難しくなるであろう。

 現に、今回でも、翌日にはもう一組は帰途、途中で別れて関空へ向かったし、孫のカップルはその翌日伊丹から去って行った。いつまでも子供のように思っていた孫たちも、離れているだけに、余計に速く大人になってしまった感じがして、嬉しいやら、ちょっぴり寂しい気がする。もうそれぞれに一人前の大人として働いているようである。

 日程を無理に合わせてくれたのであろうが、恐らく最後になるであろう全員集合が出来たことは何よりの幸せであった。個別に会うことはこちらが元気な限りまたあるであろうが、皆が一斉に揃うことは、可能性から言ってまず考え難い。会えなくても、それぞれに違った道で、元気に幸せに生きて行ってくれたらそれで良いと考えている。