庭に鶯

 今年は春から毎日のように鶯が我が家の庭にやってくる。今年生まれた鶯なのであろうか。はじめの頃はまだホーホケキョウとうまく鳴けず、鶯ともわからず何やら高い声で鳴く鳥が来ているなという感じだったのだが、そのうちにだんだんとホーホケキョウとうまく鳴くようになって来た。

 姿は一向に見えないが、どこから飛んでくるのであろうか。毎日のように来ることを思えば近くの五月山からぐらいであろうか。たまたま我が家の庭のどれかの木が気に入ったのであろうか。

 毎日朝の8時頃であろうか、だいたい同じ時間頃に鳴き声を聞くので、我が家が毎日の決まった飛行ルートの休憩点の一つになっているのかも知れない。ここで一休みして、序でに一声鳴いて相手でも探そうというのであろうか。でもこんなところで鳴いて果たして相手が見つかるのであろうか。

 ただホーホケキョウと鳴くのは雄が雌に安全を知らすためだとも言われているようなので、もうすでに番いが出来ていて、雌がすでに巣で卵を温めているのかも知れない。

 鳴き声だけで姿さえ確認出来ないので、その鶯の詳しいことはわからないが、気持ちの良い声を聞かせてくれるので歓迎している。いつ頃まで来るつもりだろか。そのうちに雌の子育てもすみ、やがてはどこかへ飛んでいってしまうのであろうか。毎日のように自然と心を和ませてくれる美しい声を聞いていると、ついお礼を言ってこの鶯クンの幸運を祈りたくなる。

 そう思っていたらどうもこれでは、今年は鶯の当たり年なのだろうか。猪名川の河原を散歩していても河原の木の茂みでも鶯が鳴いているし、川とは逆方向の水月公園へ行っても鶯の鳴き声が聞かれた。我が家へくる鶯もこの辺りをテリトリーにして飛び回っているのであろうが、今年はなんだか仲間が増えたような気がする。

 野鳩やカラスが増えるのは必ずしも賛成できないが、美しい声を聞かせてくれる鶯は大いに歓迎である。少しでも長い間ホーホケキョウと可愛い声を聞かせ続けて欲しいものである。

嘘つきは病気か

 
 SNSを見ていたら、たまたま「虚言癖、嘘つきは病気か Dr.林のこころと脳の相談室 特別編」という精神科医の書いた本のレビューが出ていた。
 大抵の場合、人は必要の駆られて仕方なしに嘘をつくが、始終嘘をついて、嘘つき、虚言癖ないし虚言症と言われるぐらいになると、嘘をつくことが癖になってしまい、行き過ぎると、だんだん病的になってくるようである。
 レビューによると、普通では考えられない嘘をつく人など、「ひどい嘘つきは病気なのか」に答えて、このような人たちは病気とは言えなくても、ある種の「パーソナリティ障害」とでも言えるのではないかということらしい。
 自分の価値を誇大的に評価し、他人からの賞賛を求める「自己愛性パーソナリティー障害」、自分が常に注目されていたい「演技性パーソナリティー障害」、対人関係、自己像、感情が不安定で見捨てられないかと不安になり、人への信頼や罵倒が極端になる「境界性パーソナリティー障害」、あるいは自分のことしか考えておらず、法律や規則を破り、逮捕されるような行動を繰り返す「反社会的パーソナリティー障害」などといった、パーソナリティー障害の傾向が強い人が多いのが特徴だそうである。
 自分でも嘘とわかっているのに、自然と嘘をついてしまうことを繰り返しているうちに、嘘をついている自覚も薄くなり、そのため他人が傷ついても平気になり、嘘を補うために更なる嘘をつき続けてしまったり、辻褄があわなくても気にならなくなり、どうしても虚言をやめられないということになりやすいということになるようである。
 ここまで読んでくると、嫌でも最近のモリカケ学園問題を含む政局における政府や官僚たちのあからさまな答弁などの嘘を思い出さずにはいられなかった。嘘をごまかすためにまた嘘を重ねて事実を否定するところから始まって、その裏づけの書類を改ざんしたり捨てたりしたかと思うと、事実を嘘だったのだと否定しようとするまで、嘘を嘘で糊塗するまでの嘘だらけである。聞かされるこちらが情けなくなる。
 嘘を嘘で固めて何とか追求を免れようとしている現政権をめぐる嘘は最早「パーソナリティ障害」ならぬ「ガーバメンタリティ障害」だとでも言わねばならないのではなかろうか。この結末をどうつけるつもりなのであろうか。この国の将来さえ危うくなって行きそうである。 

奈良散策2万歩

 奈良の観光案内から、春日神社の藤を見て、帰りに国立博物館でやっている「春日神社のすべて」という春日神社所蔵の宝物類を見に行こうとプランを立てていたのに、いつの間にか藤も散ってしまい、そのままになっていたが、先日、思い直してしばらく振りで、奈良へ行って来た。

 観光地としては京都の方が見るものも多く場所も広いが、京都は街の中に観光資源があちこちに散らばっている感じなのに対し、奈良はずっとコンパクトだが、全体が公園のようで、鹿もいるし、その中に観光資源がばらまかれている感じで、ゆっくり楽しめるのは京都より奈良である。外国人などにも奈良の観光を勧めることが多いし、私自身も奈良の公園が好きなので、時に出かけて散策している。

 その時々で訪れる場所も違うが、今回は奈良ホテルの南に旧大乗院庭園というのを地図で見つけ、これまで行ったことがないので、どんなところか確かめたいと思い、そちらへ足を向けた。その後、奈良ホテルから東に広がる荒池や鷺池の浮御堂あたりの様子も久しぶりで確かめ、そこから春日神社へ行くことにした。

 その日は難波から近鉄で奈良へ行くことにしていたのだが、難波で近鉄電車に乗ってから人身事故のため運休と言われて、地下鉄で天王寺まで出て、JRの大和路線で奈良まで行くことになった。

 おかげで久しぶりのJR奈良駅であったが、駅周辺の変わりように驚かされた。駅が高架になり西側にホテルやホールが出来たのは知っていたが、東側にも広い広場が出来、ビルが立ち並び、昔の立派な建物の駅舎は保存されて観光施設になっていた。

 駅を出て三条通りを東へ進んだが、この通りも元はもっと狭い通りだったのが、両側とも拡げたのか、随分広くなって殆ど新しい建物が続いている。しかし藤田ホテルは昔のまま残っていた。

 その道を猿沢の池までまっすぐ進み、池の縁を南へ周ったあたりで休憩した。近鉄奈良駅からと違い、JRの駅からここまでは結構距離がある。写真を撮ったり、スケッチをして水分の補給もした。そこから少し東南へ行き、ビジネスホテルの南にある狭い路地を通って奈良ホテルの敷地に入り、クラッシックな教会の横を通って、坂を上り、奈良ホテルへ辿り着いた。

 ここばかりは昔ながらの木造の建物のままで懐かしさを感じるが、フロントあたりを少しばかり覗いただけで、今度は坂を下って正門から外へ出て、少し南下して旧大乗院庭園の入り口の建物に入る。

 この大乗院というのは江戸時代には旧門跡の大きな寺だったそうだが、明治維新後の廃仏毀釈で廃寺となり荒れ果てていたそうで、その敷地内の高いところに奈良ホテルが建てられてということらしい。その後も低い部分にはゴルフコースが出来たりして荒れたままだったのを、最近になって庭園として修復されたということらしい。昔は池の西側に寺の建物が並んでいたようだが、いまは緑の山を背景にした池に赤い橋がかかっているオープンな感じの景色になっていた。

 ここでも小休止をとった後、今度は北へ荒池の間の道を通り抜け、荒池に沿って北の道を東へ入り、途中から池の東の緑地へ降りた。荒池から続く川のように細くなった池が浮御堂のある鷺池まで続いており、静かな緑地になっているが、まだ朝早いためかほとんど人もなく、鹿の群れが静かに身を寄せ合っていた。

 ここらは北の少し高くなった興福寺春日神社のある春日野と違って、低地で池が続いたりする湿地帯で、昔から何もない千萱などが生い茂った荒地だったのではなかろうか。浅茅が原と呼ばれ春日野から散策に来た人たちに歌などを詠まれることになったのであろうか。

 鷺池の浮見堂には休んでいる人もいたが、周りは緑と水の静寂に包まれ、朝の爽やかな風に吹かれて、いつまでも留まりたくなるような豊かな気分にさせてくれた。ここでもしばらくゆっくり休み英気を養ってから、橋を渡り春日野へと坂を上がった。

 春日野の林の間の道に出ると、そこでこれまで知らなかった珍しい建物に出会った。古い歴史があるような茅葺の建物で、大きく開いた窓が全て円形なのである。歴史がありながらモダンな感じもするユニークな建物である。ところが、周辺を回ってみてもどこにも説明がない。近くで作業をしていた人がいたので聞いてみたが知らない。

 どういう建物だろうかと思って、スマホで調べてみると、円窓亭というのだそうで、元は春日神社の経堂の一つだったのが、いつの時代かにここに移築されたものという。今でもあまり人に知られていないようだが、このあたりは梅林になっており、観梅の頃にはこの円窓亭を背景に梅の写真を撮ったりする人がいるそうである。

 次に、ここから少し北へ進み、一の鳥居から少し入ったあたりの春日神社の本参道に出、そこから長い長い道のりを本殿まで歩むことになる。流石にここまで来ると、平日の午前だというのに大勢の参拝客でいっぱいである。ただ昔と違うのは、半数以上が外国人だということ。所々で人が集まっていると思えば、鹿にせんべいをやりながら写真を撮っている人たちの集まりである。

 ようやく本殿近くまで行った所に茶店があり、「万葉粥」などと出ていたので、混み合う昼を避けて先にここで食べようかと思ったが、時間が早過ぎてまだやっていなかった。時間潰しも兼ねてと思い、すぐ横に入り口のある万葉植物園に入った。そこを見てから本殿まで行き、引き返せば適当な時間になるのではと考えた。

 万葉植物園にはこれまで入ったこともなく、さして期待もしていなかったが、思ったより広く、万葉集由来のいろいろな植物の解説展示があるほか、原始の春日山の名残をとどめる巨大な大木や、倒木から垂直に伸びた複数の木など珍しいものもあり、時期は過ぎていたものの、立派な藤園もあり、結構楽しめた。

 次に予定通り春日神社の本殿に行ったが、ここは案の定いっぱいの人。ここは何度も訪れているので、一見しただけで殆どパスし、裏道から廻って新しく出来た国宝殿へ行く。この辺りは修学旅行と思われる学生達で混み合っていた。この横が観光バスの駐車場になっているので、バスでやってきた人で溢れているようであった。

 這々の体で人混みを避けて、先の茶店まで戻って、そこの庭で茶粥を食べて昼の休憩をとった。食事をすませ、しばらくゆっくりしてから、今度は参道を戻り、途中から人混みを避け、参道から抜け出して国際フォーラムの前に出た。

 そこに続く広場では、ムジーカ・プラッツ2018という催しをしており、開催前であったが、すでに入場者が列を作り始めていた。広場の周辺にも人が大勢座り込んで、始まるのを待っているようだった。周辺の少し高くなった所の木陰に腰を下ろしてビールを飲んだが、まだなかなか始まりそうにないので、諦めて帰ることにした。

 いささか歩き過ぎた感じなので、スマホの万歩計を見ると19,000歩を過ぎていた。家に帰るまでを考えれば、確実に2万歩は超えることになる。知らないうちによく歩いたものである。

 そこから駅までは歩道いっぱいに駅の方からやってくる人人人の大行列。何処までいっても終わらない。反対方向に歩くのが大変である。もう午後になっているのに、まだまだ駅からやって来る人ばかりであった。ようやく近鉄奈良駅にたどり着いた。それでも、早く来てよかったものである。まだ午後1時過ぎ、おかげで帰りの電車はゆっくり座れて帰った。

映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」

 韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」を見た。1980年の光州事件を扱ったもので韓国では1200万人もの観客を動員した映画らしい。

 この時代、韓国では戒厳令が敷かれており、メディアの報道も完全にブロックされていたので、光州事件についてはなかなか国外にまで伝わりにくかったが、日本にいたドイツ人のジャーナリストが光州に乗り込み、現場の実態を外国メディアに公開して実態が広く知られるようになったと言われている。

 そういった事実に基づいて作られた映画で、映画ではドイツ人記者がたまたま掴まえた個人タクシーの車で行ったことになったいるが、実際には朝鮮総連や韓国の組織の協力があって送り込まれた記者で、タクシー運転手もその関係者だったという説もあり、韓国では今だに分かりにくい事件で、色々議論があるところなのだそうである。

 それは兎も角、映画の設定では、そのドイツ人記者が光州に行くことをたまたま知った個人タクシーの運転手が、ただ金のためにその記者を乗せて行くことになっており、その運転手は嫁さんに逃げられて娘と二人暮らしで、歌謡曲の好きな何処にでも見られそうな運転手ということになっている。サウジアラビアで働いたことはあるが、その記者とは英語でのコミュニケーションも十分でない。そのタクシーがソウルからはるばる光州に向かい、途中、戒厳令により封鎖されている検問所をうまく突破したり、山の中の迂回路を通ったりしてなんとか光州に入ることになる。

 そこで軍隊が学生を主体とするデモ隊を実弾で弾圧する現場に直面することとなり、ドイツ人記者とともに軍隊や警察に追われながら、被害者を運んだり、病院を訪れたりし、自分たちも警察に追われて逃げなければならなくなったりして、一緒に行動しているうちに記者と運転手との間の理解が自然に出来、なんとか逃れて生還することになるストーリーである。

 光州事件という深刻な事件を扱いながら、その中に入り込んでしまうのではなく、出来るだけ他所から来た人の中立的な目で、しかし次次に起こる残虐な事実を冷静に見て描き出している手法が成功の元だと思われる。お終いに近いカーチェイスあたりは余分な気もするが、なかなか見ごたえのあるよく出来た一件に値する映画だと思った。

 

アイヒマンはヒトラーの意思を「忖度」してユダヤ人を虐殺した

 以前にアメリカの空軍基地からドローンの無人機によるイスラム国への攻撃について、係りの兵士は倉庫のような部屋の中で、モニターの画面だけを見ながら、忠実に命令に従ってドローンを飛ばしていただけだが、攻撃される先では多くの無辜の住民までが犠牲になっている悲劇について書いたことがあった。

 それはヒトラーの命令を忠実に聞いて、真面目に多くのユダヤ人を殺戮したアイヒマンのケースと変わらないのではないかということを非難したものであったが、先日の朝日新聞の政治季評欄における早稲田大学の豊永郁子教授を読むと、ヒトラーの命令があったことは明らかでなく、むしろ否定的で、各地で展開された大量虐殺も含めて、これらの非道な行為は殆ど皆ヒトラーの命令ではなく、その意思に対する「忖度」が起こした可能性が強いという。

 「アイヒマンヒトラーの意思を法とみなし、これを粛々と、時に喜々として遂行していたことは確かだ。しかし大量虐殺について、ヒトラーの直接または間接の命令を受けていたのか、それがあがなえない命令だったのかなどは、どうもはっきりしない。」と書いてあり、ニュルンベルク裁判などで見ても大量虐殺に関するヒトラーの命令の有無についてははっきりしていないようである。

 この教授は前国税局長官佐川宣寿氏の証人喚問を見ていて、このアイヒマンを思い出したと書いてられる。命令がなくとも、大きな組織でトップの方針があれば、部下たちは組織の中での自分の立場を考え、トップの意向を忖度して行動することになりがちである。今の官僚組織などはまさにその典型であろう。

 忠実な官僚であればこそ、自己の出世欲や金銭欲、出世欲、競争欲などと現在の立場を考慮する時に、得てして基本的な人間としての立場を忘れて、周囲の雰囲気の中でいかに生きていくかが優先されることになりがちである。個人としては優れた人も、大きな組織の中では、その中でいかに利口に生きていくかを考えることになる。

 それがあらぬ「忖度」となり組織までをあらぬ方向に導き、誤りが発覚しても姑息な手段や、嘘をついってでも組織を守ろうということになる。ハンナ・アーレントが指摘したアイヒマンも真面目な官吏で、その行為も正にこういったことだったようである。

 森友、加計両学園に絡む佐川氏や簗瀬氏らは何とか国会での追及などをかわしたようであるが、官僚たちのこれら「忖度」の行為は、単に現政権における問題だけでなく、この延長線上ではアイヒマンのもたらした残虐行為と同じことが、将来また起こりうることを示す恐ろしさを知るべきであろう。

 

言葉で誤魔化されるな

 「戦闘」が行われても「戦闘行為」はなかったというような滅茶な言い方が通るのに呆れていたら、自衛隊の海外派遣では、憲法と海外派兵の矛盾を法規上無理やり整合性を取らすために、滅茶苦茶な言葉な使い方が広く使われているようである。

 最も驚かされたのは、同じ一つの英語<command>とあるのを、都合の良いように、ある場合には「指図」と訳し、違う場合には「指揮」と二つの日本語に分けて翻訳して勝手に使い分けて、日本語の公式文書を作っていることまであるそうである。元が一つなので、実際にはその元の<command>という言葉に基づいてことが進められるのに、なぜ日本語で使い分けねばならなかったのか。国民の目をごまかすためとしか考えられない。日本の官僚はそこまで自分たちに都合の良い文章を作らされいるのである。

 PKF(国連平和維持軍)が争い合う勢力間の仲裁だけでなく、交戦主体になったために、それに加わった自衛隊憲法上、禁止されている交戦を避けることが出来る言い逃れのために国内向けに無理な言葉遊びでごまかそうとしたのであろう。

 PKF(Peace Keeping Force)というのが部隊の名称であるが、日本ではPKFという言葉はほとんど使われず、PKOすなわち(Peace Keeping Operation )というのも、軍隊であることを曖昧にして、その行動に参加しているだけだと言いたいのであろう。

 さらに「武器を使用」しても「武力行使」にあたらないとも言われている。こうなると最早自己矛盾も明らかで、普通の日本語としては理解出来ない段階ではなかろうか。現実を欺くためにここまで無理をしなければならないのであれば、むしろ現実を変える努力をすべきではなかろうか。

 最近の国会での答弁を見ても、あまりにも記録や記憶がなかったり、それが後に出てきたり、改竄されたりしていることが多いが、元になる文章でさえ巧みに表現を変えられたりして、都合の良い解釈がまかり通るようになっているようである。

 戦争をしても戦争ではなく、長い間、事変とされたりしてきたこの国の過去を振り返れば、どんなことも美辞麗句に置き換え、解釈を変えて自分を欺き、他人まで欺こうとして、挙げ句の果てには破綻せざるを得ない歴史を今も繰り返しているように思えてならない。どういう結末が待っているのだろうか、空恐ろしい。

 

 

ソール ライターの写真展

 伊丹の美術館でソール ライター(Saul Leiter)の写真展を見た。ニューヨーク出身の写真家で、数十枚の写真を主とした展覧会であったが、この写真展を見て、久しぶりにガツンと頭を殴られたような気がした。

 昔は写真といえば、どこに焦点を合わすか、絞りをどうするか、シャッタースピードをどのぐらいにするかが基本で、全てはそこから始まったものであった。ところが最近はカメラの性能が良くなり、スマホででも精密な写真まで簡単に取れるようになり、日常生活でも、文字と同じぐらいにどこででも広く写真が使われるようになり、写真が誰にとっても身近なものになった。

 しかし、あまり簡単に取れるようになったので、写真の原点としての撮り方などを考えることがなくなり、結果として、最近見る写真はいつしかどれもパンフォーカスの表面的な写真ばかりとなり、いつの間にかそれに馴染まされてしまって、写真の原点に立ち返ったような写真、写真でしか出来ない表現と言ったものが忘れがちになっていたような気がする。

 このソールライターの写真展は私にそういった写真の表現の原点を嫌という程思い出させてくれた。世に溢れる写真の中で、報道写真や風景写真などを見て、その被写体に感心することは時にあっても、写真的な表現の仕方に驚かされることはあまりないが、この写真展は表現の仕方に警告を与えてくれた数少ない写真展であったといえよう。

 鋭いピントがあった点と周囲のボケとのコントラスト、それによる立体的な画面の構成が思わず昔の写真の原点に帰れと警告しているように思えた。ある一点に焦点を当て、周囲を極端にぼかして、目的物を鮮明に浮かび上がらせる方法は当たり前のことだが、最近はあまりお目にかからない方法である。

 高架鉄道から見下ろした下にだけピントを合わせた写真、雨に濡れた建物の中からガラスを伝わる水滴にピントが来ていて、その向こうに写るボケた人物のシルエットが主役になっている写真など、浅いピントで視野の一部だけを浮かび上がらせ他を極端にボケさせた表現などは写真でしか出来ない表現で、今ではあまり見られなくなってしまったが、今一度振り返って、こうした表現の仕方を利用しても良いのではないかと思った。

 もちろんこのソール ライターという人は本来画家なので、色彩感覚にも富み、「カラー写真のパイオニア」とも言われる人だけあって、写真の中の色彩の使い方がうまいだけでなく、写真にゼラチン絵の具や水彩で着色したような作品も中々味があり楽しませてもらった。