言葉で誤魔化されるな

 「戦闘」が行われても「戦闘行為」はなかったというような滅茶な言い方が通るのに呆れていたら、自衛隊の海外派遣では、憲法と海外派兵の矛盾を法規上無理やり整合性を取らすために、滅茶苦茶な言葉な使い方が広く使われているようである。

 最も驚かされたのは、同じ一つの英語<command>とあるのを、都合の良いように、ある場合には「指図」と訳し、違う場合には「指揮」と二つの日本語に分けて翻訳して勝手に使い分けて、日本語の公式文書を作っていることまであるそうである。元が一つなので、実際にはその元の<command>という言葉に基づいてことが進められるのに、なぜ日本語で使い分けねばならなかったのか。国民の目をごまかすためとしか考えられない。日本の官僚はそこまで自分たちに都合の良い文章を作らされいるのである。

 PKF(国連平和維持軍)が争い合う勢力間の仲裁だけでなく、交戦主体になったために、それに加わった自衛隊憲法上、禁止されている交戦を避けることが出来る言い逃れのために国内向けに無理な言葉遊びでごまかそうとしたのであろう。

 PKF(Peace Keeping Force)というのが部隊の名称であるが、日本ではPKFという言葉はほとんど使われず、PKOすなわち(Peace Keeping Operation )というのも、軍隊であることを曖昧にして、その行動に参加しているだけだと言いたいのであろう。

 さらに「武器を使用」しても「武力行使」にあたらないとも言われている。こうなると最早自己矛盾も明らかで、普通の日本語としては理解出来ない段階ではなかろうか。現実を欺くためにここまで無理をしなければならないのであれば、むしろ現実を変える努力をすべきではなかろうか。

 最近の国会での答弁を見ても、あまりにも記録や記憶がなかったり、それが後に出てきたり、改竄されたりしていることが多いが、元になる文章でさえ巧みに表現を変えられたりして、都合の良い解釈がまかり通るようになっているようである。

 戦争をしても戦争ではなく、長い間、事変とされたりしてきたこの国の過去を振り返れば、どんなことも美辞麗句に置き換え、解釈を変えて自分を欺き、他人まで欺こうとして、挙げ句の果てには破綻せざるを得ない歴史を今も繰り返しているように思えてならない。どういう結末が待っているのだろうか、空恐ろしい。

 

 

ソール ライターの写真展

 伊丹の美術館でソール ライター(Saul Leiter)の写真展を見た。ニューヨーク出身の写真家で、数十枚の写真を主とした展覧会であったが、この写真展を見て、久しぶりにガツンと頭を殴られたような気がした。

 昔は写真といえば、どこに焦点を合わすか、絞りをどうするか、シャッタースピードをどのぐらいにするかが基本で、全てはそこから始まったものであった。ところが最近はカメラの性能が良くなり、スマホででも精密な写真まで簡単に取れるようになり、日常生活でも、文字と同じぐらいにどこででも広く写真が使われるようになり、写真が誰にとっても身近なものになった。

 しかし、あまり簡単に取れるようになったので、写真の原点としての撮り方などを考えることがなくなり、結果として、最近見る写真はいつしかどれもパンフォーカスの表面的な写真ばかりとなり、いつの間にかそれに馴染まされてしまって、写真の原点に立ち返ったような写真、写真でしか出来ない表現と言ったものが忘れがちになっていたような気がする。

 このソールライターの写真展は私にそういった写真の表現の原点を嫌という程思い出させてくれた。世に溢れる写真の中で、報道写真や風景写真などを見て、その被写体に感心することは時にあっても、写真的な表現の仕方に驚かされることはあまりないが、この写真展は表現の仕方に警告を与えてくれた数少ない写真展であったといえよう。

 鋭いピントがあった点と周囲のボケとのコントラスト、それによる立体的な画面の構成が思わず昔の写真の原点に帰れと警告しているように思えた。ある一点に焦点を当て、周囲を極端にぼかして、目的物を鮮明に浮かび上がらせる方法は当たり前のことだが、最近はあまりお目にかからない方法である。

 高架鉄道から見下ろした下にだけピントを合わせた写真、雨に濡れた建物の中からガラスを伝わる水滴にピントが来ていて、その向こうに写るボケた人物のシルエットが主役になっている写真など、浅いピントで視野の一部だけを浮かび上がらせ他を極端にボケさせた表現などは写真でしか出来ない表現で、今ではあまり見られなくなってしまったが、今一度振り返って、こうした表現の仕方を利用しても良いのではないかと思った。

 もちろんこのソール ライターという人は本来画家なので、色彩感覚にも富み、「カラー写真のパイオニア」とも言われる人だけあって、写真の中の色彩の使い方がうまいだけでなく、写真にゼラチン絵の具や水彩で着色したような作品も中々味があり楽しませてもらった。

「橋本惠史のお愉しみ会」

 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールであった「橋本惠史のお愉しみ会」

というのに行ってきた。私が以前にある病院で一緒に勤務したことのある後輩の先生の息子さんが橋本惠史その人であり、案内をいただいたので、女房と一緒に出かけたのだった。

 大阪芸大を出たテノール歌手だということは聞いていたが、それ以上のことは何も知らなかったので、正直なところ、行くまでは、まだ社会的に名も売れていない個人の会で2000名も入る大ホールが果たして埋まるものだろうかとか、一体こんな広い会場で個人がどんなパーフォーマンスをするのだろうかなどと気になっていた。

 ところが心配は無用であった。数年前からはじめは300人ぐらいのところから始まり、今回が6回目ということで、広い会場もほぼ満席。催し物も、歌に踊りは言うまでもなく、40〜50人にも及ぶ共演者とともに次々と出し物が続き、本格的なメンバーを揃えたオーケストラから、小劇、おまけに本人の落語まであるという盛り沢山なスケジュールで、観客の反応も良く大成功であった。

 本人は初めから終わりまで、何度も衣装を変えての出演で大変だっただろうと思われるが、なかなか多能な人で、本業とも言える声楽だけでなく、劇の構成、アレンジなどもされるようだし、桂文枝に弟子入りして「歌曲亭文十弁」(ブントーベン)の名まで貰ったという落語も本格的なものである。

 それだけでも立派だと思われたが、まだ若い人なのにこれだけの共演者を集め、これだけ大きな催し物をオーガナイズする能力の素晴らしいさ、ちゃっかり多くの企業などのスポンサーもつけ、しかもこの催しがカンボジャに中学校を立て、音楽教育に貢献するるためのチャリティコンサートになっていると聞いては驚かないではおれなかった。

 世の中の高齢化が進み、経済は停滞し、人々の暮らしも景気も一向に良くならず、森友学園加計学園問題などをめぐる政治の混乱などで、あまり明るい展望が開けない世の中では、老人の気分も沈滞しがちとなるが、この催しに本人を始め、若い共演者たちの熱気に溢れた演技を見て、若者たちのエネルギーを感じさせられ、未来への期待も湧いてくるような気さえした。

 チャリティーの目的であるカンボジャの中学校が1日でも早く完成するのを願うとともに、この若者たちのエネルギーがますます発展して明るい未来が開けることを願わないではおれなかった。

 序でに、一つ付け加えたく思ったことは、戦争も縁遠くなった若者なのに、どうして

劇中に特攻隊やビルマの縦琴が出てくるのか、少し不思議な気がしたが、お父さんの影響でもあるのであろうか。私たちの戦争経験者からすれば、何らかの形で無残だった時代のこともいつまでも語り継いで行って生かして貰いたいものである。

LCACって何か知ってますか

 5月13日の新聞に、米軍揚陸艇夜間訓練、地元に不信感という見出しで、佐世保湾で今年の1月以来LCAC(エルキャック)という米軍の揚陸艇が夜間に騒音を出して訓練を続け、地元民が困惑しているが、地位協定のために政府は何ら関与することが出来ないという記事が出ていた。

 もともと、この駐機場は佐世保市内にあったのを、住宅地に近くて騒音が問題となったので、国が対岸の西海市に移転したものだが、移転に際して「夜間や早朝の訓練をしないよう米軍と調整する」という協定を国と市が結んで、移転を進めたものであった。

 それにもかかわらず、米軍が市への事前通告もなく訓練を始めたため、夜間の騒音や漁業者などへの危険性を憂え、市が滋賀防衛局に抗議したが、米軍は協定の制約を受けないとし、訓練を今後も続けるとしているそうである。

 国と市の協定よりも日米地位協定が優先し、米軍基地の管理権は米軍にあるので、日本政府は米軍の運用になんら関与することが出来ず、国と市の協定は「米軍と調整する」としているだけで、国は初めから米軍の訓練を止められないことがわかっていて、国民の目をごまかすために協定を結んだに過ぎなかったことが明らかになった。

 日米安保条約、それにもとずく日米地位協定のために、米軍による被害に対していつも泣き寝入りさせられてきた問題は、沖縄の基地問題だけでなく、日本国中どこでも起こることであり、今後も同様なことがいつまで続くことかもわからない。国は国民の安全と平和な暮らしを守るために、それこそ憲法を変えるよりも前に、地位協定の改定に取り組み、平等な条約に切り替えることこそが切実な問題ではなかろうか。

 それはともかく、LCACとは聞き慣れない名前だが、一体どういうものだろう。オスプレイは随分有名になったが、水上でも何か新兵器でも出来たのかと思って調べてみた。

 LCACというのはLanding Craft Air Cushionの略で、エアクッション型揚陸艇というのだそうである。戦車などの揚陸に使われとかで、自衛隊も6艇ほど所有しているとのことである。どういうものかというと、何のことはない。昔、宇高連絡その他でよく使われていた高速艇、ホーバークラフトの類なのである。

 一時流行ったホーバークラフトは速いが、騒音、振動、悪天候に弱い上、運行コストが高くつき過ぎたためにいつしか姿を消していったが、軍用ではこれらの欠点はあまり考慮しなくてもよいので、上陸作戦などで戦車やトラックなどの重量物の運搬に有用なのだそうである。

 ただ運転は難しいらしく訓練が必要なのだろうが、ホーバークラフトのことを思い出してみると激しい騒音が周囲で問題になるのも容易に想像される。あのやかましい音が静かな湾岸に毎晩のように響いては誰しも文句を言わないではおれないのも当然であろう。

 沖縄の人たちだけでなく、全ての国民が自らの生活を自ら決められる独立国になることを望んでいるであろう。国民に責任を持つ民主的な政府であれば、憲法改正よりも前に、一刻も早く地位協定の改定に取り組み、国民を苦しみから解放するべく努力すべきではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017/04/05 - LCACは全長26・7メートル、最大幅14・3メートルで排水量は85トンと比較的大きく、 おおすみ型に2艇ずつ搭載。おおすみ型は「おおすみ」「しもきた」「くにさき」の3隻が存在するので、海自全体としては計6艇を保有していることになる。
 
LCAC(えるきゃっく)は、エア・クッション型揚陸艇に対する呼称である。"Landing Craft Air Cushion"に由来する艦種記号が、転じてエア・クッション型揚陸艇そのものを指す略称として用いられている。 アメリカ海軍などで用いられている。また、日本の海上 ...

 

「戦闘行為」よらない「戦闘」による戦死は「名誉の戦死」にはならない?

 先日新聞を見ていて驚いた。野党議員が海外派兵の自衛隊の日報にあった「戦闘」という記録について「質問主意書」で質したところ、政府は「国語辞典的な意味での戦闘と自衛隊法などで定義する戦闘行為とは異なる」という答弁書を作り、閣議決定されたそうである。空いた口が塞がらないと言わねばならない。

 言葉の意味が不確かな時には、国語辞典を引いてそれを根拠に考えたり、発言したりするのが普通であろう。政治的なやりとりで、同じ言葉でも政府に都合のようような言葉に置き換えることはこれまででもしばしば見られるが、今度の場合には同じ言葉の意味まで勝手に都合よく変えようというものである。

 皆に共通した言葉を根拠に議論がなされ、法律なども作られ、社会が動いているのに、その言葉が通用しないのであれば話し合いも出来ないことになる。

 戦争を平和のためというのは昔から世界的に権力者が使ってきた言い回しだし、全滅を玉砕、退却を転進と言い、やがては敗戦を終戦、占領軍を進駐軍などと言葉を置き換えてきた政府の歴史は古いが、同じ言葉をそのまま使って内容を変えようという試みは流石にあまり聞いたことがない。

 また、法律の文面をいかに都合の良いように解釈するかを考えるのも役人の仕事と言える程で珍しくもないが、文章でなく単語の意味まで勝手に都合よく解釈されては、議論の土台をなくしてしまうことになりかねない。

 日本語として使う「戦闘」が「法律上は戦闘」に当たらないというのなら、あらかじめ法律的な戦闘に当たる言葉を作るか、戦闘という法律用語の定義を決めて周知徹底しておかないと、政府と国民の会話が成り立たないことになるであろう。

 同じ戦闘といっても強さも性質もいろいろであることは当然であるが、自衛隊法などでは多大な犠牲者でも出さなければ戦闘行為にならないというのであろうか。軽度な戦闘で死んでも戦死にはならない可能性も強くなりそうである。それはともかく、政府と自衛隊にだけしか通用しな言葉を避けて、誰にでも通用し同じ解釈が出來る共通の日本語で意思疎通を図ることが必須ではなかろうか。

 日本語を守るためにも、政府が言葉やその意味を勝手に変えたりして言い逃れをするのは止めていただきたいものである。

 

耄耋独語(ぼうてつどくご)

 もう十年近くにもなろうか。ある先輩に表題の杉田玄白が84歳で死ぬ前に書いたと言われる文章を教えて頂いたことを思い出して、読み返してみた。流石に玄白、老人の体の衰えや、それによる悩みをうまく描き出しており、今も自分も含めて仲間の老人たちも同じような問題を抱えて、人知れず悩んでいるので、参考のためにここに再録しておきたい。耄耋独語という文が残されているそうである。

 「身体の衰弱が日毎にひどくなってきている。二里の道も次第に切なく感ずる。目が霞んでものがはっきり見えない。灯りをつけても、眼鏡をかけても本が読めない。眼の中に花が散ってうるさくてならない。夜は提灯の灯りが二重に見える。寒くなると水洟が垂れてうるさい。耳はしだいに遠くなる。のぼせの強い朝は耳鳴りがしてうるさい。歯は一本も残っておらず、固いものは何もたべられない。歯という垣根がないので食べている途中にこぼす。人と話すとき歯音が欠けてしまう。黄楊製の入れ歯も馴れたと思う頃には木目が毛羽立ってざらざらと舌にさわり、物の風味がよくないし気持ちが悪い。屁が漏れやすい。しばしば便秘する。厠にいる時間が長くなる。便をする度に脱肛する。小水は陰器が縮まっていて思わぬ方に飛び散ったり、近くなって夜も昼も何回も行かねばならず、間に合わず漏らしてしまう。その不浄不潔はたとえようがない。尾籠なことをしでかさないか心配で高貴な人らの席に出るのが怖い。足はにわかに痛んだり転筋(こむらがえり)をおこしたりする。立つにも坐るにもふらついて倒れそうになる。同じ話を何度もして人に笑われる。友人や召使の名を呼びちがえる。古いことは覚えているのに、たった今しまいこんだ日用品の場所を忘れる。字を間違って書いたりする。何を書く積もりだったか忘れて紙に向かってぼんやりすることがある。腰の衰弱がはなはだしい。道を歩いていると急ぎ足になって前のめりになって転びそう。老人たるつらさは限りない。この身は神仙ではないから老いぼれとて片時も無心無欲でいられない。頭上に雷が落ちてもかまわぬなどという気持ちにはなれぬ。木偶人形のように不感無覚ではいられない。何の悟りに達するのでもない誠に無益な長命である。死んだ方がましではないかと思われることもあるのだ。老人たることの嘆き、辛さ、不便さ、苦しさを思えば長命も詮無いものに思われてくる。老衰のみじめさを知らない人々のためにと思ってこの身に経験した事どもを八十にあまる老いの手で書き留めてみた次第である。」(中央公論社刊 日本の名著22 杉田玄白 老いぼれの独り言 緒方富雄訳)

 

EQUALITYとEQUITY(平等と公平)

 

 SNSを見ていたら面白いカトゥーンが出ていたので、ぜひ広く知って欲しいと思ってここに乗せておきたい。下図のように塀の外から野球を見るのに大、中、小 の背丈の違う大人と子供に、同じように踏み台にする箱を提供する場合の図である。

 大人は始めから箱に乗らなくても観れるので、踏み台は不要であるが、中の背丈の大きな子供は箱の上に乗れば、丁度顔が塀の上に出るので野球を楽しめるようになる。ところが小さな子供は踏み台の箱を貰っても、まだ塀の上にまで届かないので役に立たない。大人にとっては不要な踏み台を借りて、二段積みにするとなんとか塀の上から野球を見ることが出来るようになった。

 右図のように背の高い大人にはなし、大きい子供には一箱、小さな子には大人の分を回して2箱提供すると、皆が同じように楽しく野球を観れることになるわけである。皆に均一な援助がよいのではなく、それぞれの人の特性に合わせた異なった援助をして、初めて皆が平等に野球を見る権利を持つことが出来ることを示している。

 世界は種々な人々から構成される多様性が大きな特性であるが、いろいろな行政の政策や措置などでは、えてしてこういった人々の多様性が無視されて、一律な措置で「やりました」という実績だけを得ようとしがちである。

 このカトゥーンは人々の同等な権利を守り、民主的で公正な世界のためにはEquality(平等)を守るだけでなく、一歩進んでEquitable(公正、公平)な政策を取ることがより大事なこと、EqualityとEquity(fairness)の違いををわかりやすく示しているのが興味深かった

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 このカトゥーンが面白かったので文章を添えてとっていたら、連休中の新聞に『女性専用車に「逆差別」主張という記事が出た。(朝日新聞2018年5月6日)

 それは『偏見やハンディを克服しようと特別な対応をすると、「逆差別だ」と言われてしまうことがある。憲法14条は「法の下の平等」と「差別の禁止」を歌うが、空気のように社会に残る差別が、見えにくくなってはいないだろうか。男女差別を例に考えた。』というものであった。

 そこでは、女性専用車に対し、「男性差別」「痴漢でない男性を締め出すのは憲法14条違反」というブログの書き込みがあったそうである。この人は公職や企業役員の女性を増やすため、一定割合は女性を登用する「クオータ制」にも反対するそうである。

 しかし、いまだに「女子供」と一緒くたにされることさえあり、ジェンダーギャップ指数が144カ国中114位の国で、財務次官のセクハラ問題が持ち上がったり、「女は土俵に上がるな」と言われたりして、どう見ても男女同権にはまだ遠い日本である。社会の公正、公平のためには弱者に対する施策を考えなければならないことがわかる。

 女性ばかりではない。心身の障害者、高齢者、LGBTなどの社会的な少数弱者に対してもきめ細かなそれぞれに対する対策を立てなければ、皆が同じような立場で生活する基盤が出来ないであろうことは、上のカトゥーンを見ればわかるであろう。

 嫌でも現実の社会は Diversity多様性に富んでおり、それが社会の発展の原動力にもなっているのである。全ての人が同じ権利を持って生活出来るようにするためには単に平等な施作で十分なのではなく、少数弱者に対するきめ細かい対策を取ることが必須だということを理解すべきであろう。

 そのためには、女性専用車も優先座席も車椅子もベビーカーも社会として受け入れるのが当然であろう。equality(平等)だけでなくequity( 公正、公平)が民主主義の基本であることを上記のカトゥーンも参考にして、理解を深めて頂ければ有難い。