格が違う

 東京都議選における秋葉原での街頭演説で、安倍首相が「安倍やめろ」などと書かれた横断幕を掲げ、反対のシュプレッヒコールをした人たちに対して、ムキになって、「こういう人たちに負けるわけにはいきません」と言ったことが問題になっている。

 聴衆は主権者である国民であり、いろいろの考えを持った人がいる訳である。テレビで見ると日の丸を振っている人もいたし、「安倍やめろ」と叫んでいる人もいたが、黙って話を聞いていた人が一番多かったのではなかろうか。

 総理大臣の選挙戦における応援演説である。当然、国民全体を対象として頭に入れて話すべきであろう。しかし、この首相は国会などでのやり取りを見ていても、すぐに対抗心が起こるのか、質問に答えず相手の弱点を攻撃したり、自分に対する野次を非難しておきながら、大臣席からさえ野次を飛ばしたりすることもある。

 従来の自民党のどの首相と比べても、傲慢で、”自分が一番偉い”と思いながらも、軽薄なのか、若手議員のごとくに、すぐに対抗心をむき出しにする。

 こう言う態度をしばしば見せられてきた上で、アメリカのオバマ前大統領の似たような場面における態度を誰かがSNSで流していたのを見ると面白かった。

 オバマ大統領が演説している途中に、反対する人が飛び込んで来て何やら反対意見をを叫んだようである。この急な出来事に、闖入者に対して聴衆の一斉ブーイングが起こり、騒がしくなって演説が中断された時、大統領が言った。「皆さん静かにしよう」「彼は元軍人のようだ」「彼の言うことを聞こう」「いろいろな意見があるのが民主主義の良いところだ」などというようなことを静かに語っていた場面が流れていた。

 日本も民主主義の国である。いろいろな意見の人がいて当然である。違った意見の人に対してその意見を聞くのではなく、「こう言う人たちには負けてはなりません」などと総理大臣がムキになって言うのは、自ら自分の器の小さいことを証明している以外の何物でもないでしょう

 オバマ大統領の態度と比べるとき、その器の大きさの違いに、改めてこの国の総理大臣の器の小ささを、国民の一人として恥ずかしく感じざるをえなかった。

昭和は遠くなりにけり

 今年はもう平成二十九年、来年には天皇退位で平成も終わり、再来年からは新しい年号が始まるようである。

 私が生まれたのが昭和三年で、それから敗戦の昭和二十年、その後の昭和は63年まで、その間は随分長い感じだったが、平成の二十九年はアッという間に過ぎてしまう気がする。昭和天皇がとうとう戦争について国民に何も言わずに死んでしまって、小渕大臣が平成と書いた紙をテレビで示し、平成元年が始まったのがつい先日のような気さえする。

 思い返してみると、私の子供の頃には明治維新や日清、日露戦争などは随分昔の歴史上の出来事のような感じがしていたが、敗戦の千九百四十五年を基準に考えて歴史を振り返ってみても、明治維新が千八百六十八年、日露戦争が千九百二〜三年、関東大震災が千九百二十三年だから、明治維新でも七十七年前、日露戦争が四十年余り前、関東大震災などはたったの二十二年前のことに過ぎなかったわけである。

 それと比べてみると戦後から今日まではすでに七十二年経ってしまっているのである。明治維新から敗戦までの大日本帝国の全史にも匹敵する長さとも言える。その中でも長い昭和の年代が六十三年に終わってからだけでもすでに二十九年経ったということになるわけである。

 平成になってから生まれた人でも、もう二十九歳という立派な大人である。そんな人から見ればあの戦争も、もう七十年以上も昔にあった古い歴史的事実ということになるであろう。実際に体験し、苦しめられた私たちの世代の者が感じる戦争と、今の若い人が感じる戦争では違った印象になるのは当然であろう。

 平成生まれの人から見れば、父の時代よりもっと前の、祖父の時代の出来事なのである。歴史で習っただけで、父母も実際には知らない過去の歴史である。戦争の悲惨さを教えられても、せめて体験者からの直接の話を聞くのでなければ、話としては理解できても、体で受け止めるような深い理解は困難であろう。

 戦争のことばかりではない。天変地異や何でもない日常の生活のことにしても、いかに伝えようとしてもせいぜい次の世代ぐらいまでで、その次の世代ぐらいになると、もはやいかに伝えようとしても、いかに真実に近付こうとしても、実際の体験者の深い想いにまでは至らず、長い経過の間に委細は消えたり、いろいろな事情が加わったりして、いかに努力しても体験者と同じ理解には達し得ない。

 最近インターネットのSNSの若い人たちの書き込みを見ても、私たちの年代の常識とはだいぶ乖離したところで話がやりとりされていることに驚かされることが多い。

 例えば、豊かな現在の生活からはもう戦前の貧しかった日本の実情を理解できない人たちが増えたのであろうか。戦前でも百姓は皆主食に米を食っていたのが当然のことと思うようで、昭和になっても飢饉があり娘を売らなければならない生活があり、この狭い日本で七千万の人口を養っていけないのは当然だろうとして移民が奨励されたことなどは理解が難しいのであろうか。

 百姓が米を食っていなかったら余った米はどうしていたのかという質問があり、呆れるよりほかなかった。私の子供の頃の体験でも、田舎ではまだ筒っぽの着物を着て、裸足で学校に行く子も多かったし、大阪の郊外でさえ小学校六年で初めて汽車を見た子もいたのである。

 どこへ行ってもボロを纏った乞食がいたし、赤痢や腸チフスで一緒の遊んでいた子が翌日にはもう死んでいたり、結核一家全滅の家などもあった。「一汁一菜百億貯蓄」という国の標語のごとくに食べ物も貧しく、脳卒中で倒れる人も多かった。学校では寄生虫の検査があり、栄養失調が問題であったなど、国民の生活は今からは考えられないぐらい貧しかったのである。

 各地の方言が薄められたのもテレビが流行ってからのことで、それまでは東北の人と薩摩の人では通訳を入れないと全く会話が成り立たないぐらいの言葉の違いがあった。

 戦前の昭和の初めはこんな世の中であった。従って、あの戦争もそんな国状の中で起こった侵略戦争であり、植民地であったわけで、今では考えられないぐらい野蛮な軍隊であり、野蛮な戦争であった。

 戦争も今ではアメリカとの太平洋戦争が主として語られるが、昭和五年の満州事変以来、上海事変支那事変と続く中国への侵略戦争が十年以上も続いた末に、それが大きな原因となって日米戦争が起こったのである。こちらは四年で徹底的にやられて負けてしまったわけであるが、中国との戦争が始めで、泥沼に入り込んだ元凶であったことも認識すべきである。

 すでに昭和は遠くなり、歴史はどんどん過ぎ去って行くが、その間に歴史は必ず後からの恣意的な歪曲が起こるもので、実際の体験者の思いが正しく伝わるものではない。

今では南京事件慰安婦問題などなかったという人までいるが、その時代にはむしろ公然と自慢にして話されていたことであり、後から歴史が改竄されたのが本当のところである。

 個々の歴史は時間の経過とともに歪められていくのは必然とも言えるが、大きな世界の歴史の流れを掴み、その中でその時代の人々がどのように生き、どのような役割を果たしたのかを新しい世代の人たちが見て、そこから未来への教訓を汲み取って行ってくれれば良いのではないかと思っている。

 「大日本帝国」が誤った道に踏み込んで、国内外に多大の犠牲者を作り、取り返しのつかない歴史上の汚点を作ってしまった事実は嫌でも自ら認め、そこから出発するよりないことを知るべきである。

 

四方拝

 80歳を超えてから時間にゆとりが出来たので、毎月一度は箕面の滝に行くことにしている。箕面は小学校の時に住んでいた馴染みの場所であり、箕面の駅から滝まで往復して5.8キロと距離も手頃で、渓流沿いの気持ちの良い道なので、朝早く散歩に行くのに丁度良いのである。

 気候の良い季節には朝早くても結構来ている人がおり、最近は走っている人も増えた感じがする。出会う人ごとに「おはようございます」と挨拶を交わすのも楽しい。滝の前の広場では徒手体操やストレッチをしている人もいる。

 それにさすが日本の滝だと思うのは、滝に着くと、滝に向かって手を合わせて拝む人がよく見られることである。私は戦後に神仏への信仰を捨てたが、未だに多くの日本人は昔ながらのアニミズム的?信仰を続けている人が多いのであろうか。

 私の家の近くの神社は三つ角の奥にあるが、そこを通る人の中には角で少し離れた遠方の神社に頭を下げてお参りをしてから通り過ぎる人をよく見かける。たまたま私がその近くを通る時に角で頭を下げられると、まるで私に向かってお辞儀しているように見えて困惑することもある。

 日本では神も仏も多分に一緒くただが、神様の方は教えの元となる経典のようなものもなく、自然のおそれに対するアニミズム的信仰の傾向が強く、ご神体といわれるものが山であったり滝であったり、大きな岩であったり、大木であったりすることも多い。自然に対する畏怖が神の根源であり、それがいつしか現世のご利益に頼る世俗的な神社信仰につながってきたもののようである。

 従って、通りがかりの時の拝みは何を願うのでもなく、何となく敬うような感じで挨拶しておかねばといったぐらいの気持ちで、半ば習慣的にお辞儀をしているに過ぎないのではなかろうか。

 そんな自然や神との関係で、滝に向かえば自然と滝に向かって頭を下げてお祈りする人が珍しくないのであろうか。そういう人の動作はそれなりに尊重してそっと見守るようにしているが、今朝滝の前で見た人は、それとは少し違い、滝の前で滝を背にして斜め横の方向に向かって手を合わせて拝んでいた。

 初めはふと何を拝んでられるのかと思ったが、見ていると今度は直角に向きを変えてまた同じように手を合わせて頭を下げて拝んでられる。それでピンときた。四方拝なのだ。もうすっかり忘れていたが、子供の頃によく聞かされたし、やらされたこともあったのではなかろうか。

 昔は天と地や、森羅万象の自然と、祖先を祀る行事として、正月や他の祭日などに広く行なわれていたが、戦前までは正月元旦の宮中行事ともなっていたものである。まずは北に向かって起立して北極星を拝み、次いで東、西、南、北と直角に角度を変えて拝み、最後に祖先の霊の眠る山に対してお参りすることになっているようである。

 私には遥か昔の記憶が頭の片隅から蘇ってきてすぐ思い出されたが、六歳下の女房はもう知らないらしく、四方拝など今ではもう死語じゃないのという。無理もない。私にとっても戦後70年以上も一度も聞いたことがなかった言葉ではなかろうか。

 最近は神社にお参りする若者も増えてきているようだが、神社でなくて、このような山や岩、滝やご神木などをご神体と見て手を合わせて拝んでられる人はどういう気持ちで拝んでおられるのであろうか。単に子供の時からの習慣で、いわば癖のように何とは無しに行なっているのだろうか。

 あるいは素直に、それらを通して自然の偉大さに畏怖の念を感じられてのことであろうか。それは想像できても、それと、そこから派生してきた現世御利益的な神に対する感覚と、今の時代を生きる日々の感覚とをどのようにつないで調和させておられるのか、信仰を持たない私にとっては知りたい気がしてならない。

 現世御利益ばかりを並べた神社やお寺の看板を見ているとどうしても信仰心とは結びつかない気がするのは私だけであろうか。

 

 

東京都議選の結果

 東京都議会の議員選挙の結果が明らかになった。小池都知事都民ファーストの会派が勝利し、自民党の惨敗であった。ある程度予想はされていたが、自民党は予想以上の負け方である。

 多くの人が少し溜飲を下げたのではないだろうか。この4年間、ことに最近の自民党政治のやり方はあまりのもひどかった。強引というより傲慢であった。その報いが結果になった現れたといってもよいであろう。そういう意味では、まだ日本の民主主義は死んではいなかったとちょっと安堵の胸を撫で下ろすことが出来たとも言えるだろう。

 最近の国会の目立った出来事だけを見ても、森友学園問題、加計学園問題における説明の無さやごまかし、曖昧さ、共謀罪参議院審議におけるしどろもどろの答弁や、それに続く異常なやり方による強引な裁決、荻生田官房副長官の説明もない文言の否定、稲田防衛大臣の明らかな選挙法違反の居直り、豊田議員の秘書への暴力、下村議員の不正献金等々、次々に現れた疑問や問題に対する政府の対応はあまりにも傲慢で、国民を見くびってきたものであり、そののツケが回ったきたものであり、都民が今回の選挙を通じてで安倍政権に対してノーといったものであろう。

 当然この結果は国政選挙にも影響するであろうが、これで安心は出来ない。小池知事は本来自民党であり、今も辞職届けは出しているものの受理はされていないし、今は口を閉ざしているが、以前には国政選挙では安倍内閣の協力するといっているのである。しかも選挙がおわっっ直後には、知事の仕事に専念するためとして譲った都民ファーストの以前からの幹事長は大日本帝国憲法復活を公然と唱える右翼の政治家なのである。

 今度の選挙の結果、安倍内閣をはじめとする自民党がどのように動くのか、公明党の協力がどうなるのか、当分様子を見なければならないが、都議選にしろ自民党の大敗は久しぶりで長年溜まった溜飲を下げさせてくれたが、国政における政治の動向はまだまだ改善の兆しが見えるには遠く、アメリカ追随の日本の政治の行方は今なお疑問一杯である。

どこも同じ?

  先日、朝日新聞の「折々のことば」に鷲田清一氏が選んだ高見国生と言う人の言葉で「人間てね、親が徘徊して困ってると言う時は泣くけども、人が自分とおんなしことを話すと笑うんですよ。」というのが載っていた。

認知症の人と家族の会」の理事をしてられた方の発言らしいが、認知症の親の介護をしているとそれこそ泣きたくなるほど大変だが、同じ仲間がいて話をしたりすると、「ああ。あの人も同じか」と少し自分を客観的に見れるので、笑う余裕もできると言うことである。

 先日経験したことも同じような部類に入るものであろう。こちらは親の介護ほど大変な話ではないが、近くの喫茶店で女房と一緒にソフトクリームを食べている時だった。すぐ隣に座っていた二人連れの女性がしきりに何やかやしゃべっていたが、そのうちに聞こえてきた会話は、片方の女性が「最近うちの旦那が耳が遠くなって私の言うことが通じないことが多いので補聴器を買いなさいと言うのだが、旦那の方は私の喋り方が悪いからだと言って一向に言うことを聞かない」と言っていた。

 それを聞いて女房が思わず笑い、私も引きずられて笑ってしまった。女房がその隣の女性に「うちも一緒ですわ」と言ったので、そのの女性も意気投合、「どこも一緒ね」と四人揃っての大笑いとなった。

 我が家でも「聞こえない」「耳が悪くなったね」「発音の仕方が悪いからだ」「ちゃんと聞いていないからだ」などの応酬が続いている。どこのうちでも老夫婦は外では言わなくても、家の中では同じようなことを言い合っているようである。

 それがたまに他の人と話し合われると、自然と「お互いにうちばかりではない。どこも同じだ」と言う安心感が得られ、思わず笑いを誘い、知らず知らずに御互いに支え合うことになるのであろう。

 昔から「同病あい憐れむ」と言うが、病人の心を一番落ち着かせるのも、医者やナースの言葉よりも、同病者同士の話し合いであろうと言われている。

元海軍兵瀧本邦慶の95年

 朝日新聞の朝刊に、最近表題の記事が連載されている。元海軍兵で、初戦の真珠湾攻撃やミッドウエイ海戦から、最後は戦争末期のトラック島の空襲や餓死寸前までの苦難にまで遭遇しながら運よく生還してきた人の少年時代から現在に至る一生の物語にその時々の感想を交えた聞き書きのようである。

 私よりは6〜7年先輩にあたるが、戦前戦後を通じて同じ時代を生きてきて、戦争のことも、海軍のことも経験を共有する部分もあって理解しやすく、その時代の雰囲気もわかるだけに興味深く読ませてもらった。

 戦争の実際を体験する中で、海軍の階級制度や種々の矛盾に気づきつつも、忠実に職務を果たし国家に奉仕した結果としての敗戦のショックは大きかったようである。そこで初めて気づいた世の中の大きな矛盾。国家や戦争の本質、利用され苦しめられた上で裏切られた怒り。この人も私はじめ多くの同時代の人たちと同じような大逆転とも言える時代の急変、それに伴う価値観の変動を経験をされているようである。

 戦争が決して国民のためのものでなく、戦争によって利益をうる一部の人によって大勢の人が国のためと騙されて危険な目にあい、安全な所にいる一部の人たちがそれによって大儲けをする仕組みに気づき、戦後ずっと戦争反対の立場を守り続けてこられたのが大筋である。

 その体験から、今も戦争には皆で声を上げて反対しなければならないことを強調されているが、現実には戦争経験者が少なくなり、戦争を知らない世代が政治を牛耳るようになってきたことに伴い、再び戦争のできる国にしようとする勢力が力をもたげてきていることに憂慮し、「最近の若者へ」という項では、「このままだと、第二次世界大戦を繰り返す可能性が高い。太平洋戦争のあの悲惨を、もう一度味わないと分からないのか。」と嘆いておられる。

 私も全く同感である。我々は嫌でもやがて死んでいく。しかし、今後生きていく人たちにはせっかく我々の世代が遭遇した悲惨な苦難の歴史をなんとかして繰り返して欲しくない気持ちでいっぱいである。実際に経験していない人たちは過去の栄光には喜んでも、苦難や破滅の歴史は理屈では理解できても情緒的には受け入れ難いものなのであろうか。

 稀にしか起こらない自然の大災害でさえ教訓の受け継がれるのは、実際に経験した者やせいぜいその子の代までで、それ以後にはせっかくの教訓も忘れられ、同じ誤ちを繰り返すことになるようである。東北の津波でも「此処より下には家をたてるな」と刻まれた先人の教えもあらかた無視されたようである。

 それと同様なのであろうか。我々にとっては絶対に忘れ難いものであるが、戦争による破滅の経験も、今となって戦争を知らない人たちにとっては、過去の歴史も都合の良いように改ざんされて美化され、誤った栄光を再び繰り返さんがためと、ふたたび破滅に繋がる危険な道にあえて踏み出さんとする人たちが力を持ちつつあるようである。

 ドイツは二度も世界大戦による破滅を経験しているが、日本も再び破滅に向かって進むことになるのであろうか。恐ろしいことである。

 

沖縄の慰霊の日

 昨日、6月23日は沖縄戦で最後の組織的な戦闘が終わり、沖縄が完全に占領された日である。沖縄県民の4分の1にあたる12万人の人が殺された無残な戦争であり、当時の日本の司令官が「将来沖縄の人たちには特別な配慮を願う」といって自決したことをまだはっきりと覚えている。

 普通に人々が暮らしている町や村での地上戦がいかに過酷で残酷なものであるかは想像に難くないが、軍隊というものが決して住民を守ってくれるものではなく、初めから終わりまで軍のためには住民をも犠牲にするものだということをこの沖縄戦が現実に見せてくれたことも忘れられない。

 沖縄の人々の苦しみは幸い生き残っても終わらなかった。その後も、占領された住民は米軍の基地を作るために銃剣で追い立てられ、講和条約が結ばれた後も米軍による統治が27年間も続き、ようやくの本土復帰を果たしてからも米軍の基地はそのまま続き、日本の米軍基地の大半を沖縄が背負い続けることとなり、そのため米軍による事件も絶えず、住民は広大な基地の間に押し込められ、騒音その他の日常生活が絶えず脅かされる状態が72年経った今も続いているのである。

 沖縄は古くは日本にも中国にも貢ぎ、遠くはマラッカなどまでも貿易をして栄えて来た国であったが、17世紀に薩摩に侵攻に破れて薩摩支配下に置かれ、明治になって沖縄県として日本に組み込まれたところで、以来無理やり方言まで禁止されて邦化政策が取られてきた歴史も忘れてはならない。

 日本という国はこの列島の辺縁の島島をいつも本土の捨石に使って来たのであり、沖縄の人たちの立場から考えれば、本土のために常に犠牲を払わされながら、本土はほとんどそれに答えてこなかったことがわかる。

 未だに基地の押し付け、米軍優先で沖縄の住民の切実な声に答えようとしない政府の方策が沖縄の人たちの心をどこまで押しやっているか容易に想像がつく。政府の方針に乗っかって沖縄の基地反対闘争などを左翼だとかその他のヘイト発言をする人たちもいるが、沖縄の実態を知り、本土の人に沖縄の人たちが基地の負担やそれに伴う生活の困難さどれだけ本土の身代わりになっているのかを知って欲しいものである。

 自分のうちの近くに米軍の基地があって、毎日毎日朝から晩まで飛行機の騒音に悩まされ、米軍の軍用車が優先的に公道を走り、何か事故が起こっても手も出せない状態が続いていたらどう思うかなども想像して欲しいものである。

 この慰霊の日がくるごとに、あの沖縄戦を思い出し、そこで無念の最後を遂げられた人々のことを思いその霊の安らかなことを願うとともに、現在の沖縄の人々の苦しみにも共感し、1日も早い問題の解決を願わざるを得ない。