映画「カメラを止めるな」

「カメラを止めるな」という 映画を見た。全くどんな映画なのか何の先入観もなく、

女房に誘われて見に行った。

 映画が始まると下手くそなメイクをした役者たちのお粗末ないわゆるゾンビ映画。本当の血とはまるで違う真っ赤なペンキの血や、傷口や切断された肉体のお粗末な出来。それらの人たちのおどろおどろした場面の連続。しまったな。女房も新聞か何かの広告の乗せられたのかな。これは時間の浪費かなという気さえしたが、仕方がないや、最後まで見てやろうと我慢しているうちに前編が終わった。

 これでは短すぎるので、後どういう展開になるのかなと、引き続き見ているうちに前編が劇中劇であり、映画の主題はそういうテレビドラマを作成するスタッフたちのドラマ作成過程のドラマだったことがわかってやらやれする。"one cut on the dead"と名ずけたグループで、初めから終わりまでノーカットで撮影をするということで、題名も「カメラを止めるな」ということになっているらしい。

 今度はそういうつもりで見ていると、撮影の裏場面などをふんだんに入れて、胡散臭い感じのゾンビ映画を表に立てた、結構悪くないコメディ風作品であった。全体として見ても、決して私の好みの内容ではないが、構成が奇抜で、それなりに結構面白いユニークな作品だったとも言えるのではなかろうか。

 ただ私の感じたのは、これだけスタッフが協力し合えるのなら、何もこんな気味の悪いゾンビ映画でなくても、もっと違った対象を取り上げた面白い映画も出来るのではないかということであった。

厚真(あつま)町の山崩れ

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 ご覧になった方も多いだろうが、今度の北海道の胆振(いぶり)地方東部地震における厚眞(あつま)町の山崩れの写真である。

 はじめテレビで見た時は、山裾に沿って一列に多くの山崩れが続いている写真だったので、丁度そこらに断層が走っていたので、続いて土砂崩れが起きたのかと思っていたが、そのうちに航空写真が出て、はるか向こうの山の中まで、無数の山崩れが起きていて、茶色い山肌が広がっているのを見たびっくりさせられた。

 こんなのはこれまで見たことがない。上の写真が山崩れが起きる前と後の対比写真である。こんな山崩れが一斉に広範囲に、それも夜中の三時頃、まだ皆が寝ている頃に起こったのではどうしようもない。40人近くの方が生き埋めになって亡くなられたようだが、私がそこにいても、これでは助かりようがない。亡くなられた方々のご冥福を祈るよりない。

 どうしてこんな広範囲の山崩れが起こったのか、不思議に思ったが、WIkipediaの解説によると、

 今回の地震では強震動によって厚真町を中心に広い範囲で土砂崩れが発生した。この土砂崩れの主な崩壊源は約4万年前に支笏カルデラから噴出された降下テフラ(Spfa-1)で、この層の上位にある恵庭岳樽前山のテフラや、土壌層が一気に崩れたとみられている[注釈 4][19]前日の台風や、6~8月の降水量が平年の約1.6倍と多かったことから、土壌には多量の水を含んでいたと考えられており、その影響もあった可能性も考えられてる[20]。また降下軽石層は透水性が高く、化学的風化粘土化し、土砂崩れが起こりやすくなっていた可能性も指摘されている[21]。Spfa-1は主に未固結の軽石からなる。厚真町周辺では4m前後の厚さで堆積しており、下位にある中新世の海成層を覆う。この軽石は乾燥密度が約0.5 g/cm3と非常に小さく、国内に分布する軽石でも最も軽い値となっている(多くの軽石は1.0 g/cm3前後)。上位にある土壌層は概ね1.5〜2.0 g/ cm3で、軽いものの上に重いものが重なった不安定な地層構造であったとみられる[22]

ここで、テフラというのはギリシャ語で灰の意味で、火山灰軽石スコリア火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称。火山砕屑物とほぼ同義であるが、ある程度広く分布するものに用いられることが多い。狭義には降下したものを指すそうである。

 この説明で初めて知ったが、自然災害は恐ろしいものである。これらを全て予知し、予防することは不可能であるが、地球温暖化による海水温の上昇や、台風などの影響もあるとすれば、近年の地球環境の変化に対して、何らかの対策を講じて、台風や地震を止められなくても、その被害を減らすための対策を講じていく必要があるのではなかろうか。

 このような地滑りが起こりやすいことを住民は知っていたのであろうか。おそらく否であろう。せめてこのような危険性はもっと日頃から知ってもらっておくべきであろう。広島で起こった土砂災害については、私が以前にたまたま見た風景からだけでも、素人目にも危ない所だと思っていた所に起こっていたこともある。

 国家間の経済戦争や軍備の増強よりも、人類が生き延びるために全ての国が力を合わせて地球環境の維持、改善に取り組まなければならない時期が近づいているのではなかろうか。

災害対策を優先させよう

 今年の夏は6月に桜島の噴火が起こり、今度は従来の噴火口と違って、頂上に近い新噴火口からの噴火だと言っているうちに、6月18日には大阪北部地震が起こり、茨木、高槻あたりでは結構、家屋の損害も出、ブロック塀の崩壊で児童が亡くなる悲劇などがあって、夏の初めから災害付いていたようである。

 その後、もう7月になって本格的な夏に入ると、今度はこれまでにない史上初の猛暑が続き、8月には熊谷で41.1度という過去最高温度を記録し、その後も、ほぼ毎日のように猛暑が続き、熱中症で倒れる人も多かった。

 それに伴うように、台風がこれまでよりはるかに多く来襲し、8月中にすでに20号を越えてしまった。しかも、7月には台風により岡山県愛媛県に洪水をもたらしたかと思うと、9月4日の台風21号では関空の滑走路の水没やタンカーの連絡橋への衝突で、空港の運営が危ぶまれる事態となった。

 この夏は、これらにさらに追い打ちをかけるように、台風が北海道を去った次の日に、今度は大地震が北海道に起こり、地滑りが大きく、大勢に人命が失われたり、北海道全域での停電が起こったりした。

 ここのところ、日本はまさに災害大国だと言っても良いぐらいである。しかも、気になるのは、かかる気象異常が日本に限ったことではなく、地球温暖化の影響があるのか、全世界的なものらしく、世界のあちこちで異常な熱波や大雨、洪水、異常寒波などが言われている。

 しかも、最近の九州や北海道などの内陸地震は、予想されている東南海地震のような巨大地震とも関係があると言われ、その東南海地震の確率が80%で、これはもういつ起こってもおかしくないものだとまで言われている。

 こうなると、もはやこのような現象は今年だけのことではあり得ない、すでに起こった災害に対する対策だけでなく、ここらでもっと本質的なことを考え、その対策を立てなければならないのではなかろうかということになる。

 しかし、これらの巨大自然災害に対する対策はなかなか進まず、情報の発信や伝達方法、非常時の起きた時の対策が主に語られても、災害そのものを抑えることは出来なくても被害を軽減させる対策はなかなか立てられないままになっていると言っても良いのではなかろうか。

 災害が起こってから、これまでに経験のないとか何十年ぶりだとか、そのため仕方がなかったかのようにいうような発表が多いが、これだけ世界的に状況が変わってきたのであれば、災害に対する対策も、受け身の対策だけでなく、これまでと違った積局的に災害の予防、被害を軽減させる方策を考え、実行していかなければならないのではなかろうか。

 第一には、岡山の真備町のように以前から危険を予想されていたにも関わらず延期されていたような所の防災対策は早速実施すべきであろうし、何十年ぶりの危険性であっても、危険が予想されるところにはより強化する手を打つべきであろう。これまで考えられてきた防災上の安全域も見直して、これまでよりも安全域の余裕を大きくするように見直す必要もあるのではなかろうか。

 さらには、これまであまり顧り見られなかったような安全上の見落とし点も再チェックする必要があるのではなかろうか。何年振りにしか起こらないというような基準も再考してみるべきではなかろうか。

 政治にとって最も基本的なことは国民の生命、財産を守ることである。外交力を高め、近隣諸国との平和を維持し、極力軍事費を抑えてでも、国内の災害予防への投資が優先されるべきであろう。

 例えばイージス・アショアの購入を止めれば、災害予防のためのかなりの予算は賄えるはずである。地球環境の変化に対応して、国民の命と安全を守るために、真剣に災害対策を考えなければならない時が来ているのではなかろうか、

 

 

モリカケ問題を経た官僚の対応の仕方

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 モリカケ問題で官僚たちが国会で散々追及され、色々な文書が問題になったり、問題となった文書が廃棄されたと言われてりした挙句、最後には財務相による公文書の改ざんまでが明らかになって、文書の管理を見直して徹底することになったが、その結果、どういう風にするのかと思っていたら、このようなものが出てきた。

 いかにも官僚の反応の仕方であり、やり方である。思わず、敗戦直後に軍や多くの官庁で、戦争中の具合の悪い文書を大量の焼いてしまったことを思い出した。

 官僚は政治的に中立であることが必要であり、正確な記録を残すことも大事な仕事である。ところが後で追及される時のことを考えて、出来るだけ細かい資料は捨て、残す記録を出来上がった公文書などのようなものに限定し、必要最低限にしておくことが賢明だと考えたのであろう。

 本当の歴史というものは正式の記録が作られる過程にあるもので、正式な公文書となった記録はすでにそれが都合よく加工されたものであるわけで、後から事実を確かめる時には、正式な記録になるまでの過程に踏み込まねば詳しい本当のことわからないことが多いものである。

 時代が変われば価値観も変わる。後の時代に正しく伝えるためには、出来るだけ生の資料を残すことが必要であり、政治的な事実については、中立的立場の官僚が、個々の一次資料を出来るだけ詳しく確実に残し、後の時代からも追跡可能にしておく義務があるのではなかろうか。

 官僚は時の政府に従わねばならないのは当然である。しかし政治家と違ってことを事務的に進める中立的な立場にあるわけであるから、その過程を後からも検証可能なように記録しておくことが国民に対する公務員としての義務であろう。

 そのためには、公式な文書が出来るまでの過程における色々な事実を出来るだけ何でも記録や保存しておく必要があるであろう。そうすることが官僚自身に取っても、自らの仕事を全うするとともに、自らを守る手段ともなるはずである。

  慰安婦問題などを見ても、敗戦時に記録が殆ど捨てられてしまっているために、記録以外の証言などに頼るしかないことになってしまっているのである。加害者にとってはその方が都合が良いかも知れないが、証拠がなければ、確固とした反論も出来ないことにもなる訳である。

 官僚たちの各個人の自己防衛のためにも、一次史料ともいうべき事実や見聞は捨てないで出来るだけこっそりとでも保存されることをお勧めしたい。

台風21号

 今年は地球の温暖化の関係があるのかどうか分からないが、例年にない40度近くにまでなる猛暑が続き、太平洋の海水温度が高くなったためか、やたらと台風が多い。まだ9月になったばかりなのに昨日はもう台風21号が関西を襲った。

 最近は早くから台風の予想経路をテレビでも見せてくれるので、だいたい何日頃日本のどこらにやってくるのか予想がつくので便利である。今度の台風21号は台風の経路を見ると、どうやら第三室戸台風になり、今度こそは大阪直撃かも知れないと身構えていましたが、ちょっと西へそれたためか、我が家は何の被害もありませんでした。

 台風が近づいて来てからは、雨戸を閉めて用心していましたが、外界が見えなくても困るので、少しだけ隙間を開けて雨戸を閉め、その隙間から外を眺めて様子を見ていました。昔と違ったテレビもずっと続いて台風の情報を流すものですから、それを気にしないわけにはいきません。

 そうだからといって、急激に変わるわけでもない外の様子を見ているだけでは退屈するし、気になって何か纏まったことをするには手がつかず、丁度、朝日新聞の日曜版の「数独」があったので、それををやりながら外の様子を伺うことにしました。
 初めのうちは、四国に上陸したというのに大した風も吹かず、どうなっているのだろうと思っていましたが、そのうちに猛烈な風が吹いて来ました。しかし別段、危険な兆候もなく「数独」に夢中になっているうちに、台風は早くももう日本海の方に行ってしまったようで、一番難しいとされる「数独」の完成時にはもう風も落ち着き、雨も止んでいました。
 台風はいつの間にか、さっさと足早に通り過ぎて行ってしまった感じでした。我が家や周辺の異常も見当たらず、被害といえば庭いっぱいに散らばった落ち葉や小枝をかたずけるのが大変というところでした。
 そんな有様だったので、全般的にも大したことはなかった、よかったなあと思っていたら、テレビでは結構大変だったようなのに驚かされました。死者や怪我人も出ているようですし、大阪市内の高潮は免れたものの、関空の滑走路は水に浸かるし、連絡橋に船が衝突して道路がずれたようで、空港島には何千人という人が閉じ込められ、駐車場では多くの車が横倒しになったり、ひっくり返って大変だったようである。

 会社の倉庫が潰れて4人が下敷きになり、社長さんが亡くなられたという報道もあったし、どこかの車の展示場では火災が起こり、多くお車が炎に巻き込まれている映像なども流れたいた。何十万件かの家の停電も起こったようでした。

 関空地盤沈下のため冠水したようで、連絡橋も潰れては当分使い物にならないのではなかろうか、折角増えた観光客などに対する影響も大きいのではないかと心配される。

 今年はまだ台風が来るかもしれないが、この傾向が続くなれば、来年、再来年などはどういうことになるのだろうか。予想はつかないが、夏の猛暑とともに、台風も気になるところであろ。真夏のオリンピックなど本当に出来るのだろうかと心配にもなる。

 

歳並みに動き方を変えよう

 8月初めに階段を踏み外して側壁で頭を打ち、救急車で運ばれるという事故にあい、幸い後遺症もなく回復したが、これを機会に少し動き方に注意をしなければと反省している。

 これまでとかく、満90歳になっても元気だということを自慢したいような気持ちで、少しばかり自惚れていたようだった。女房と一緒に歩いても、一人で先に歩くし、歳も考えずに道行く若い人に負けないように競うように歩いたり、女性なら追い抜いたりして、仕事で一緒になる女性からは、いつも歩くのが速すぎると苦情を言われたりしていた。

 また、階段の上り下りは青年の頃に、海軍の兵学校で階段の昇降は走るものという習慣を覚え、気持ちが良いので、戦後も若い頃からずっとそれを続けてきた歴史があり、歳をとって目も悪くなっているのに、そうした方が気持ちが良いのでついそのまま続けてきた節がある。

 そのため、階段の最後の一段を踏み外して転んだり、途中で滑って手すりを持っていたので、横の壁に頭をぶつけたこともあったが、その直後は気を付けたものの、長年の習慣はなかなか消えてしまうことはなかった。

 歳をとると、流石に上りの階段を一段飛ばしで駆け上がることは少なくなったが、降りる方は、手すりは昔から必ず持つようにしているが、ゆっくり降りるより、楽に走って降りるぐらいの感じで降りる方が気持ちが良いので、ついいつまでもその癖が抜けない。

 要するにせっかちなのである。電車から降りる時も、電車がホームに止まる前にはドアの所へ行き、真っ先に降りて、一番に階段を駆け下りるのが習い性となっているかのようである。

 そんな習慣が、老化による体力の低下、ゆとりの減少、老眼や視力の低下と重なって事故を起こりやすくしていることがわかっているのに、無視して続けられていたわけである。時に道を歩いている時に、躓いてこけることが起こるようになって、ステッキを持つようになっても、習慣は中々治らない。今度はステッキで調子をとって、余計に早く歩いて、ステッキが道端の穴にはまって、勢い余って転倒するようなこともあった。

 今回の階段での事故は幸い大事に至らなくてよかったが、階段から落ちて死んだ人も知っている。性格までは治らないだろうが、せめて大きな事故などにだけは繋がらないように、ここらで歳並みに動き方を変える決心をした。

 何よりも歳並みにゆっくり体を動かすことである。意識してゆっくり歩いたり、行動することが中心である。電車から降りる時にも、電車が完全に止まるまでとは言わないものの、電車がホームに入るぐらいまでは席を立たず、ドアが開くや否や真っ先に降りるようなことを止め、ゆっくり降りる。降りたら、人の後ろについてゆっくりホームを歩く。階段は手すりを持って、一段一段確かめながらゆっくり降りる。平地を歩く時も、ゆっくり歩く。女房の速さをペースメーカーにして、決して人を追い越そうとしない。出来るだけステッキを持って歩くなどであろうか。

 性格までは変わらないし、長年の習慣を一気に変えることも難しいが、それだけにこのような文を書いておくことが、少しは行動のブレーキになればと思い記しておく次第である。

 

 

いくら何でも酷過ぎる

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 SNS にこんなのが出ていたが、いくら何でもちとひどすぎるのではないかと思うのは私だけではあるまい。東電の原発事故で放射能汚染を受けて村を追い出された人たちが、未だに放射線量が高いから帰還困難と言われて村へ戻ることが出来ないのに、今住んでいる避難住宅の提供が打ち切られるというのだそうである。

 何の罪もない普通の住民たちが、明らかに人災と認定された東電の原発事故のために、自分たちの住んでいた土地を追い出され、避難住宅に仮住まいさせられているのに、もう時間が経ったからといって、元の村へ帰ることも許されないのに、今の仮住まいの避難住宅も追い出され、後は自分たちで勝手にしろというのはあまりにも酷すぎる。どこへ行けというのだろうか。

 幾ら何でも酷すぎる。村を住めなくした加害者の東電が当然住民の生活の面倒を見るべきであるし、もし仮に東電にそれが出来なければ、国が代替してでも、住居を確保すべきである。東電が事故の責任を負って被災住民の生活を保障する義務があるが、それが出来なければ、国によってでも住民の生活は守られるべきである。

 あまりにも常識はずれの対応に腹を立てずにはおれない。

 

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 こちらもあまりにも馬鹿げたことだと思いませんか。ここまで学校が政府に忖度するのはまともな教育を冒涜し、子供の成長を阻害し、教育とは逆のことをしているとしか思えません。

 仮にこれを書いた子が、親の影響を受けて書いたのだとしても、子供本人が書いたものであれば、当然その子のその時の思いを書いた文章なのだから、その時のその子の記録として、その子の成長のためにも、そのまま載せるのがその子に対する思いやりでしょう。

 子供の表現力を摘み取ってしまうべきではありません。この子が将来どのように育つかはわかりません。しかし、現在の時点でのその子の考えを政治批判だと言って書き直させるのは、その子のためではなく、先生の方の上司や教育委員会などに対する忖度のため以外には考えられません。

 卒業時点での子供の思っていることを素直に書かせるのが卒業文集ではないでしょうか。後年振り返ってあの頃はこんなことを考えていたのだなあ思い出す懐かしい文集に先生が横槍を入れるべきではないでしょう。先生は生徒の心を思いやるべきでしょう。

 先生がここまで生徒のことより、上司や教育委員会のことを忖度して物事を進めるようでは、この国の教育もおしまいだなと思わざるを得ませんでした。この国は再びあの破滅しか待っていない、嫌な戦前の世界に戻ってしまうのでしょうか。