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安倍首相にあげたい言葉

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 インターネットのサーフィンをしていたら、幕末の志士、吉田松陰の言葉が載っていた。「外に媚び、内を脅す者は天下の賊である」と。それだけの言葉なので、どういう文脈の中で言ったのかわからないが、丁度、今の時期に安倍首相に献上するのにあまりにもぴったりの言葉なのではなかろうか。

 吉田松陰といえば、安倍首相や日本会議神道政治連盟などの人々が憧れる大日本帝国憂国の志士として祭り上げてきた人物である。しかも長州の人だから安倍首相の同郷の大先輩にも当たる。安倍首相もぜひ知ってほしい言葉である。

 先日の日米首脳会談での安倍首相のトランプ大統領への媚びへつらい様はテレビで見ているだけでもこちらが恥ずかしくなるぐらいで、アメリカのTimes紙などもFlatteryと表現していた。

 フロリダでゴルフをして二日も一緒にいても、世界的に問題となっている大統領の人種差別的な入国制限などのついては一言も触れず、貿易不均等などの経済的問題では、日本の国民の社会保険の財源を使ってまでしてアメリカに大規模な投資を行い雇用を創設することを提案するなどとおべっかを使い、日米同盟の強化を謳って属國の朝貢外交に勤めていた様である。

 それに対して内に向かっては、沖縄の人たちの長年にわたる一致した願いを無視してあくまでも基地の移転を進め、憲法解釈を変えてまで安保関連法案や秘密保護法を成立させ、今は共謀罪をテロ防止と名前を変えて戦前の治安維持法の再来を期すなり、強引な政治を進めている。

 こう見ると、初めに掲げて吉田松陰の言葉がまるで今の安倍政権について言ったものではないかと思われるぐらいである。

 この国の将来を考えれば、凋落に向かうアメリカの一方的な属國として、このまま自立性を放棄し、周辺の国々に「虎の威を借る狐」の態度を取り続けることの危険性についても悟るべきではなかろうか。最悪なシナリオはアメリカがこれまで繰り返してきたBuck Passingのアジア版に巻き込まれることであろうと恐れる。

観梅会

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 毎年2月の終わり頃に、卒業した北野高校(以前は中学)同窓会の観梅会が大阪城である。北野の同窓会が寄付した880本の梅がこの梅林の元となっているので、それを記念してずっと毎年現地で梅を見、記念撮影をしてから移動して、大阪城の南にあるKKRホテルで会食をすることになっている。

 いつの頃からか私もクラスメート達と一緒に、最近は毎年参加させてもらっている。今年も今日行ってきたのだが、作日まで寒さが厳しく曇っていたのが、幸い今日は晴天で日向ぼっこでもしたくなるような天気であった。梅はまだ少し早く、三分から五分咲きといったところであったが、梅林は結構大勢の人で賑わっていた。今晩からまた雨になっており、全くラッキーな観梅会であったといっても良いであろう。

 それはともかく、この会には例年百名近くの同窓生が集まっているが、毎年外見は同じようだが、よく見ると年とともに少しづつ出席者の顔ぶれは変わってきており、いつの間にか我々のクラスももう最年長に近いところに押し上げられてきたのがわかる。

 昨年と比べただけでも、昨年は三番目のテーブルであったのが今年はもう二番目のテーブルに変わっていた。昨年は最高齢の先輩から二年上のクラスまでが一番のテーブルで、一年上が次のテーブルを占めていたのが、今年は大先輩が二名だけとなり、複数以上出席は早一年上が最年長で、それも人数が減って、そこまでが合わせて一番テーブルとなり、我々が二番目のテーブルに押し上げられてしまった。

 そういえば毎年出てきておられた池田にお住まいだった先輩の方なども見かけなくなってしまったし、いつも同窓会の世話をまめにしていただいていた一年上の方も具合が悪く出てこれなくなったようである。

 我々のクラスは六人揃ったが、昔いつも出てきていたのに姿を見せなくなったものもいる。会の外見は毎年同じように見えるが、仔細に見ると中身は少しづつ代わり、まるで上から絞り出されるように年配の者から順に消えていって、新しいものがそれを補って全体としてはあまり変わらぬ外観を保っているようである。

 それに出席者の名簿を見ると、面白いことがわかった。我々より下のクラスへ行くほど出席者が多くなるのは当然だが、我々より七年下のクラスが最大となり、十二年下ぐらいまでは大勢の出席者がいるが、それから下はまた急速に出席者数が減っているのである。

 歳でいえば七十五から八十ぐらいの層が一番多いことになる。そのぐらいの年齢の人はまだ多くが元気だが決まった仕事も終え、時間のゆとりも十分なので一番集まりやすいのであろうか。それより若い人となると、まだ仕事や、仕事でなくともいろいろ雑事を抱えて出にくくなるのであろうか、。もちろんそれより若い人となるとまだ現役であったり、まだなんらかの仕事をされていたりして、平日の昼の会などには出れないのが当然だということになるのであろうか。

 見れば一番人数の多い層の人たちでも世間一般から見れば充分年寄りばかりで、白髪や背中の曲がり方、歩き方など立派な年寄りが揃っている。そう思って見ると、我々のクラスメートは今年は卒寿、よくも長らく生きてきたものだと思わざるを得ない。次第に欠けて行くのも止むをえないことであろう。あとは天命に任せるよりない。

 

ヌーハラ

 「ヌーハラ」という言葉を知っていますか?何のことかと思うと、「ヌードルハラスメント」の略だそうで、麺類を食べるときに啜る音を出すのを非難することだそうである。

 これは、日本でもスパゲッティが良く食べられるようになってから、スパゲッティをうどんのようにツルツル啜り込んで食べるのは行儀が悪い。フォークに巻きつけて音を立てずに食べるのがマナーだなどと言われだしたことに関係が深いような気がする。

 それでもイタリア人のようにフォークにうまく巻きつけて食べられない人も多いのか、アメリカでスパゲッティにフォークの他にスプーンがついて出てくるのに驚いたことがあったが、最近は日本でもスパゲッティにはスプーンもついてくるのが定番になっている。

 フォークでスパゲッティを掬ってスプーンの上で丸めて音を立てずに口の中に放り込むのがマナーということになっているようである。西欧では食事をする時に啜ったりしゃぶったりする音を出すのは礼儀に反すると言われるようで、これはこれで悪くはない。

 しかし、最近は日本でもそれに従って、食事の時に音を出すのは全て良くないことだという風潮が見られるようになって、うどんやそば、ラーメンまで音を立てずに食べろという人たちが現れ、それに反発して「ヌードルハラスメント」略して「ヌーハラ」などという言葉も出てきたようである。

 果たして食事の時に音を出すのが良いか悪いか。どちらが上品か。東洋と西洋では食事の取り方が違っていることに根ざしているもので、どちらがよく、どちらが間違っているとか、どちらが野蛮でどちらが文化的だとかいうような問題ではないのではないか。

 年寄り夫婦が落ち着いた茶の間で、湯飲み茶碗に入った熱い日本茶を、ふうふう冷ましながら一口二口音を立てて啜り飲んで茶碗を置き、ふーと一息れてお互いに顔を合わせる光景など、昔懐かしい日本を代表するような微笑ましい光景ではなかろうか。この場合など、お茶を啜る微かな音もこの光景の重要な要素になっているのである。

 また屋台のうどん屋やラーメン屋でツルツル音を立てて豪快に麺をすすり、ごくごく汁も飲み干して慌てて出て行く男の姿も馴染み深い夜の場末の日本の光景として捨てられない。

 生理的なことで音を出すのは他人に対して失礼だというなら反論もある。西欧の人たちは人前でも平気で大きな音を出して鼻をかむし、クシャミをしたら周りの人が「Gesundheit !」(ご健康に!)と言って合いの手を入れたりもする。日本では人前ではできるだけ鼻をかんだり、くしゃみをするのを抑えるのが良いとされてきた。 

 もちろん、イタリアンレストランなどで皿に盛られたスパゲッティをなれないフォークで掬いながらペチャペチャ・ツルツル音を出して食べている姿も決して優雅とは言えない。

 どちらが良いというより文化の違いなのである。もっとも簡略化して言えば、もともと西欧のように肉食文化の国では形のあるものを掴んで口にするところから食生活が始まっているのに対し、米食など穀類が主体の国ではお椀などに入れたものから食事をするようになった歴史的に大きな文化の違いがあることに由来しているのではなかろうか。

 それが歴史の流れの中で西欧ではフォークやナイフを使うようになったが、基本の食器は皿であり、食品を取り上げて口に入れるのが基本であるから音を立てる必要がないし、皿に直接口をつける必然性もなかったことになる。お皿では液体はスプーンで掬って口に入れるよりない。

 それに対して草食人の方は食物が粒や粉を水でといたよなものでは必然的にお碗のようなものにでも入れざるを得ず、入れたものを口にすることになると、碗に口をつけて食物を吸い上げるようにするのが基本動作となるので、必然的に啜る動作が入り、音も出ることになる。

 そんな基本動作に付随して食事のマナーも出来上がったので、当然文化が違えばマナーも異なってくることになり、どちらが良いということではない。むしろ文化の交流する中で中途半端などっちつかずの不安定な動作をするとちぐはぐで、場合によっては他人の眉を潜ませるような動作になったり、見えたりすることになる。

 やはりラーメンやうどん、そばなど、お椀に入った麺類はレンゲに掬って少しずつ音も立てずに食べるものではなく、レンゲは熱くて食べられない時などに一部の麺を掬って冷やすために使うぐらいのものである。本来麺にレンゲなどはついていないものであった。

 全ての麺をレンゲに掬って音も立てずに食べていたのでは時間がかかって仕方がないではないか。それにそんな食べ方をしていたのでは美味しくもないのではなかろうか。

 何年か前、こんなこともあった。ある和食の食堂でコーケジアンの中年女性が私の前方の机に座って天丼を食べていた。箸の使い方も上手に食べていたが、後の方になると丼の中は汁に浸かった飯粒ばかりになってくるので箸では食べにくくなる。しかし丼に口をつけて掻き込むようなことは西欧風のマナーからは考えられない。一生懸命に箸で何とか食べようとしていたが、箸で掬えるのはせいぜい米粒二つ三つに過ぎない。

 見ていた私はよほどウエイトレスを呼んで、スプーンでも持って行ってあげたらと言おうとしたが、そのうちにその婦人は食べるのを諦めて出て行ってしまった。他所へ行けばその地の文化に従うべきものだと思った。

 また西洋レストランでスープを飲むのを見ると日本人か欧米人かがわかる。日本人は大抵スプーンに掬ったスープをスプーンの横から啜り飲むが、欧米人は口を開けてスプーンの端を口の中へ入れんばかりにしてスープを流し込むようにして飲むのが普通だからである。

 スパゲティはフォークにうまく巻きつけて呑み込むようにすれば良いだろうが、うどんやラーメンはツルツル啜り込んで食べるのが良いのではなかろうか。

 長い歴史を持った食べ物はその歴史とともに伝わってきた食べ方を基本とするのが良いのであろう。「郷に入れば郷に従え」というのも、その地の文化を尊重しそれに従うのが良いことを諭すものである。

言い換えは悪巧みの証拠

 昨年にはイギリスのブレグジットに絡んでPost-Truthという言葉が流行ったが、

今年はアメリカのトランプ大統領の就任式などに関してAlternative Factという言葉が拡がった。就任式の参加者がオバマ大統領の時より少なかったことが写真でも明らかだったのに、地下鉄の乗客数が多かったなどAlternative Factがあると政府の関係者が言って反論するようなこともあったようである。

 丁度、最近日本でも政府が都合の悪いことをまるで反対のような言葉で言いくるめてごまかそうという傾向がますます顕著になってきたことが気になっていたところなので、同じような傾向が世界的にも見られることに驚かされた。

 人は誰しも都合の悪い時には、嘘をついたり、都合の悪い言葉を言い換えて取り繕ったりする傾向があるものである。しかし、個人が嘘を言ったりするのは、時と場合によってまだ許せるが、政府や公の機関が公式に嘘を言うのは国民を欺き、自己の責任を放棄するもので許せない。

 とはいうものの、昔から政治家と嘘とはつきものだということは誰でも知っていることである。最近でも安倍首相は消費税引き上げと言っておきながら「新しい考え」で延期したり、「TPP絶対反対、ぶれない自民党」と言っておきながら、まだそのポスターが貼られているというのに、多くの人たちの反対を無視してTPPを結ぼうとするなど、個人の付き合いでは考えられない様なことも平気でするのが政治家である。

 そういえば、かっての大日本帝国は嘘の塊のようなもので、国民に嘘ばかりついて戦争に引っ張り込み、あの無残な敗戦により国民を塗炭の苦しみの中に突き落とした歴史を忘れるわけにはいかない。自らを「神の国」とし、「皇軍」は東洋平和のためと称し

て中国を侵略し、大本営発表で国民を欺き、戦争が不利になると退却を転進、全滅を玉砕と言い換え、敗戦なのに終戦とし、その後の日本国の為政者たちも占領軍を進駐軍と呼んでごまかし、憲法で軍隊が持てないので、軍隊を自衛隊とし、戦車は特車と呼んだりもした。

 こう言った嘘の言い換えは止まることを知らぬばかりか、最近になって再びひどくなってきたようである。再び戦争の匂いを平和でごまかし、戦争を含む武力行使を可能とする「積極的平和主義」が唱えられ、安保関連法案は「平和安全法制(国際平和支援法と平和安全法制整備法)」と呼ばれ、再三廃案になった共謀罪は「テロ等準備罪」と名前を変えてまたも国会に上程され、あくまでも悪名高い「治安維持法」の復活が狙われている。

 スーダンの現地での戦闘は憲法上は「戦闘」でなく「衝突」だそうで、オスプレイの墜落は不時着、兵器は防衛装備、武器の輸出は防衛装備移転と言われるのだそうである。言葉には色々な表現方法があっても良いが、普通の人が普通に喋ったり書いたりしている言葉とまるで反対のような言葉まで使うことはいたずらに人々を迷わすだけでなく、自らをも欺くことになるものである。

 政治や社会の言葉はできるだけ多くの人が同じ言葉を同じ意味合いで使うようにして、共通の認識を得ることが必要なものであるが、それをわざわざ反対のような言葉で言うことは人々を混乱させて理解を困難にして、為政者の目的を達しやすくしようとする姑息な企みと考えざるを得ない。

  どうも今の安倍政権はかっての大日本帝国に憧れているようである。戦争がまた廊下の隅にまでやってきそうな気配すら感じられ始めてきているこの頃である。

犬か赤ん坊か

 私の子供の頃には犬は外で飼い、猫は家の中で飼うのが普通であった。それが当たり前だったことは童謡でも「雪やこんこんあられやこんこん、降っても降ってもまだ降り止まぬ。犬は喜び庭駆けまわり、猫は火燵で丸くなる」と歌われていたことでもわかる。

 当時は飼い犬は番犬としての役割が大きく、秋田犬のような芝犬の系統のものが主で、庭の犬小屋で飼われ、外来者が来ると吠えて来客を知らせるような役割を担っていることが多かった。用心が悪いので犬を飼おうとする人などもいた。大抵は残飯などで養われていた。

 ところが最近はどうも犬も家の中で飼われることの方が多くなり、番犬というより愛玩用のペットとして飼われることの方が多いらしく、それに伴って犬の種類も小さなポメラニアンとかチワワのようなものが主になり、まるで家族の一員のような扱いで可愛がられているようである。名前も「ぽち」とか「クロ」など呼び捨てでなく「ちゃん付け」か外国風のカタカナ名で呼ばれるのが普通である。

 餌ももちろん残飯のようなものではなく、専用のドッグフードが当たり前で、犬の愛玩用のおもちゃまである。飼い主と一緒に食事をして、飼い主のおかずを分けてもらうことさえあるらしい。可愛いさ余ってもう人と犬の区別もつかなくなる人もいるようで、いつかびっくりしたのは、飼い主の女性がソフトクリームを買い、自分で少し食べてから「**ちゃん」と言って犬に一口舐めさせて、その後また自分で食べているのを見たことがある。

 また外へ散歩に連れて行くにも、服を着せたりしているのもよく見かけるが、近頃はドッグウエアとして売っているようである。ごく近くの散歩なら良いが、少し遠くまでとなると、小さい犬では人間と同じように歩かせては可哀想と思うのか、テンポが合わないので自分が困るからか知らないが、子犬を抱いて散歩している人もよく見かける。乳母車に犬を乗せていく人も時々いる。

 先日家の近くの道路で見た光景も面白かった。最近は赤ん坊をおぶる習慣がなくなって、大抵前に抱くのが普通になったが、寒い時期だと、皆オーバーを羽織ってその中にあったかそうな衣類で包むように抱いており、赤ちゃんの頭だけがかろうじて見えるぐらいのことが多い。そんな格好の人を追い越した時、何んの気もなしにふと見ると、抱かれているのは赤ちゃんではなく犬だったのでびっくりした。可愛いワンちゃんともなれば、寒かろうと思って赤ん坊と同じように暖かくしっかりと抱いていたのであろう。

 そう思って歩いていると、少し後でまた同じような場面に出会い、ひょいと見るとその人もまた犬を抱いてるではないか。こんなに皆が赤ん坊のごとくに犬を抱いているのかと更にびっくりしたが、この場合はよく見ると毛羽立った厚手の帽子に動物のような耳がついたのを赤ん坊に被せていたのであった。人かと思えば犬、犬かと思えば人ということであった。

 同じ犬でも昔と今では飼われている条件はまるで違っている。犬も人ももう昔のことは知らないだろうが、あれだけ可愛がられていて、犬の人に対する忠誠心のようなものは今も昔も変わらないものであろうか。忠犬ハチ公は今でもいるのだろうか。警察犬や盲導犬などは当然忠実であろうが、愛玩用のあんな小さな犬では、どうやって忠誠心を示すのであろうか。

 愛玩用の子犬は年寄りや単身者などの孤独は癒してくれるであろうが、私の好みは飼うならやはりもう少し大きな活発な犬である。それにしても最近見かけたヨボヨボの老人が老犬を連れて共にトボトボと歩いている姿は最近の世相を反映しているようで何か哀れであった。今は犬の安楽死なども囁かれているようである。

雪を待つ

 雪国の人には申し訳ないが、雪の少ない大阪に住む私は冬になるとやっぱり時には雪が降ってくれるのが待ち遠しい。

 雪のない台湾の人に北海道が人気があるのもよく分かる気がする。雪が積もった銀世界は雪を見慣れない人たちにとってはやはり珍しい憧れの別世界なのである。たまには日常から離れて平素あまり経験したことのない世界に浸ってみたいと憧れるのは当然のことではなかろうか。

 私が子供の頃には大阪でも今よりもう少し雪が降ったような気がする。大阪の北の郊外である箕面で子供の頃を過ごしたが、雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊んだ記憶もある。その証拠のように、雪の中を走っている時にしもやけで膨れた左手の中指が右手の指に触れてしもやけが破れて出血した後が80年後の今でもかすかに残っている。

 ところが地球の温暖化の影響なのかどうかは定かではないが、最近はさっぱり雪が降らなくなってしまった。どうにか雪だるまが出来るぐらいの積雪で一番近い過去の思い出が、すでに成人した孫がまだ幼児の頃のことである。庭で雪だるまを作って帽子をかぶせてやった時の思い出ももう20年近くも昔のことになる。

 以来ずっと一冬に雪が降るのはおおよそ1〜2回ぐらいしかない。そのうち1回が一面の雪景色を作るぐらいで、後の一回は雪が降ったが積もるところまでいかなかったという程度のことが多い。

 今年も一月に一度、朝一面の雪景色になったことがあり、行きがけに近くの若い家族が親子で道路の雪をかき集めて雪だるまを作るのだと言っていたが、雪は大阪へ着くともう全くなく、池田の雪も帰宅時には消えており、雪だるまを作っていた家にもそれらしき形跡も見られなかった。

 それについで、この二、三日の寒気の到来である。今度は西日本に積雪が多く、鳥取などでは例年の5倍だかの積雪量というから、大阪でも少しは降るのではと期待したが、又しても外れてしまった。せっかく寒気が南下して気象予報では大阪にも雪マークがついていたので今度こそと思って、朝早く起きて期待して窓を開けて見たが雪は全く見られない。日本海側では大雪でJRや車が止まったり、大量の積雪で雪下ろしや雪かきなどで大変だったようなのに、こちらはそのおこぼれさえなく、寒いだけであった。

 川西や池田でも、五月山は白かったし、少し山の方にでも行けば、多少の雪はあったようだが池田の平地では全くない。せいぜい雪が時折ちらつく程度に過ぎなかった。

 見渡す限り一面真っ白になった雪景色、白くなった家々の屋根や、庭木の枝に積もった雪、しっとり積もった雪の間から顔をのぞかせる赤い山茶花なども美しいし、雪道に残された人の足跡の思い、真っ白な雪に自分に足跡を刻みながら歩く爽快さ、止まった車に積もった雪、寒さで凍りついたフロントガラスなど、寒くても非日常的な光景はやはり懐かしい。

 せっかく冬の寒さに曝されるのなら、せめて別世界の幻想的な雪景色を1日だけでもよいから見せてもらい、少年時代に帰ったように楽しみたいものである。

 冬中続く雪に閉ざされた生活、雪かき、雪下ろしなど寒い中での重労働のきつさは十分想像できるし、嫌でもそれから逃れられないで苦労をされている北国の人たちにとっては、自分勝手なわがままな夢だと叱られることはわかっているが、それでもやはり、子供のように、せめて一冬に一回ぐらいは雪景色になってくれないかと待ち遠しく思わないではおれないのである。

あべ安倍内閣の支持率はなぜ高いのか

 新聞などによると最近の安倍内閣の支持率はJNNの世論調査では昨年の暮れに比して6%上がり、67%になったと言われる。

 安定した政権運営が国民の高い評価を得ているからだといわれ、昨年暮れの韓国による釜山の日本総領事館前の慰安婦像設置に抗議して駐韓大使及び釜山総領事を帰国させた対応なども背景にあるようだとされている。

  安倍政権については、ここ2〜3年の間にますます強引な政治姿勢を見せるようになり、アベノミクスの効果が上がらないのに道半ばでさらに推進するとするのはまだ良いとしても、憲法解釈を変えてまで、秘密保護法や戦争法案と言われる安保関連法案を強行採決して戦争のできる国にし、原発を再稼働し、メディアに干渉して言論の萎縮を引き起こし、沖縄の民意を示した選挙結果を無視して米軍基地建設を強行するなど、多くの国民の反対の声にも逆らって何処までもアメリカ追随姿勢で進んでいるのにである。

 アメリカ大統領が予想に反してトランプ氏になってからの安倍内閣のアメリカ追随姿勢は眼に余るものがある。クリントン大統領と思っていたのがそれまで無視していたトランプ氏と決まって慌てて就任前に挨拶に行ったり、早期の首脳会談を目指してその土産に日本の年金基金を利用してアメリカの雇用を70万人増やす提案をして媚びを売るなど、国民を無視して宗主国に頼り、そのポチになろうとする姿があまりにも哀れである。当然社会的に反対のうねりも大きいことは多くのデモや集会、各種のメディアを見ても明らかである。

 しかし、それにもかかわらず。支持率がこれだけ高いことはなぜか。これを無視してはならない。安倍内閣を支持する人がこれだけ多いという現実をも直視するべきである。

 選挙制度の問題もあるが、現実に社会を動かす選挙では、いつも政権側が勝ち、反対勢力が涙をのんできたのがこれまでである。この力関係を逆転させるためにも、事実を直視し、世論の政権支持率の高さの原因を明らかにし、いかにそれを打ち砕くかを真剣に考え、実行しなければ反対の声が実を結ぶことはありえない。

 Post-Truthという言葉が広がる状況を知り、反知性主義ポピュリズムの依って立つ背景を知らなければならない。戦争を経験した世代が亡くなっていき、資本主義が独占的な金融資本主義となり、格差が極端に広がり、IT, ARやIoTの時代になるなど、新しい社会の変化が人々の生活や願望を変えていく世界の流れを知るべきであろう。ヨーロッパでも右翼勢力の台頭があり、アメリカ大統領にトランプが選ばれた背景も知らなければならない。

 こういった世界的な潮流の上に、日本の特殊性についても考えなければならないであろう。日本では江戸時代から長らく続いてきた「村社会」は戦後も「会社社会」として生きながらえ、西欧的な個人が確立することなく馴れ合い、もたれ合いの傾向の強い社会が今尚続いている。 それに依って、業界ぐるみの権益を通じての権力との結びつき、馴れ合い社会 補助金政治などが未だに強く、本音と建て前とが異なり、個人的な論理よりも集団的な馴れ合い権益が優先し、それが政治を動かす強い勢力となっている。

 したがって、個人的な正しい意見よりも権益につながる業界の意見が優先するので、正論も業界内では無言の圧力で封殺されることとなり、小選挙区制をはじめとする政治体制により少数派は無視され、金まみれの村社会制度による政治権益などのために真の対抗勢力が育ちにくいこともある。

 そこに相対的な支持、無関心、投票率の低さ(庶民の諦め、無関心)なども絡んできている結果が現在の支持率の背景にある事柄ではなかろうか。最近の SNSの世界では政府批判の投稿に避難の声で炎上することさえ起こっている。

 秘密保護法、安保関連法案、テロ等防止法などの政府の立法に加えて、メディアや自治体の日和見主義や萎縮、教育への干渉、右翼勢力の台頭など、次第に戦前と同じような様相を呈して来ている。

 これを覆すには広範な国民の支持を背景にした全野党の共闘しかないだろうが、果たしてどうなるであろうか。私はもう死んでいないであろうが、再びあの惨めな戦争にだけはなって欲しくないものである。敗北主義と言われるかもしれないが、今は人々の叡智に頼るしかないのが情けない。