特別支援学級の外国人の子供たち

 最近の朝日新聞を見ていると、愛知県や三重県などでの、ブラジルをはじめとする外国人労働者の多い地区における子供の特別支援学級に、外国人の子供が多くなったことが載っていた。ある統計では、日本人の場合、49,149人の子供に対し、特別支援学級に行く子が730人(1.48%)であるのの対し、外国籍の子は1.886人中116人(6.15%)だったそうである。

 どういう子供がこの特別支援学級へ行くのかというと、法的には、1)知的障害者

2)肢体不自由者、3)身体虚弱者、4)弱視者、5)難聴者、6)その他障害のある者で、特別支援学級において教育を行うことが適当なもの、ということになっているそうである。

 外国人だからといって、これらの項目に該当する者がそれほど違うことは考えられないので、結局、大きな問題は言葉の問題であろう。外国語しか知らない子供達が全く言葉のわからない教室にいきなり放り込まれたら、他の子供たちと同じようにコミュニケーションが取れず困惑するのは当然であろう。

 上の数字の違いは外国人の受け入れ態勢、ことに言葉の対策が出来ていないことを示すものであろう。昔、知人がアメリカへ小学生低学年の子供を連れて留学した時に、その子が現地の小学校で、言葉がわからないので、しばらくは教室内でただウロウロ歩き回るばかりだったことを聞いたことがある。

 今後人口減少に伴って外国人労働者を受け入れざるを得なくなるであろうが、外国人を受け入れる以上は、それに伴うその子供たちの日本語教育や日本への同化を真剣に考えて、単に労働力としてではなく、彼らの生活が日本に馴染めるように如何に対策を立てていくべきかを考えていかねばならないであろう。

 ヨーロッパより移民に慣れておらず、日本は単一民族だという人もおり、以前から排他的な世相が強い日本社会に、外国人を如何に定住させ、同化させていくかについて、そろそろ真剣に考え対策を立てていかねばならないのではなかろうか。将来ヨーロッパ以上に移民問題に悩まされる恐れが強い。今から十分考えておくべき問題であろう。

早寝早起きも良いけれど

 若い時は夜は元気で朝起きるのが一番辛かったが、歳をとるとともにいつしか早寝早起きの習慣となり、やがて夜は9時就寝が8時になり、7時半になって、7時のテレビのニュースが終わるともう就床ということになる、親戚関係や女房の友達などの間では、あそこはもう8時以降は電話はダメということになっているらしい。

 夜が早くなれば当然朝も早くなる。ずっと4時起きだと思っていたら、最近はそれがますます早くなって、夜中の3時半にはもう目が覚めてしまうことになってしまっている。起きたらすぐにパソコンを開いてメールやフェイスブックをのぞき、四時半過ぎには朝飯を食べ、新聞を読みながら用を済ませ、6時前から腕立て伏せから始まって、自分なりのメニューの運動をこなし、6時25分からのテレビ体操につなげるというのが日課になっている。

 その後は新聞の特集記事や単行本、あるいは長文のSNSを読んだり、ブログを書いたりして、次第にその日の日課に移っていくわけだが、朝が早いだけに、何も出かける用のない日には、9時過ぎに30分ぐらいのナップを取ると、あと1日の気持ちが良い。

 いつの間にかこんな生活になってしまったが、早起きで具合の良いのはどこかへ出かける時である。例えば奈良かどこかで何かの催し物でもあって見物に出かけるとしよう。

 朝9時ごろから始まる催し物でも、十分時間的余裕を持って出かけられるし、通勤時間帯より早く電車に乗ることになるので電車も空いている。催し物も一番に入れば、来場者もまだ少ないことが多いので、ゆっくり観れる。その上、往くのが早ければ帰るのも早くなり、明るいうちに家に戻ってゆっくり休む事も出来る。

 こんな少し一般とずれた生活でも、今はもう殆ど仕事をしていないので、あまり差し障りもない。世間と少し位ずれていても、どっち途、世間とは既に少しばかりずれた人生を送っているのだから、それでも良いのではないかと思っている。

 ただ、この間の地震の後で女房が思い出したように告げたのは、「神戸の震災も、今度の大阪北部地震も朝だったから良かったが、もし宵の8時頃にでも大地震があったら困るね」と。何故かといって、「世間では皆まだ起きているので、すぐにでも外へ飛び出せるだろうが、うちは二人とももう寝ている。びっくりしてパジャマのまま飛び出さなくちゃならなくなるよ」

 なるほど、阪神大震災の時は5時半過ぎだったので、もう朝飯を済ませたところだったし、このあいだの地震の時は午前8時前だったのでもう書斎でブログを書いているところだったが、これがもし午後の8時だったら皆まだ起きているのに、老人だけが二人揃ってパジャマ姿で飛び出さねばならないことになり、確かに恥ずかしくて困るであろう。

 しかしそうだからといって、日常生活のリズムを変えるわけにもいかないし、日頃からパジャマに着替えないで、シャツのまま寝るわけにもいかない。いつ来るかわからないものに対して、やっぱりそこまでは出来ないだろう。むしろ、来れば来たで、その時なりに対処するより仕方がない。そう開き直って、こっそり地震が宵の口にこないことを願って、このままの生活を続けている。

地球の温暖化?

暑い!暑い!暑い!

 大雨が続いて、西日本では各地で何十年ぶりかと言われる水害やがけ崩れで甚大な被害が起こり、その後片付けで大変なのに、今度は連日の猛暑で、昨日など二千人を超える人が熱中症で搬送されたそうである。

 これまでは、暑いと言っても30度を超える程度が最高であったが、昨日など京都では38.8度にまでなったそうである。大阪も37度とか。以前には考えられない異常な温度である。それが一日だけの例外的な暑さというのではなく、連日続いているのである。テレビは今日も38度と言っている。

 以前より確実に5度くらいは上がっている。38度などといえば、もう体温より高い。そのうちに40度を超える日がやってくるのではないかと恐ろしくなる。

 子供の頃に「サウジアラビアなどでは気温が40度もあるそうだ。それぐらい暑いともう体温より暑いので服を脱いで、裸になっても涼めない。逆に熱を遮断するために衣服を着たほうが良いのだ」などと知ったかぶりに言い合ったりしたものだが、昨日今日あたりの気温を見ると、日本も最早、温帯ではなく熱帯の仲間入りをしたのではないかと思われる。

 とにかく暑い。もう体温以上の気温なので、裸になっても間に合わない。外から逆に熱気が体の中へ入ってくる。アラブの伝統的な衣服のように、ゆったりした衣服でも纏ったほうが涼しく感じられるのかも知れない。

 門扉の金属の取っ手は焼け付く感じで思わずビックリしたし、トイレで手を洗おうとしたら水ではない生熱いお湯が出てきた。外気がサウナの中にいるようだと誰かが言った。こんな時に災害の後片付けなど出来たものではない。ご苦労様の限りです。気をつけてもらわないと熱中症にならないほうがおかしいぐらいである。

 きっと地球の温暖化で地球の気象条件が大分変わってきているためではなかろうかと思うのだが、新聞もテレビも、これだけ高温の日が続いているのに、「水を飲んで熱中症に気をつけてください」とばかり繰り返すだけで、一頃は盛んに言っていたのに、最近は地球の温暖化について殆ど何も言わないのは何故なのだろう。不思議に思えてならない。

 今日の朝日新聞の科学欄には、それとは真逆の「元気ない太陽、夏が消える」と題して、逆にこの数ヶ月太陽の黒点が観察されておらず、宇宙では太陽の活動が落ちて来る時相が近づいて来ているようで、そうなれば地球は冷えて、冷害が起こる恐れが出てくると書かれていた。

 ただ、地球温暖化と太陽の活動低下は相殺されるが、地球温暖化が進み、再び太陽活動が活発になると、気温上昇に歯止めがかからなくなる最悪のシナリオになる可能性のあることにも触れていた。

 暑いのも困るが、極端に寒くなるのも老人にとっては辛い。原因が何であるにしろ、やっぱり地球はこれまで通り、なるべく人類にとって住みやすい環境を続けて欲しいものである。老人はこれだけ暑いと、ただ冷房をかけて寝転ぶだけ。何も出来ない。

 

映画「焼肉ドラゴン」

 映画「焼肉ドラゴン」を見てきた。以前に見た映画「月はどっちに出ている」の脚本を書いた鄭義信(チョンウイシン)氏の原作で、戯曲、演出家として日本、韓国で舞台に乗せて、数々の賞に輝いた作品の映画化らしい。

 扱っているのは、1970年の大阪万博の頃の時代設定で、その頃まであちこちの見られたいわゆる”朝鮮部落”が舞台で、そこで焼肉屋をやっている一家の物語である。主人公の名前が龍吉なので、「焼肉ドラゴン」ということになっているようである。

 在日の朝鮮人には戦前から日本に住み着いている人に加えて、戦争中、徴用で日本に連れてこられた人たちで、戦後故郷に帰りそびれた人たち、また、殊に大阪では、1943年の済州島での4・3事件に絡んで命からがら逃げてきた人たちも多く、それらの人たちが部落を作って、お互いに助け合いながら生きてきた歴史がある。

 この映画の家族も、竜吉は済州島出身なのだが、戦時中に軍隊に取られ、戦争で左手を失い、戦後引き揚げの船が沈んで全財産をなくし、済州島の親族は皆殺され、日本で生きていく覚悟を決め、「昨日がどんなでも、明日は、ええ日になる」と強い気持ちで一生懸命働いてきた人として描かれている。

 細君は子持ちの寡婦で、前妻の娘が二人おり、この三人娘と二人の間の男の子が一人という家族。三人娘は男との関係でもめているし、息子は学校での差別に負けて自殺する。戦後のどさくさに主人公はある人物から自宅を買ったのに、部落は国有地だからといって立ち退きを強要されるなど、過酷な運命にも強い意志で暮らしていく。

 この国における在日韓国人に対する執拗とも言える差別、その戦後の歴史や社会をも知っているだけに、見ているだけで思わず胸がこみ上げてくるような感じにもさせられるところもあった優れた映画である。

 最後は部落の立ち退きで、皆が去って行くことになるのだが、三人の娘たちはそれぞれに相手を見つけ、一人は韓国へ、一人は北朝鮮へ、もう一人は日本で暮らすことになる。そして、残された夫婦がそれでも頑張るぞとリヤカーを引っ張って去って行くシーンで終わることになる。

  ただ、欲を言えば、高度成長の万博時代における、その時代の一般社会と、朝鮮部落という限られた世界との格差の移り変わりがもう少し背景に描かれていたら良かったのではないかという気がした。先日見た「万引き家族」とはまた少し雰囲気の変わった作品で、我々の世代には特に感動的な素晴らしい映画だったと言えるであろう。

 

 

大雨による災害を予防する手はないか

 今回の西日本の広範囲に及ぶ大雨による災害は思いの外ひどい被害を起こしてしまったようである。洪水や山崩れなどが起こった場所も多くの府県に及び、死者や行方不明者の数も三桁に達する。多くの家が潰され、田畑や家屋の浸水範囲も広く、広範囲の地区が泥に埋まり、猛暑で断水という悪条件の下では、復旧作業もなかなか進んでいないようである。

 今回のような大雨による被害は、前にも書いたが、あらかじめ予想がつき、テレビなどでも危険の迫っていることの警報が繰り返されていたにも関わらず、こんな結果になってしまったことは残念でならない。

 先に書いたように、自然の偉大さの前に人の努力はまだまだ小さなもので、仕方がないのかも知れないが、地震のように未だ予知の不可能な自然災害とは違って、大雨による洪水の被害などは、今回を見ても、十分予知出来ていたことであり、何度も警報が繰り返された上に、その通りに災害が発生したのである。

 しかも、水との戦いは人類が生きていくために、有史以来繰り返し対策が講じられてきたことで、その成果も数えられないくらい多く、それによって現在の文明も築かれてきたと言っても良い。

 あちこちに大小のダムや調整池を作ったり、堤防をかさ上げしたり、川幅を広げたりしてきたのもそうだし、大阪近辺でいえば、大和川の流れを変えたり、新淀川を作ったり、ずいぶんいろいろと工夫してきたものである。

 私の子供の頃は阪神間天井川がよく氾濫したものだが、六甲山の植林が進み、河川の整備がされて、戦後はほとんど問題がなくなったし、河内平野は水はけが悪く僅かな雨でも水に浸かったりしていたのが、排水設備の整備で最近はそういった問題を聞かなくなっている。

 そんな例を思い出すと、今回の災害も予知出来たことであるだけに、平素からもう少し予防的な手も打てたのではないかとも考えたくなる。いくら稀にしか起こらないことだと言っても、この国では同様な災害はそれほど珍しいものではない。

 土木事業の能力も昔とは比べようもなく大規模で強力なものになっているのである。その気になれば、もう少し予防措置も取れたのではなかろうか。大都会中心で地方切り捨てのような政策、軍事費の増強などによる民生予算の配分の低下なども関係しているのかも知れない。

 何十年に一度というような自然の猛威に適切に対処することが困難なことはわかるが、多くの人の命を守るためには、そこまで平素から準備すべきなのではないかとも考えられる。

 仮にどうしても抜本的な治水策が困難であるとすれば、氾濫の恐れのある地域には鉄筋などの強固な高い建物しか立てられないようにするとか、山崩れや崖崩れの恐れのある所には家屋を建てさせないなどして、万一の時にでも、命だけは守れるようにする予防手段も考えられはしないだろうか。

 何としても、今回のように、「大雨が予想されます」「川が溢れる恐れがあります」「地盤が緩んだいます」「最大限の注意を払ってください」とのニュースの警告通りに、やがて川が溢れ、崖が崩れて、大勢の死者まで出すのは、何としても情けない。

 まるで「B29の大編隊が大阪に向かっています」「警戒警報です」「空襲警報発令」「焼夷弾を落としました」「大阪は焼け野原になりました」という悪夢が蘇ってくるようでした。

 偉大な自然の力に対して小さな人類に出来ることには限りがありますが、これまでの努力を省みて、それに上積みをして、少しだけでもより優れた方法で、治水の効果を上げ、再び同じような犠牲者を出さない方策を考え、実行出来ないものでしょうか。

タイの洞窟の少年たち全員救助される

 認知症になっても喜怒哀楽の感情は失われないようで、そのために周囲の人たちがそれに振り回されて困ることもあるが、認知症でなくても、一般に老人になると理性面に対して感情面が出やすいことがあるのだろうか。

 あるいはそんなことに関係があるのかも知れないが、卒寿も過ぎ、仕事などでいつも急き立てられるようなことがなくなったので、ニュースなどを聞いたり見たりしても、以前より何かの出来事に対する感情移入が強くなったのかも知れない。 最近、二つの出来事で、いつになく強く心を打たれて忘れられないことがあった。

 正反対の出来事であったが、悲しかった方からいえば、この前の北大阪の地震の時、小学校の子供が学校のブロック塀に押しつぶされて亡くなった事件である。未だにその死が哀れで気になって仕方がない。もう学校のすぐ横まで行っていて、もう少しで校門にたどり着けるところ、しかも通学路を示す緑色がくっきり塗られた所を歩いていたのである。もうほんの一二分でも違っていたら、何事もなくいつものように学校に入っていたに違いない。不運というよりない。そう思うと、わが子が事故にあったように悲しい。哀れである。今だに失われた命が不憫でならない。

 それとは全く正反対に、今日のタイからのニュースは心から私を喜ばしてくれた。タイの洞窟探検?に行った子供達が引率の若いコーチと一緒に洞窟の奥深くまで入ったところ、雨水で出口を塞がれ、出られなくなっていた事件である。ニュースの解説によると子供達が閉じ込められている場所は入り口からかなりの距離があり、途中に起伏がって一部かなり長い部分が水で満たされ、そこを潜らなければ外へ出られず、しかもそこは狭くて人が一人通れるぐらいしかないので、潜水の経験のない子供には自力では通り抜けられないし、専門の潜水夫がいても二人並んでは狭くて通れないということだった。

 はじめ十日近くは水没した奥に閉じ込められていた彼らの安否さえ分からなかったのが、幸い皆無事だとはわかったが、その後いかに救出するかが問題になっていたものである。種々な条件を考えると、救出はなかなか困難で、果たしてうまくいくのだろうか、外国からも援助もあり、世界中の人をやきもきさせることになった。

 無事なことがわかって救出出来ないでは済まされない。ありたけの知恵を絞ったのであろうが、今朝のニュースによると、なんとか全員が無事救出されたようで本当によかった。思わず万歳でも叫びたくなるほど嬉しかった。サッカーのW杯がたけなわを迎えているが、そんな勝敗はどうでも良い。こちらのニュースの方がずっと良かった。

 テレビで、トラップされていた一人の子供の祖母が「抱きしめてやりたい」と言っていたが、私も「本当に良かったね」と助かった子供達を抱きしめてやりたいような気になった。

能勢の浄瑠璃

 大阪府の最北端にある能勢町には昔から受け継がれてきた浄瑠璃があると聞いていたが、先日初めてその浄瑠璃を見てきた。

 実際に行くまでは、大阪といっても山の中の昔からの純農村地帯なので、どこかで見た田舎の藁屋根の芝居小屋でもあって、建物の前の広場に観客が座って見るようなところでもあって、秋のお祭りの時にでも、浄瑠璃が開かれるのではなかろうかといった漠然とした印象を持っているに過ぎなかった。

 最近そこで浄瑠璃があるというので、実地を確かめるべく出かけて見た。能勢電山下駅で降りて、一日数本しかない定期バスに乗って、大きなダムの横を通り、山の中の部落を転々と回って、やっと能勢町役場前のバス停に着く。浄瑠璃シアターはそのすぐ横にあった。

 まずびっくりしたのは劇場というか、芝居小屋というか、その規模の予想に反した大きさであった。しかも、よくある田舎町の多目的ホールのようなものでなく、浄瑠璃に特化した、木造の悠に500人ぐらいも収容出来る立派な芝居小屋である。中のロビーも広く、昔からの能勢の浄瑠璃の歴史のわかる展示などもある。人口1万余の小さな町には不相応な建物と言えよう。

 そんな不便なところにある劇場だが、今はほとんどの人が車で来るの場所はあまり問題にならないのであろうか。劇場の中は人が一杯で、全席満員の盛況であった。

 何でも能勢の浄瑠璃は、江戸時代の文化年間に、能勢の住民が大阪の浄瑠璃を学んで帰って始めたものだそうで、もう200年からの伝統があり、農閑期に農民同士が師匠からマンツウマンで技を受け継ぎ、ずっと素浄瑠璃といって、語りと三味線だけの座敷芸として続けて来たもののようである。

 それにしてもよく根付いて伝わってきたものだと感心させられるが、孤立した農村であったから余計に皆で大切にされ、保存されてきたものであろうか。「浄瑠璃一つ語れぬ家には嫁にやれぬ」といわれる如くに普及していたものだそうで、今もその伝統は受け継がれ、人口1万に過ぎないこの旧能勢村に浄瑠璃の語り手は現在200名もいるそうである。

 その様なことから、1993年には大阪府無形文化財に、1999年には国の無形民俗文化財に指定されているそうである。町が無理をして立派な芝居小屋を作ったわけも分かる気がした。

 この小屋も出来て今年で開館25周年を迎え、20年前からは人形も揃えて、本格的な浄瑠璃となり、能勢人形浄瑠璃鹿角座という組織になっているようである。しかも、ただ伝統を受け継ぐだけで満足せず。2年ほど前からは、漫画調のモダンな人形二体も拵え、映像と組み合わせた新しい演出まで試み、兵庫県の出石での浄瑠璃の出張公演までしているようである。

 浄瑠璃の劇そのものについては詳しくないので、大阪の本場の浄瑠璃に比べてどうのこうのとは言わないが、素人が見る限りでは、特段けなすようなしくじりなどもなく、木戸銭を払って見るだけの値打ちは十分あったとして良いのではなかろうか。

 ただ、なにせ不便な場所にあるので、車を持たない我々にとっては、帰途を考えれば、公演終了を待たずに、バスの時間に合わせて小屋を飛び出さねばならなかったのが辛かったが、思わぬ拾い物をした感じの午後であった。

 この芝居小屋がこれでまともにペイするようには思えないが、村人たちの希望と楽しみなどが日頃の努力と相まって、昔ながらの伝統文化を守り、それを町なり、府が支えてなんとか維持出来ているのであろう。折角これだけのものが出来たのだから、是非何とか続けて発展させてもらいたいものだと思わずにはおれなかった。