茶髪禁止の学校

 新聞によれば、大阪府立高3年の女子生徒(18)が生まれつき茶色い髪なのに学校から黒染めを強要され、不登校になったなどとして、府に損害賠償を求めている訴訟を起こしたそうであるが、府教育庁が学校を調査したところ、その生徒の名前がクラス名簿から削除されていたことも明らかになったそうである。

 茶髪禁止という話は以前からよく聞くが、大人が茶髪にしている人が多い時代に茶髪禁止というのは時代遅れであろう。思春期の頃には少し他人と違ったことをしたがるものであり、それがいわゆる不良行為に結びつきやすいというので昔から高校などではいろいろな校則を決めて禁止しようとしているところが多い。

 しかし、反発心の強くなる頃の高校生が、学校が終わったら化粧してどこかへ出かけたり、わざわざスカートをたくし上げて短くするのが流行ったり、制服の丈を短くしたりと、どこの学校でもその時代その時代で違った、無言の生徒たちの反抗の姿勢が見られるものである。

 こうした思春期の子供たちの成長の過程をいかに支え、いかに導いて行くかが高校教育の大事なところである。従って、勉学に重大な影響を及ぼすことや、社会的に守るべき基本的なことははっきりと教育の一環として教育の一環として禁止すべきであるが、それ以外のことについては、学校側の管理よりも生徒の自主性に任せ、生徒会で議論してえ決め、実行すべきもので、むしろ生徒の多様性を尊重することが大事だと思われる。軍隊の学校ではないのだから、直接教育に関わること以外はむしろ各人の個性を尊重しそれを伸ばす努力をすべきであろう。

 ましてや、この事件のように本来の茶髪を染めさせても皆に合わせようとする発想は教育という枠からすら外れているもので、生徒の個性を生かしその発達を促す教育の基本姿勢とは全く反対のものであろう。しかもその生徒の名前まで削除して問題を隠蔽しようとした学校側の姿勢はもはや教育者ではなく、単なる組織の管理者の姿勢と言わざるを得ない。

 訴状によると、生徒は2015年4月に入学。「髪の色は生まれつき」と説明したが、教員から「その髪では登校させられない」と髪を黒く染めるよう繰り返し指導を受け、16年9月から不登校になった。その後、名簿から名前が外されたとして、「学校から排除しようとしているとしか考えられない」と主張していると報道されている。

 近年日教組の活動が抑えられ、国歌や国旗の問題などを通じて教育委員会などの上からの学校への圧力が強くなり、学校の自主性が薄らぎ、民主主義の危機が心配されているが、実際に公立の学校にこのような空気が流れているのを見ると、多様な個性を発展させるべき教育を担う学校がこんなことでは将来のこの国の行く末に不安を感じないではいられない。

 

もの言えぬ世そこまで

 戦争が終わり民主主義だと言って何でも好きなことが言える時代になったことを喜んだ時代が忘れられないが、最近はまた次第にものが言いにくい時代に逆戻りして来ているような気がする。ことにこの数年の間にテレビや新聞などが政府に反対するような記事を取り上げなかったり、大事な点を飛ばして報道したり、一方的な見方しか報道しなくなったりする傾向が顕著に見られるようになってきた。

 NHKなどに対する政府の干渉は年ごとに強くなってきているようであるが、高市総務大臣が中立的な報道でないテレビ局に対しては免許取り下げもありうるような発言した頃から、急速にテレビの放送内容も変わり、三人のテレビキャスターが一斉に辞めたことや、右翼団体が名指しでキャスターの攻撃を新聞広告でする事件があったりして、テレビや新聞の記事がつまらなくなり、世の変遷についていくためには、インターネットなどで他の媒体からのニュースなどからも情報を得なければならないような感さえするようになってきた。

 新聞でも慰安婦問題を契機にした朝日新聞に対する執拗な攻撃があり、以来朝日新聞の記事の取り上げ方も変わってきたようで、現在まともに近い新聞は毎日新聞東京新聞ぐらいであろうかと思われる。

 しかも、これらのやり方は明示的な統制などではなく、スポンサーなどを通じた経済的な圧迫や、日本独特のむら社会などを通じたものによるものと言えるのかもしれないが、いわゆる”世間”を介した陰湿な自主的忖度による実質的な統制が多い。戦争中の言論統制も今と同じような主として同様な自主的忖度によっておこなわれたもので、それが極端であったに過ぎなかったと言えるのかもしれない。

 教育現場に対する締め付けも、中立的と言いながら国家や国旗の押し付けから始まり、最近では教育現場での、保護者などからの密告の推奨などまで行われるようになってきている。国家や国旗が問題になった頃には天皇の「押し付けになるのは良くない」との発言にもかかわらず、実質的には既に義務化されてしまっている。

 また会社などを通じた利権に結びつた言論の抑圧も次第に進み、個々人の自由な発言も大きな利益団体などの大きな声に消されがちなことも多くなり、労働組合の弱体化がこれを加速することにもつながっている。政府がらみの利権に結びつく業界団体などでは良心的な人の政府批判も語れない雰囲気になっているようである。

 こんな変化を見ていると、どうしても昔の大日本帝国を思い出さざるをえなくなる。政府はしきりに北朝鮮や中国の危険を煽っているとしか思えないし、それを利用して軍備を増強し、アメリカにより深く従属しようと躍起になっているようである。そのためには自由な言論を封じて、人々の反対を抑え、しゃにむに従属路線を進めるよりないのであろう。

 最近の北朝鮮の核開発やミサイル発射に対する政府のJアラート警報などの対応は度を越して国民に危機を煽っているとしか考えようがない。そのうちに共謀罪などの国民締め付けの法律が密かに動き出すのではなかろうか。「戦争が廊下の端に立っていた」という有名な句があるが、またこんな歌が自然に思い出されるような時代になってきたことをつくづく感じるこの頃である。

原発被害者をいじめる行政

こんなひどい事があってよいのだろうか?ある人のネットジャーナルを見ていたらこんな記事が目についた。

「この国の行政は鬼畜だ。原発事故からの自主避難者をとうとう被告として訴えたのである。 

 福島県と国は自主避難者への無償住宅供与を今年3月末で打ち切った。これを受けて山形市雇用促進住宅で避難生活を送っていた8世帯は立ち退きを迫られた。 立ち退きを拒否したところ、大家である独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構は、8世帯を相手取り、「住宅の明け渡し」と「4月1日からの家賃の支払い」を求める訴えを山形地裁に起こした。9月22日のことだ。 訴えの法的根拠は、災害救助法にもとづく住宅支援の契約が3月31日で切れたことによる。

 自主避難者とは避難区域に指定されたエリア以外からの避難者のことである。区域外といえども線量は高い。

 国が避難基準とするのは、年間20mSv以上という殺人的な線量だ。チェルノブイリ原発事故のあったウクライナでは年間1mSv以上であれば避難の権利が発生し、5mSv以上は強制移住となる。住民は国家から住宅の提供を得るのだ。世界的に見て日本の避難基準が人権軽視であることがよく分かる。 東電福島第一原発の事故による自主避難者の数は2万6,601人(福島県避難者支援課まとめ=昨年10月末現在)。自らの生活基盤を奪われたのだから、当然収入は減り生活は厳しくなる。

 にもかかわらず自主避難者の99%は、4月1日から家賃を払わせられている。彼らの多くは生活に困窮する。これも人権問題である、と書かれている。

 これは決してフェイクニュースではない。被告となった3名が弁護士とともに霞が関司法記者クラブで記者会見して訴えているのである。

 原発事故で、福島市から山形市に移り住んだ主婦は、高校2年と中学3年の子供を持つ。2人とも甲状腺がん検診ではA2の判定だった。 夫は山形から福島への遠距離通勤で体調を崩し、満足に働けない。彼女は福島にいた時は正規雇用だったが、山形に避難してからはパート勤務だ。収入は大幅に減り貯金もない。

 彼女は次のように窮状を訴えたという。

 「生活が厳しいのなら福島に戻ったらいいと言われるかもしれません…(中略)福島は「安全・安心」を宣伝し、除染も済んだので帰還するようにと言っておりますが、原発からの汚染水は止まらず、デブリの取り出しもいつになるか全く分からない状態です」 「支援を再開してほしいです。これは全国に散らばっているすべての避難者の願いです。払えないものは払えない。戻れない者は戻れないのです」と。

   誰しも原発事故がなければ、自主避難といっても安全かどうかは本人が判断するもので、生活が苦しくなる事が分かっていて住み慣れた家を捨てて移住する者はいない。残留放射線量の基準もチェルノブイリとは大幅に違うし、すぐには顕在化しない危険に対処しなければならないのである。原因は明らかに原発事故なのである。政府の基準がどうあれ、自主避難者は思わぬ災害の被害者であり、このような被害者を守るのは人権の問題であり、究極は加害者の責任である。

 「2020年東京五輪の野球とソフトボール予選の会場となった福島で、原発事故からの復興をアピールしたい。安倍首相がうそぶいた『アンダーコントロール』を力づくでも証明しなければならない。原発事故の避難者がいてはならないのだ ― 霞が関福島県庁から、そんな声が聞こえてくるようだ。」とジャーナルには書かれている。

 国や県、当事者である行政法人は避難者でなく、加害者である東京電力と交渉してでも、被害者の保護に努めるのが当然ではなかろうか。国がいかに大企業に甘く、国民にしわ寄せをして平然としているかを端的に示しているものである。ましてやオリンピックのためにこのような事が行われているのであれば、もはや国民主権の民主主義国家とも言えないのではなかろうか。心から怒りを感じる。

 

 

久保惣美術館

 この美術館はあまり知られていないようだが、明治の初め頃から綿業で財を成した地元の久保惣右衛門氏を記念して、その本宅跡に、和泉市が「和泉市久保惣記念美術館」として昭和五十七年に開設した美術館である。主に中国や日本の絵画、書、工芸品など東洋古美術を主に約11,000点所蔵しているが、市民ギャラリーなども備えて広く市民に開放し、市民の美術教室や発表の機会を用意したり、音楽ホールでは合唱や演奏会などにも行われているようである。

 名前だけは古くから知っていたが、収集品が東洋の古美術である上に、場所が少し離れ、交通の便も良くないので、何十年か前に一度訪れたことがあっただけで、久しく関心を持つ機会がなかった。

 ところが最近、甥がそこで「ピカソと日本美術」という特別展をやっており、ピカソの絵と日本画の対比が面白かったと教えてくれ、割引券まで頂いたので、先日女房と一緒に行ってきた。昔は阪和線のどこかから、バスかタクシーで行ったような気がするが、今は泉北高速鉄道の終点の和泉中央駅からバスで行くようになっている。

 泉北高速に乗るのは 久し振であった。途中の高架駅では、昔そのホームからPLの花火がよく見えるというので評判だったことを思い出したが、、今や駅の周りは高層マンションの林立で、すっかり視界を遮られ、PLの塔すら駅から少し離れた所からしか見えないことにびっくりさせられたし、終点の和泉中央駅やその近隣の大規模な街並みにも目を奪われた。20〜30年も経てばすっかり変わるものである。

 美術館はそこからバスで15分ぐらいの所にあるが、その間もすっかり住宅が立ち並び、立派な高層の大学まであるのにも驚かされた。昔の印象では、田舎の丘陵地帯の奥の方にひっそり建っている感じであったが、今や住宅街の真ん中になってしまっている。美術館の建物も増築されたりして様変わりし、入り口も後から出来た新館からと変わっていて、以前の印象は全く思い出せなかった。

 美術館は敷地面積が五千坪と広いので、新館も含め、音楽ホール以外は全て天井の高い和風の建物となっており、平面的に拡がり、間に茶室や和風の庭や池もある。多くの近代的な美術館とは違って、和風で落ち着いたユニークな雰囲気を醸し出しているのが良い。女房の友人で、この地方に住んでいる人が、外国からの客が訪ねてきた時にはここへ案内すると言っていたそうだが、さもありなんと思われた。

 さて、今回の「ピカソと日本美術」の展覧会はこの東洋風の古美術を集めた美術館にはふさわしくないようにも思われたが、キュレーターの人の努力のせいか、あまり大きな作品はないが、アチコチからピカソの小品を集め、それをほとんど自前の日本美術と対比させたアイデアが興味深く、結構楽しめた。

 ピカソの黒一色で描かれたデッサン調の闘牛士の版画と、日本の古美術とも言える一筆画のような墨絵の対比など、日本画の方はいつも見慣れているが、それと対比して置かれた、ピカソの闘牛士の絵を比べて見ると、一筆で書かれた闘牛士や牛、それに観客など、大胆に描かれた線が生き生きとしており、思わずうまいものだなと感心するとともに、なるほど日本の墨絵の線と相通じるものがあることがわかった。

 久しぶりに訪れた美術館の落ち着いた和風の感じの雰囲気も良かったし、「ピカソ日本画」の企画もユニークで、キュレーターの努力の跡が感じられたし、予めあまり期待していなかっただけに、得るものの多い一日を楽しませて貰えたことを感謝している。

 

日中韓のトランプ大統領への対応

 先日トランプ大統領日中韓三国を歴訪したが、その三国の対応の仕方を見ると現在の東アジアの情勢に鑑みて非常に興味深い。

 トランプ大統領が先ず日本の地を踏んだのは日本ではなく、日本にあるアメリカの領地とも言える横田基地である。そこで大統領は先ず大きな星条旗を背景にして、アメリカ軍の将兵をねぎらった演説を行い、そこからヘリコプターで安倍首相の待つゴルフ場へ向かったようである。

 日本側は下にも置かない丁重な迎えようで、天皇にも会わせたが、トランプ大統領の方からすれば、植民地の視察を兼ねた訪問で、おまけに北朝鮮の危機を煽って、ちゃっかりと高額な自国の兵器を売り付けたというところであろうか。何しろ大統領にべったり媚びへつらう従順な安倍首相の国では、ゆっくり寛げたのではなかろうか。

 それに対して、次に訪れた韓国は日本とはだいぶ事情が異なる。なにせ北朝鮮の最前線である。韓国と北朝鮮は隣同士の、すぐそこの地続きの国だし、元々一緒に行き来して暮らしてきた同じ民族がたまたま別れてしまっているだけなのである。それに、大国中国もすぐ横の地続きの国である。良くても悪くても、これらの国や人々に気を使わないわけにはいかない。戦争でも起きればたちまち首都であるソウルは焼け野原になるだろうし、その損害は計り知れないことになる。

 安倍首相が気楽にアメリカに乗っかって「話し合いの時ではない圧力だ」言っているのに同調するわけにはいかない。トランプ大統領に向かっても「戦争はするな」とはっきり言わざるを得ないし、軍の指揮系統についても主張せざるを得ないであろう。中国との関係も嫌でも調整しなければならない困難な立場にあるだけに、日本のように全てアメリカの言いなりになるわけにはいかないのは当然であろう。言うべき点を言ったという点では日本よりしっかりしているとも言えるだろう。

 最後にに中国であるが、中国は今や大国である。日本や韓国のようなアメリカの属国ではない。アメリカにとっても対等に渡り合って取引しなければならない国である。当然対処の仕方も違ってくる。中国がアメリカの要望を先回りして、三百台の飛行機などの五千万ドルとかの商談を持ちかけてアメリカの言う貿易不均衡の問題の肩透かしをするなど、今や堂々とあメリカと対等に渡り合える実力を示した。トランプ大統領も習主席を持ち上げてインド太平洋地域という言葉を使い出したものの、南シナ海の問題にも強くは出なかった。

 世界がどんどん変わって行っていることを痛感させられる。いつまでもアメリカ一辺倒で中国や韓国を敵に回していつまでも行けるはずはないであろう。すぐとはいかないでも、アメリカから独立して中国や朝鮮などとも関係改善を図り、アジアの中での友好関係を深め、アメリカとも対等に付き合って行ける日の来ることを念じて止まない。

田中慎弥著「孤独論」より

 芥川賞受賞者の田中慎弥の「孤独論 逃げよ、生きよ」という本を読んだ。著者は高校卒業以来、大学受験に失敗してから15年間も自宅に引きこもっていたという経歴の持ち主で、その経験を踏まえて、主として若い人たちに本人なりの生き方を説いた本である。

 本の内容の趣旨は、大勢に流されて自主性のない奴隷のような行き方をせず、孤独になって自分の人生を考え、自分なりに生きよ、というものであり、特別に新たな思想や方策を説くものではないが、一箇所興味のある書き方の所があった。

 そこには「現状に満足するあまり、社会に順応しすぎるのはどうかと思います。順応しているつもりが、気づけば馴致されていた、という事態は往々にして起こり得ますし、それが奴隷化のメカニズムのひとつであることは第一章で述べた通りです。いくら順風漫帆であっても、内面に孤独をいくらか確保しておくのは、奴隷にならずに生き抜くうえで大切なことです」と書かれている。

 これを読んでふと思ったのは、日本の現状についてである。戦後、アメリカに占領されて以来、未だに独立出来ず、アメリカの属國になったまま、今日まで七十年以上もそこから抜け出せないでいるが、その間に朝鮮戦争ベトナム戦争などで、アメリカのおかげで経済は発展し、人々の暮らしむきもよくなり、いつしか属國であることも忘れるぐらいに現状に順応し、馴致されてしまっている事実である。

 現状に慣れてしまい、それで表面的には生活が成り立っているものだから、それが奴隷化のメカニズムに巻き込まれていることにも気がつかなず、せめて内面に独自の孤独、すなわち独立を堅持しておかねばならないことさえ忘れ、奴隷になっていることに気がつかないまま、アメリカへの隷属を続けている日本の現状を示唆しているように読めて仕方がなかった。

 現状がすぐには改められなくとも、人々が奴隷根性に陥ることなく、内にしっかりとした独立心を持って、将来に備えることを忘れないでいて欲しいものである。

トランプ大統領の訪日

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 トランプ大統領の訪日はわずか二日間に過ぎなかったが、日本側の対応は至れり尽くせりであった。大統領がアジアを歴訪するというので第一の訪問国が日本になるよう働きかけたのを皮切りに、前触れのごとくやってきた娘のイヴァンカさんの関連団体にポンと57億円もの寄付を申し出たのが前段階。

 大統領の日本で最初のスケジュールとしては、プロのプロゴルファーまで引っ張り出して、安倍首相とゴルフをするようにし、午後の首脳会談の後には、拉致家族と面会してもらい、夜は大統領の孫に人気があっったとかで、ピコ太郎まで呼んで晩餐会をしたりというもてなし方であった。親密さを感じさせようとした安倍首相の態度は、いかにも属國の大臣が宗主国の長に媚を売っている姿としか見えなかった。

 それに対する大統領は到着は当然横田基地であった。外国ではなく、ここはまだアメリカなのである。ここで基地に勤めるアメリカ軍人に軍服を羽織って演説し、遠い外地で働く軍人達をねぎらったのが最初である。そこから軍のヘリコプターでゴルフ場へ行ったのではなかろうか。外国の首脳を空港で赤じゅうたんを引いて迎える姿とは全く違っている。自分の領地へ行っている感じである。誰も注目しないが、あまりにも当たり前のことだからだろうか。

 ゴルフの後の首脳会談では、安倍首相は日本はアメリカの北朝鮮に対する圧力一辺倒に全面的に協力するとしたが、経済問題となると、トランプ大統領はビジネスマンらしく、そんな事より北朝鮮危機に漬け込んで大量の武器や油を売りつけることに成功している。自慢して上のようにツイッターに書いている通りである。

 トランプ大統領にしてみれば、北朝鮮への圧力は万一戦争になったところで、東アジアで無残な破壊が起こったとしても、アメリカが被害を受けることは少ないことを前提に、圧力を強め危機を煽って武器を売り込むのが得策で、中国や韓国、ロシアなどをはじめ戦争反対の世界的な世論も強いので、究極のところで話し合いで解決できればそれでも良いというようなスタンスで臨んでいるのではなかろうか。

 韓国は戦場になるかならぬかの現場の切迫した臨場感から、日本のように全面的にアメリカにゲタを預けるわけにも行かず、アメリカに同調しながらも、必死に平和的解決の模索を主張しているのがよくわかる。

 そんな中で日本だけがアメリカに追随して話し合いを否定し圧力一辺倒で進めて、究極的にどうするつもりなのであろうか。世界の趨勢から見れば、紆余曲折はあっても、最後は話し合いの解決しかないであろうから、アメリカもそれに同調せざるを得なくなった時のことも考慮しておくべきではなかろうか。そうした場合日本がひとりはじき出されて孤児になる恐れは考えなくても良いのであろうか、心配である。

 今回のトランプ大統領のアジア歴訪は中国訪問とAPEC会議出席のためヴェトナムへ行くのが主な目的であり、日本や韓国訪問は北朝鮮問題を踏まえて武器を買わせようというのがむしろ主な目的なのではなかろうか。