小学校の教育勅語

 

 この民主主義の世の中に、天皇から臣下の国民に下賜された教育勅語を、また学校教育に取り入れようなどとする政府や日本会議などの右翼勢力の動きが次第に強くなっているように感じられる。例の森本学園の幼稚園で、園児に教育勅語を暗記させていたり、現職の大臣が教育勅語の精神は今でも教育に取り入れても良いところがあると言ったりして、問題になったこの頃である。

 戦前まだ子供だったの頃の小学校における教育勅語は、私にとってどんな存在だったのであろうか。その頃のことを思い出してみたい。

 当時の小学校では二宮金次郎の像と、教育勅語を保管する奉安殿の二つは必須のものであった。金次郎の像は貧しくても勉学に勤しめという象徴であり、 奉安殿の方は教育勅語を保管しておく場所で、両方とも大抵は誰でもが通る校門を入ったすぐの所にあり、その前を通る時にはお辞儀をするように言われていた。

 教育勅語は”恐れ多くも”天皇陛下からご下賜された有り難いものなので、学校としては命を張ってでも守らなければならない物であった。本体は巻物に書かれており、それを桐の箱に収めて収納してあった。従って、奉安殿は大抵は火事があっても燃えないコンクリート製の祠のような構造に作られており、もちろん鍵がかけられ、厳重に保管されていた。

 当然、教育勅語の取り扱いについても、この上なく慎重にしなければならず、祭日などで勅語の”奉読”をする時には、礼服を着て白手袋をはめた校長が二、三の教師を引き連れて奉安殿に向かい、最敬礼をしてから扉を開き、恭しく勅語の入った桐の箱を取り出し、それを三宝の上に乗せて、列を組んでゆっくりと慎重に講堂の演壇まで運ばなければならなかった。

 そして、式典でそれを実際に”奉読”するにも、一定の儀式が必要であった。小学校などでは、実際の式典で間違いがあってな大変なので、前日に生徒たちを全員講堂に集め、教頭が予行演習をするのが普通であった。教頭が勅語を読むような格好をして「朕惟うに」といえば生徒たちは一斉に最敬礼で頭を下げなければならない。「そこの子頭が高い」「もっと頭を下げて」などという声が飛ぶ。

 最敬礼が住んでも勅語の朗読中は頭を下げて”拝聴”しなければならないことになっていた。ただし、予行演習の時には内容は飛ばして次に「御名御璽、最敬礼」と教頭が言う。ここで皆がもう一度最敬礼をしなければならない。「最敬礼終わり」の声がかかると皆が一斉に頭を上げて、くしゃみや咳をしたり、鼻をすすったりしたものであった。 

 当時は冬でも多くの学校では暖房などなく、あかぎれ霜焼けのある子供が普通で、黄色い鼻を垂らしたり、それを啜ってまた鼻腔の中へ引き込めたりする子も多く、その水鼻を袖口で拭くものだから袖口がテカテカ光っている制服の子も多かった。

 本番の式典の時には、上に書いたように恭しく運ばれて演壇の机に置かれた勅語を読む段になると、校長はまず教育勅語に向かって頭を下げ、次いで白手袋の手で桐の箱をそっと開いて、蓋を身に沿わせてそっと置く。次いで、両手でそっと勅語の巻物を取り出し、両手で捧げ持ち、そこでもう一度頭を下げてから、巻物の紐を解き、紐の端を巻物の上端にかけて、ぶら下がらないようにしてから、おもむろに両手で上手に少しずつ巻物を開いていく。

 ここは少し技術のいるところで、左手で巻物の心棒を保持しつつ、右手で巻物を少しずつ引き出すようにくるくると開いていくのである。途中で落としたりすれば大事である。ゆっくり注意深く開き、開き終わると巻物を両手を拡げて保持し、それを捧げ持ち上げてもう一度礼をし、そこから恭しく「朕惟うに・・・」と始まるのである。聴衆は皆一斉に頭を下げて聞くことになる。

 教育勅語は文語体で書かれており、内容も子供にとっては難しい。その頃は訳も分からずむやみに暗記させられたが、不思議なことにその詳しい内容についての噛み砕いた説明を聞いた覚えがない。そのため御名御璽というのは終わりのサインとして認識していただけで、それが裕仁という名前と印鑑だったということなどはずっと後になってから初めて知ったものであった。

 教育勅語などは頭を下げて聞かねばならなかったが、結構長いので退屈し、時にこっそり見つからないように少し頭を上げて校長の様子を見たり、横を向いて隣の生徒を見たりしたが、静かな中での私語は出来なかった。

 御名御璽になるとやれやれと思って最敬礼をし、終わって頭を挙げると、予行演習の時と同じように咳や鼻すすりの共演である。それが終わると一斉に私語が始まる。そんな中で「天皇陛下は朕惟うにというが、皇后陛下だったらどういうか知ってるか」などと言ったりしたことを覚えている。

 今でも不思議に思うのは、先にも書いたが、折角の内容なのに、子供には難し過ぎるからというので詳しい内容の解説がなかったのであろうか。「君に忠に、親に孝、朋友相和し」ぐらいは解っても、後の内容にはあまり関心もなかった。

 当時は何でも暗記させるのが一番という教育方針であったのであろうか。「神武、綏靖、安寧、威徳・・・」と言った皇統は暗記させるよりなかったのであろうが、五箇条の御誓文や戦陣訓など、何でも、意味がわからなくても暗記させたのは、説明してもわからないから、暗記させておけば、時が来ればわかるであろうとでも考えられられていたのであろうか。ひょっとしたら仏教でお経を丸暗記していた習慣に繋がっていたのであろうか。

 当時の子供達にとっては、暗記させられて、何か大事な天皇陛下のお言葉だという認識はしたものの、それが日々の生活で守るべき教育指針だというようなことは子供にはわかっていなかったように思われる。

 勅語を復活させようとする人も、今の時代にまた昔のように教育勅語を丸暗記させたところで、内容が受け入れられるわけはなく、単に権威の頭からの押し付けになるだけであろう。あのような時代が再び来ないことを願うばかりである。

 

 

 

 

富士はやはり神々しい

 富士山は東京へ行く時などに何度も車窓から見ているし、昔河口湖や山中湖から眺めたこともある。また甲府から赤富士を見たこともある。昨年の暮れには、孫の来日時に、一緒に箱根に行き、大湧谷から素晴らしい富士山を眺めもした。

 しかし、本栖湖精進湖へは行ったことがなかったので、西側からの富士山の姿は知らない。そんなこともあって、富士五湖周遊のツアーの旅行社のパンフレットを見たので、それを利用して富士山をぐるりと回って見物してきた。

 昔から「富士は見るもの、登るものではない」と言われてきたが、今回は富士の裾野を一周することとなり、四方から富士山の違った姿を眺めてきた。一泊二日の旅程だったが、二日とも快晴に恵まれ、丁度富士山の冠雪の具合も良く、最高の富士見物であったと言えよう。

 大阪を朝に出て東名高速を走り、まず初めは、久能山日本平に新しくできた展望台からの眺めであった。快晴の秋晴れで、富士山もよく見えたが、ここからの富士山はよく見慣れたもので、富士山ばかりでなく、清水港や美保の松原、駿河湾から伊豆半島までの眺望が素晴らしい。静岡の市街地も良く見晴らせた。

 そこから富士山を時計方向に巡って一周したわけだが、まずは朝霧公園あたりから、いつもとは少し違った富士の西面の眺望を楽しみながら、本栖湖に到った。朝に大阪を出ているので、その頃にはもう午後四時頃となり、ここで撮ったと言われる千円札の富士山の姿も、少し影が差し、落ち着いた姿をたたえていた。水面に少しさざ波が立っていて富士の投影像が見れなかったのが残念であったが、湖畔の紅葉との組み合わせも良く、結構満足のいく光景であった。

 そこから精進湖の近くを通り、西湖の北岸を抜け、河口湖に着いた頃には、もうあたりはとっぷりと暮れ、富士も夜の帳に包まれて見えなかった。ここでは、「もみじ回廊」と称する紅葉のライトアップのあたりを散策したが、ちゃちな公園で、ライトアップの仕方も悪いのに、外国からの観光客ばかり多く、暗くて危険で、時間のロスのように感じた。

 その晩はそこから少し北上して、石和温泉のホテルに泊まった。安いツアーだったので仕方がないが、夕飯も今ひとつだったし、やたらと大きな陶器や木製の置物が多く置かれているホテルだったが、和洋折衷の作りで、部屋の中に段差のある、何だか落ち着かない時代遅れの感じのするホテルであった。

 二日目は、朝から笛吹市の水晶店を見学させられた後、富士急の下吉田駅に行き、そこでバスを降りて、近くの新倉山の350段の階段を伸ぼり、戦没者慰霊塔の五重の塔の上あたりから富士山を眺めて写真を撮った。こんな所にまで大勢の外国からのツアー客でいっぱいなのに驚かされたが、今時はインターネットなどの影響が強いのであろうか。

 五重塔を入れた富士山の写真を撮り、景色を堪能して山を下り、下吉田駅まで戻り、そこからまたバスに乗って、今度は忍野八海という所へ行った。富士山の伏流水の湧き出た小さな池がいくつもある所で、昔は霊場のような場所だったらしいが、今では俗化して、大勢の客に溢れる観光地になっている。池に映る富士山なども見られたが、食堂やお土産店が人で溢れているだけの感じの所であった。

 ここで少しゆっくりして昼食を済ませてから、今度は最後のスポットの山中湖畔に行って、再び大きな湖を背景に雄大な富士山を見た。ここからの富士は遮るものがないのでゆっくりと富士の全貌を眺めることができた。

 山中湖を去ってからは、山道をドライブして御殿場に抜けたのだが、曲がり曲がった道を走る間に富士は右へ行ったり左へ行ったり、前かと思えば後ろに行ったりした挙句に、後方に聳えた姿を最後のバスがトンネルに入ってお別れとなった。

 二日間、晴天に恵まれたこともあり、充分に富士を堪能させて貰ったが、やはり富士山は他の山とは違うことを痛感させられた。多くの山々を従え、一人孤高に聳え立っている富士山は、日中晴天の下ではスマートで優雅に見えるが、少しばかり日が陰った姿を近くで見ると、俄然、他の山を圧倒して、高々と崇高に聳え、神々しとでも言いたくなる姿である。昔から神がかりに感じられた所以が理解できる。

 やはり富士は神々しく、人々の心の故郷として信仰の対象になったことが理解できる。

”陸自砲弾それて車に被害”を聞いて沖縄を思う

 11月15日の新聞にこんな記事が出ていた。滋賀県高島市陸上自衛隊の演習場で、射撃訓練中に発射した81ミリ迫撃砲の弾がそれて、国道脇に着弾し、アスファルトなどの破片が演習場外に停車していた乗用車に当たり、後部座席の窓ガラスと窓枠が割れたということである。弾は実弾だったが幸いけが人は出なかったという。

 訓練では弾がそれても演習場内に収まるよう、目標区域の外側に安全区域を設定しているが、こういうことが起こりうるのである。陸上自衛隊はこの81ミリ迫撃砲は当分、全国的に使用を見合わせるそうである。

 実弾の演習であるから、不慮の事故が起こらないように最大限に配慮をすることが基本であり、当分迫撃砲の使用を見合わせ原因究明や再発防止策をとるのは当然であるが、どんな仕事にしても事故はありうるものと考えるべきであろう。

 事故のあった場所は、私も近江今津から小浜へ行く時に通った所で、その時は自衛隊の演習場が近くにあることなど全く知らなかったが、米軍や自衛隊の施設があちこちのあるので、今後も何時何処で危険にさらされる恐れがあることも知っておくべきであろう。

 それでも、これが自衛隊の仕業でまだ良かったが、米軍の演習の事故であれば、被害があっても日本人はオフリミットで、事故現場は米軍によって管理され、日本人は警官であろうと入れないのが普通である。

 事故の補償も米軍と日本政府の話し合いになるので簡単には行かないし、米軍は責任を取らず、日本政府が賠償金の肩代わりをすることになるであろう。人的損害があっても、日本政府が肩代わりして支払うことになると思われる。損害の性質によっては、泣き寝入りさせられることもありうるであろう。

 自衛隊であろうとこのような事故は絶対避けるべきで、事故の原因の解明や再発防止の手段が取られなければならないのは当然であるが、こういう事故があっても、日本の自衛隊であるから事故を起こした迫撃砲は当分使用禁止になるものの、沖縄では米軍は事故を起こしたからといって、使用禁止になることはないだろうし、事故の調査のための立ち入り検査も認めるとは限らない。

 沖縄では、米軍家族の住む地域では、アメリカの法律に従い低空飛行などの制限が行われているが、それ以外の日本人の住む場所では低空飛行も日常のことで、幼稚園への落下物に対する抗議の後も、平気で上空飛行を行っている実績がある。

 日本政府は沖縄に米軍基地を集中させ、本土の負担を軽減して国民の目をごまかし、沖縄と本土の分断を続けているが、日米地位協定などの法的には、本土も沖縄も変わりはないわけで、日本国中どこでも同じようなことが起こる可能性があることを知るとともに、長期間にわたって苦しめられている沖縄の人々の苦痛も決して他人事ではないことを認識すべきであろう。

 これを機会に、この事故を放置せず、沖縄との連帯を深める機会とし、共に戦争に反対し、日米地位協定の改定を求め、本土でも沖縄でも人々が戦争のための兵器の事故などに脅かされることがなく、安心して暮らせる国にするよう声を上げよう。

年寄りはいつまでガン検診を受けた方が良いか

 若い時には癌が生じても、出来るだけ早期に発見すれば、早期胃がんのように完治可能なこともあるし、完治出来なくても治療により命を長らえ、家族に対しても、社会に対してもある程度責任を果たすことが出来、その人の人生を少しでも豊かにすることが可能なので、出来るだけ健康診断やがん検診は受けるべきだと思う。

  しかし、年寄りの場合は少し事情が違うのではなかろうか。人は必ずいつかは死ぬものである。今では癌で死ぬ人が一番多い。もう仕事の第一線から退いて年金生活を送っているような人にとっては、最早家族や社会に対してもいつまでも貢献しなければならない義務も少ない。

 いつまで生きるかは天の定めに従うよりない。遅かれ早かれ必ずいつかはお迎えがやって来る。それまでどう生きるか、いつまで生きたいか、どのように死にたいかなどは人によって異なるであろう。しかし、私はここまで生きれば、あとは天に任せてジタバタしようとは思わない。ある時死の病がやってきたら、ひどい苦しみは御免被りたいが、大きな流れに逆らわず、運に任せて素直に従いたいと思う。

 この歳になって命にしがみついて闘病するなど見苦しい。そう思って、男の平均年齢の80歳を超えてからは定期検診などは受けないようにして来た。早期に癌が発見されたとしても簡単に完治するようなものであれば良いが、そうでなければ苦しみを長引かせるだけになる。放置していて極端に悪くなってから判った方が死ぬまでの苦しみの時間が短いことも計算に入れるべきであろう。

 最早九十歳も越えれば、例え何らかの病を背負い込んだとしても、治って、また快適に暮らせるのでなければ手術など、大げさなことは避けた方が賢明であろう。年寄りの場合には、ガンでも発育が悪いことが多いので、手術はうまく行ったが、安静が続いたために全身が衰えたりして、手術しなかった方が長生き出来たのではないかと思われる例もある。そうでなくても、手術後に、どこかの機能不全に陥入ったり、寝たきりや、それに近い状態になってしまうといったことも多くなるものである。

 それより、癌の存在を知らなかったとしても、知らずにそのまま死に向かった方が幸せではなかろうか。知ることがいつも良いとは限らない。一度しかない人生の最期はやはり大事にしたい。長さではなく内容である。そのためには要らない雑音を入れないで、行ける所までは、楽しく暮らしたいものである。

 知らぬが仏で機嫌良く暮らして来た老人が、わざわざ検診を受けに行って治らない癌を発見され、不安に苛まれ、抗がん剤の副作用で日々の生活に支障をきたすなど、余命をいくらか延ばすことが出来たとしても、それが果たしてその人の人生にとってプラスなのかマイナスなのか考えさせられるところではなかろうか。

 ただ、こういう希望は人により異なるので、老人医療費の高騰で苦しむ為政者にこれ幸いと利用されて、”無用な”老人医療費の削減策に利用されがちなことにはくれぐれも注意しておくべきであろう。老人の生き方、死に方は人によって希望も、実際も随分違うものだから、上に書いたような私の思いを他人に強制しようという気はサラサラない。 

 ただ、私自身は年とともに嫌でも衰えていく体を労わりながら、その上に知らなかった憂いの種をわざわざ背負い込むような真似はしたくないと思うだけである。

ズボラのすすめ

 過重労働や過労死が問題になって久しいが、この問題は一向に解決に向かわない。逆に、採量労働制などという資本主義の黎明期に流行った労働の請負制のようなものが拡がりそうで、過重労働の問題は余計に悪化しそうな気配さえある。

 果たしてそれだけ働かないと人類はこの競争社会の世界では生きていけないのであろうか。科学技術が発達して来て、物事の生産性が上がれば、単純に考えれば、同じ時間に従来よりも短時間で同じ成果が得られるのだから、その分、楽をして遊んでいられることになるはずである。

 例えば米作の農業を見てみよう。昔はせいぜい牛や馬を使うぐらいで、あとは全て人力で畑を耕し、苗を植え、水をやり、除草し、穫り入れをするなどと、一年中、朝から晩まで汗水流して働いていてやっと成り立っていたのが、今では土日だけ、耕運機などを使って働けば、それだけで稲作が成り立つようになったわけである。

 後の日は遊んでいても、昔並みの生活なら出来るはずである。もちろん現在の生活にはそれよりはるかに必要なものを手に入れなければならないが、全ての生産が昔とは比べ物にならないぐらい効率よく大掛かりに作れるようになっているので、今の生産力と人々の暮らしの需要を比べてみると、そんなに無理に働かなくとも人々の暮らしは十分出来るはずである。世のIT化が進めば益々働く人手は減らせることになるであろう。

 あとは分配の問題があるだけである。これが最大の問題であるが、政治でそれをうまく捌くことが出来れば、今では人は過労になるほど働かなくとも、皆が十分食って生きて行けるはずである。そう考えれば、過重労働で過労死するほど馬鹿げたことはない。もっと人生を大事にすべきである。

 先日、新聞にアリの話が載っていた。働き者のイメージが強いアリの世界でも、あまり働かないアリがいて、集団の中から働き者を取り除くと「怠け者」が働くようになり、一方で「怠け者」を除いても新たな「怠け者」が出てくる。広くそう言われているが、それを確かめた人がいて、やっぱりその通りだったそうだ。

 なかなか仕事をしないアリもいる多様な集団の方が、効率は落ちても存続には有利なのだろう。余力のあることが大事で、生物は他の生物や資源との関係を壊さないように、進化してきたのではないだろうかということだった。

 人の世界も、生産性がこれだけ上がれば、利巧に分配しさえすれば、働かない者がいても十分やっていけるはずである。働き過ぎる者ばかりの世界では未来は閉ざされるのではないだろうか。良いものも悪いものも、よく働くものも働かないものもいて、一杯多様性がある世界が良い社会で、人類が栄える道ではなかろうか。

 働くことも大事であるが、ズボラをしてゆっくり休むことも大事にすべきであろう。

アリに負けないぐらいの「怠け者」を養うゆとりは十分あるのではなかろうか。ごく一部に過ぎない者が利益を独占せず、軍備費などに無駄な支払いをしなければ、皆が少しだけ働いて後は自分の好きなようにしていても世の中は回るはずであろう。

 勿論、そう簡単にはいかないことは解っているが、人類の選択の如何で、分配の問題をクリア出来れば、決して不可能ではないとも言えるのではなかろうか。

 

 

 

戦争体験を語った人、語らなかった人

 戦後70年以上も経てば、もう実際に戦争に行っていた人は殆どいなくなってしまって、戦争の話を聞く機会も減ってしまったこの頃である。日常の会話に先の大戦や戦後の話が出てくることも少なくなってきた。

 しかし今だに親や親族が犠牲になった思いを抱えている人は多い。先日もある人と話をしていたら、その父親がガダルカナルの生き残りだということがわかったが、その人は「父は戦争のことは死ぬまで全く話さなかった」と言っていた。

 それで思い出した。私の若い頃には戦争帰りの先輩が沢山いたので、その人達から嫌という程戦争の話を聞かされたものであった、その中に戦争に行っていたのに、戦争については全く話そうとしなかった一群の人たちのいたことである。

 私が子供の頃には、日本が宣戦布告もしないで中国へ攻めていった、「支那事変」(日中戦争)から帰った兵隊たちが、子供にまで自慢話を聞かせたもので、そのお陰で私が最初に覚えた中国語が「姑娘、来来」であったことが戦争の性格を表している。

 ただしここでは、そのような戦時中の話は別として、戦後に医者になってからも、当時はまだ先輩にあたる医師で、軍医として戦争に行っていた医師が多かったので、何かにつけて戦場などでの体験談を聞かされたものであった。

 その多くは自慢話で、当時の私たちは何となく戦争に対する贖罪感を持っていたので、そんなことには御構い無しに喋る戦争の話にいささか辟易させられたものであった。

 しかし話している方からすれば、戦争体験はその人にとっては、それまでの人生の中での全く非日常的な特殊な経験なので、幸運にも生還したからには、自分の体験を自分の中だけに秘めて置けず、他人に話して共感して貰いたくて仕方がないのである。その気持ちも判るので我慢して聞き役を引き受けざるを得ないことが多かった。

 軍医でいっていた人が多いので、直接先頭に関わったというより、もちろん危険は伴なったであろうが、比較的安全な後方勤務などが多かったこともあり、それらの先輩たちにとっては、戦争の残虐さや非人間性をそれほど感じずに済んだ人も多かっただろうから、余計に忘れられない思い出になっていたのかも知れない。

 しかし、当時でも、同じように戦争体験がありながら、上述のこの間会った人のお父さんのように、自分の戦争体験を全く話そうとしない人たちがいることにも気がついていた。ガダルカナルの生き残りのように、実際に最前線で戦い、生死の分かれ道を経験したような人や、戦争に伴う残虐行為などに関与せざるを得なかった人、シベリヤに抑留されて過酷な生活を強いられた人などは、口を閉ざして決して自分の過去に触れようとしなかったのが特徴的であった。

 同じ戦争体験者でも、こうも違うものかと当時から両者の対比があまりにも際立っていることが気になっていたことを思い出した次第であった。

 

対馬・壱岐巡り

 以前から一度機会があったら対馬に行ってみたいと思っていたが、自分でわざわざ計画を練り、前調べをしてまで行く程でもないので、便利なツアーでもあればそれに乗っかって行くのがよかろうと考えていた。

 しかし、嫌という程送ってくる旅行社のパンフレットには壱岐対馬旅行というのは案外少ないし、何故かあっても、大阪からのツアーは泉大津からフェリーに乗って一晩かけて博多に行ってというスケジュールのものしか目に止まらない。新幹線で2時間半で行けるところをわざわざ船で行くこともないのでパスしていたが、たまたま、朝の新幹線で博多に行って、そこから高速艇で対馬へ行くツアーがあったので、今回はそれに乗っかって行ってきた。

 ただしツアーなので、対馬は南の厳原周辺のみで、朝鮮半島の見える北の端の展望台まで行けなかったのは残念であったが、立ち寄った南に方の展望台でも夜に釜山あたりの灯りが見えるという話は聞く事が出来た。

 それぐらいで、対馬は韓国に近いので、古来朝鮮の影響が強いのは当然であろう。昔の藩主の代々の墓も訪れたが、宗氏という一字の姓からして朝鮮由来の氏族かと思えるし、朝鮮式の立派な墓石も見られた。一般の方言にも半島由来のものが多いそうだし、今では韓国からの旅行者が多いようで、どこかの駐車場で止まっていた観光バス5台のうち4台までが韓国客のものであった。対馬の土地を買っている韓国人も多いそうである。対馬という名前自体、韓国側からこの島を見ると、二匹の馬が向き合っている姿に似ているところからそう言われるようになったとも聞かされた。

 同じツアー客同士の話で、「どうしてこんな何もないような所に韓国の人が大勢やってくるのだろうか」と疑問の声が聞こえたが、私の考えでは、以前にチェジユ島(済州島)へ行った時の印象から、韓国人は南への憧れが強いので、すぐ近くだということと相まって、対馬に引き寄せられることになっているのではなかろうかと思う。

 事実、対馬は固い岩盤の上に出来たような島で、海岸は殆ど絶壁の岩肌で、平野が少なく、全島が山や山林に覆われている感じで、今でこそ道路も整備されたが、昔は南の方から北の端まで行くには、途中で一泊しなければならなかったそうである。これといった産業もなく、街に活気もないが、観光資源としては朝鮮通信使の歴史を取り上げているようである。あちこちでそれに関連したものが見られた。

 対馬に一泊して、次の日はフェリーで壱岐へ行ったが、壱岐対馬よりずっと小さな島だが、平地が多く、古くから一支国(いきこく)もしくは一大国として魏志倭人伝にも出て来るぐらいに開けており、登呂遺跡や吉野ヶ里遺跡に匹敵する原の辻遺跡という弥生時代の遺跡や古墳群なども見られる。現在でも、対馬より小さいのに人口は同じ程度で、島全体で見てもひらけているし、街並みも大きい感じである。長崎県壱岐病院なども見られたし、朝早くから登校する高校生たちも見られた。

 おそらく、古代には今のように国境もなく、人々は船で自由に行き来していたであろうから、対馬壱岐五島列島から朝鮮半島に沿った南から西にかけての多くの島々、チェジュ島も含み、それと九州や朝鮮半島の南部が一体となった一つの文化圏のようなものがあったのではなかろうか。それが歴史に見る任那百済と日本の関係に繋がっていたのであろうと思われる。

 どこまで真実であるかどうかはわからないが、こうした古代のロマンを夢見させてくれるところが何よりもこの地方の魅力なのであろう。その一端に触れさせてもらって、二泊三日の旅は楽しい思い出を作ってくれました。